十六歳の夏とゲロもんじゃ

カエデ

十六歳の夏とゲロもんじゃ

俺と矢部センパイは「もんじゃ 月宮」に居た。千葉の片田舎じゃ美味い飯屋も糞も無い。半径1キロ食事処などありはしない。まず、ここ以外の選択肢が無かった。

センパイと向かい合って座ると無防備なキャミソールから、先輩の薄い谷間が容易に覗ける。午後五時という中途半端な時間帯は客数少なく、新聞紙広げた禿の親父しか居ない。

 店の隅には誰も見ていないのにテレビがくだらないクイズ番組を垂れ流している。飛沫した油が長年少しずつ蓄積し、画面を黄色くしてしまっている。

鉄板からの熱気がジリジリと額と頬を焼く。ハイボールジョッキを握る右手に水滴が垂れた。刻みキャベツで作った輪の中では出し汁がボコボコと沸騰していた。

「もーいいべぇ? 混ぜるよぉ」

 矢部センパイが顔を赤くしながら舌足らずな調子で小手を掴んだ。元々悪かった滑舌が舌ピアスを入れてからもっと悪くなった。その上酔っぱらうと、しっかり聞き耳立てないと言葉を拾えない。

センパイは俺の返答も待たず、もんじゃ焼きをグチャグチャに混ぜ合わせ、カラスの悲鳴みたいな笑い声をあげた。

「見て見てぇ! やばくねコレ! 完全にゲロもんじゃぁ!」

 一体何が面白いのか、センパイともんじゃ焼きに行くと必ずこれを言う。そして一人で笑う。

「いやー、実際そんなゲロには見えないっすよ」

「うぇ~、ほら。これ。見て。ゲロ! ゲロ! いひひーっ!」

 先輩が小手で突きながら笑っていると店主の美香子さんが塩キャベツを持って来た。

「うるさいよ! もんじゃ屋でゲロゲロ言うんじゃないよ!」

 いつもムッスリした顔つきの美香子さんはお世辞にも愛想が良い接客とは言えない。やや曲がった腰が辛いのか、酷い時には「取りに来な!」などと厨房から叫んだりした。

「美香子さ~ん、あたしもう嫌だよ~」

 センパイは泣く真似をしながら言う。友達だと思っていた男にキスを求められ断れずしてしまったらしい。

 美香子さんはぶっきらぼうに塩キャベツを並べながら聞いていたが、すぐ様矢部センパイの側頭部でツン、とつついた。

「何回やれば気が済むのかね、この頭は。女ってのは、男に依存しちゃダメなんだよ。あたし見てみな。ずっと一人でこの店切り盛りしてんだ。男なんて必要ないの」

「だって寂しいもん~」

 ショートのウェーブがかかった金髪。ピンクのキャミソール、短いデニムスカート。耳には合わせて五つもピアスが付いてる。

その姿はファッションセンスが良いとは言えず団地育ちの貧乏な不良にしか見えない。メイクもろくにしてないし、細い眼とややの豚鼻、覗く八重歯が頭が悪そうな印象を与える。いや実際矢部センパイは一個下の俺から見て相当なバカだった。

何と言っても物を知らない。十八歳でこんなに無知で大丈夫なのかと思う。まず自分の生年月日をスッと言えない。年号と西暦で詰まる。自らが住む千葉県、それと北海道と沖縄しか都道府県の場所が分からず、日本の首都が東京という事も分かっていなかった(と言うより首都という言葉を知らなかった)

 そして頭の回転も悪かった。何回言っても大富豪の簡単な定石を理解出来ず、説明しながら怒りそうになってしまった。

 美香子さんがセンパイの頭をグリグリと撫でつけながら「馬鹿だね」と言って隣に座った。

「ちゃんと学校行きな。勉強して、友達作ればいいの」

「無理ぃ。あたしバカだもん」

「バカだから勉強するんだろ! 翔太に教んな!」

 美香子さんが俺の背中をばしっと叩いたのを見て、またも甲高い声で笑う。

「ショータは頭良いんだよぉ。ヤバくね? 船橋だよ? 船橋」

 船橋学園、ここいらの優秀な人間が集まる代表私立校。中学の時、学年上位だった俺は、地元の奴らがあまり行かない船橋へと進学した。

 家から船橋までは片道二時間弱かかった。知り合いも誰もおらず、また船橋の奴等とは全く気が合わなかった。そして、なにより俺は船橋では下から数えた方が早いくらい成績が悪かった。

