いつかこの街で

@peachy04

第1話 海が見えない



都心から地下鉄と電車を乗りついで数十分。おしゃれだねとはお世辞にも言えない、ワンルームのアパートで俺は途方に暮れていた。


「というわけなの、ごめんね、春斗くん」


引っ越してきて三週間。昨日の夜ようやく最後の段ボールを片付けたところだ。


「まさか静お婆ちゃんが倒れちゃうなんてねぇ」


静さんは今年七十四になるこのアパートの管理人だ。つい先週、町内のカルチャー教室に通い始めた話を聞いたのに。


「それで、静さんの具合は大丈夫なんですか」


「しばらく入院が必要なのよ。お婆ちゃんすっかり元気がなくなっちゃって。まだまだ若いもんには負けない、なんて口癖のように言ってたのにねぇ」


アパートの一階の俺の部屋は六畳。築年数は古いが、俺が入る数年前にいわゆるリノベーションが施され、住み心地は上場だった。


手土産にいただいたケーキをお皿に乗せ、アイスコーヒーとともにテーブルに乗せる。四月だというのに、今年の夏はもうすぐそばまで来ているらしい。


「それでね、引っ越してきたばかりの春斗くんにはとても申し訳ないのだけれど」


佳穂さんは顔を曇らせながら頭を下げた。


「このアパートを近いうちに閉めたいと思うのよ」





「それでお前、二つ返事で了承しちゃったのか」


学食は特にこの時期は混むらしい。なんとか席を確保し、弁当を広げる俺の横に、日替わりランチを持って颯太が戻ってきた。


「だってしょうがないだろ。静さんはいつ退院できるかわからないし、佳穂さんだって静さんの看病と、単身赴任している洋一さんの世話で行ったり来たりになっちゃうだろうし」


誰に言い訳するわけでもないが、世の中しょうがないことはしょうがないのだ。


「佳穂さんと、洋一さん、って管理人の娘夫妻だっけか」


「そう。誰か代わりに管理人やってくれるような人もいないみたいだし、今アパートに住んでるの俺とあと一人しかいないし」


そのもう一人の住人も急な転勤でちょうど四月いっぱいで引っ越すことになっていたのだ。これはもう運命なのだろう。


「静さんにも佳穂さんたちにも、短い間だったけどよくしてもらったし」


手作りの卵焼きは砂糖を入れすぎたせいで少し焦げてしまった。颯太のお皿から一つ唐揚げを失敬してご飯を頬張る。


「お前ってホント」


一つため息をついた颯太がおもむろに俺の頭に手を乗せる。


「お人よしだなぁ」


颯太は大学に入って初めてできた友達だ。入学式の席が隣で意気投合し、帰りにカラオケに行った。知り合って間もないが何かと俺のことを気にかけてくれる良いやつだ。


「実家暮らしの颯太はお気楽で良いよなぁ」


静さんは俺のことを気にかけ、入院中にも関わらず知り合いに良いアパートがないか毎日のように電話してくれているらしい。佳穂さんは急がなくていいと言ってくれたけど、このままだと静さんの重荷になってしまう。


とは言っても今のアパートですら何か月もネットで検索して、東京に来て何日も歩き回ってやっと見つけた格安物件だったのだ。引っ越しのシーズンも過ぎた今なら見つけるのはさらに困難だろう。





田舎から特急と飛行機で何時間。憧れていた大都会は優しく俺を受け入れてくれたと思っていた。俺はもうすぐ住む場所を失う。地理もわからず、知り合いもほとんどいないこの街で。学食の窓から外を眺める。高い建物と飾りのようなほんのわずかな緑。


―あぁ、この街からは海が見えないな、ぼんやりと俺はそんなことを思った。

















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