「あんな学校クソです」

「ショータも学校なんてやめちまえよ~」

 ソーダ梅酒をグイグイ飲むセンパイが笑う。美香子さんがその頭を叩いた。

「ばか! 先輩が後輩悪い道に誘ってどうするんだ!」

「悪い道じゃないよー。ショータに聞いてみ。船橋の奴らマジクソだから。成績良い奴って性格悪い奴多いよ、ほんと」

 美香子さんが何か言い掛けた時、奥の禿おやじが「冷やと板わさ頂戴」と良く通る声で言った。

 美香子さんが「あーい」と返事をし、重そうに腰をあげる。

「ま、高校くらいは出ておきなよ、今時さ」

 そう言って奥へ引っ込む。矢部センパイは「高校かぁ……」と手に持った梅酒ソーダをくるくる回しながら呟いた。

「あ、じゃあさ! ショータも一緒に定時行こうよ。なんかママが行け行けって超うるさいんだよね」

「定時っすか。佐原ん所に確かありましたよね」

「そうそう! そこそこ! ママが言ってた!」

 ふと、その未来を想像してみる。定時制というのがどんな人間が集まるか分からなかったが、少なくとも船橋のつまらないガリ勉達よりかは面白い奴が居る気がした。

 例えまた馴染めなかったとしても矢部センパイが居る。

 黙ってウーロンハイをすする。何を思ったのか、向かいに座っていた矢部センパイが俺の隣へと移って来た。

ドギマギと対応出来ない俺の横へ、ずいっと詰めて来る。

 小手で小分けにしたもんじゃを鉄板に押しつけ、小皿に盛る。「はい」と俺へ渡す。

「ね、マジでどう? 佐原近いし、ソレももう五月蠅く言われないしさ」

 センパイが俺の短い茶髪へと手を伸ばし、くるくると弄ぶ。夏休み入る少し前に染めたものだ。当然生活指導室行きだった。

「本当は金にしたいっしょ? ピアスもさ、空けたげるよ。もうプロだからあたし」

 耳に並ぶ銀色のピアッシングが鈍く光る。

「まぁ……そうですね」

 何故か、矢部センパイがさらに距離を詰めてくる。太股と太股が触れる。ちら、とセンパイの方へ視線をやると細い目で俺を見つめている。それよりも、キャミソールから浮いたブラへと視線が行ってしまう。

「でも俺ん所も親うるさいんで……」

 すぐ様興味無いフリで視線を戻し、ウーロンハイで乾いた口を潤した。

「ふーん」

 何故か、センパイは急に高校の話など興味を失ったように素っ気ない声になった。俺のふとももに手をおいて、ハーフパンツ越しに撫でて来る。

「……この後どうする?」

 その言葉がどういう意味を持っているのか、もう俺は知っていた。ピンクの薄い唇に頭がいっぱいになる。八重歯を見せながら笑う顔は、無邪気な子供のようであった。

「……この間の気持ち良かった?」

 矢部センパイはバカだ。バカだけど、女としての本能は人一倍強かった。声を落とし、身体を密着させて、どうやったら男がなびくか知っている。

「やめましょ……その話は」

 センパイの家は母子家庭だった。忙しいのか、あまり家にはおらず良くたまり場として使われていた。

 あの日、たまたま宅飲みで最後まで俺とセンパイだけが残っていた。ベロベロに酔っぱらった俺たちはキスをした。どっちからという事も無かった。「勃ってんじゃん」と、まるでゲームで勝ったかのような調子でセンパイが笑う。ベロについた舌ピから目が離せない。最後までしていいか聞くと「それはだめ」と言った後「口でしたげる」と、ズボンを脱がせた。

 ファーストキスと同時に俺は初フェラも経験した。

「うち、来る?」

 肩に押しつけられた胸の感触から逃れるように、俺は少し尻の位置をずらす。

「いやいや、城島さん来るじゃないですか」

「だってもう一時間も来てないじゃん。既読もつかねーし。また来ないよ」

 城島猛さん。俺らの地元で知らない人はいない。ここいらの不良を締めていて、地元チーム「デス・ハイ」のリーダー格だ。ラッパーで誰だかのゲストでCDにも載っている。

 その時、店の外でブォンブォンとけたたましいバイクの音が聞こえた。

「あ、来た」

 途端に、パッと矢部センパイが離れ、向かい側に座る。ガラガラと開いた扉から出てきた存在に膨らんでいた劣情もしぼむ。

 浅黒い筋肉質の身体でランニングシャツが伸びている。金のネックレス、ツーブロックの髪型。周りを威嚇するような出で立ちは身内でもビビってしまう。

 城島さんは俺と矢部センパイを見つけ「おー」と軽く手をあげた。同時に「大ビール!」と奥へ叫ぶ。

 城島さんはバイクで来ているというのに、美香子さんは「はいはい」と返答した。彼女曰く「三杯までなら酔った内に入らないよ」らしい。そのいい加減な対応は、俺たちのような未成年にも平然と酒を出してくれる。

 今時、なかなかそんな店は無く俺たちはここ「もんじゃ 月宮」を重宝していた。

「タケ遅いよぉ」

 センパイが甘えた声で唇を尖らせる。城嶋さんがぶっきらぼうに腰を下ろし、長財布やらタバコやらジッポやらをジャラジャラテーブルに広げた。

「うるせぇ。酒飲んでもんじゃ食ってただけだろ」

 赤マルから取り出した一本をくわえ、ジッポをカチンと開く。その一連の動作が余りにスムーズで、いつも練習しているんじゃないだろうかとすら思う。たっぷり吸い込んだ煙を怪獣のように吐き出す。

「一本ちょーだい」

 言いながら赤マルに手を伸ばすセンパイに、城島さんが眉をしかめた。

「自分で買えよ」

「だってコンビニ五つ行って全部駄目だったんだもん」

「翔太は? 吸う?」

 センパイには苦言を呈した癖に、俺にはなぜ箱から一本取り出して勧めてきた。

「あ、俺は吸わないんで……」

「うっそ十六で? 俺十四でもう吸ってたぞ」

 わざとらしく驚くフリをされる。

(知るかよバカ)

 と心の中で毒づきつつも、適当な愛想笑いで対応する。

「じゃぁホラ、一本やるから」

 半ば強引に押しつけられた煙草をポケットにしまった。城島さんがメニューに手を伸ばしながら言う。

「何か頼んだ?」

「このもんじゃだけ」

「んだよ、腹減ったな。あ、おばちゃん焼きそば大盛り」

 タイミング良く大ジョッキビールを持ってきた美香子さんに頼む。美香子さんが「はいはい」と答えた。

「てか、何で翔太居んの?」

「あたしが呼んだんだよ。別にいいじゃん」

「いや今日のイベント、ID要るから翔太入れねえぞ」

「えー。入れてやってよ。あたしは入れるのに」

「バカかよお前。お前はスタッフだから入れるんだって何回言わせんだ。つーか、バイクだろ俺」

 城島さんが銀のアルミ灰皿に灰を落とす。

 矢部センパイからは「月宮でもんじゃ食べよう」としか誘われなかったが、どうもこの後クラブイベントへ行く約束をしていたようだ。

 既に時間は夜の七時を過ぎている。この後始まる夜のイベントに俺や矢部センパイのような未成年は客としては入れない。

「あ、俺、飯食い来ただけなんで大丈夫です。適当に帰るんで」

 色々察して先んじると、城島さんが「悪いな」と吸い殻をもみ消しながら言った。

「あ、ヤバ子、お前今日のセトリ覚えてる?」

 ”ヤバ子”城島さんが矢部センパイを呼ぶ時の呼称だ。

何故ヤバ子なのか聞いた時「こいつマジヤバイから」と声を上げて笑った。そのヤバイというのは、何に対しての事だったのか。

「え? 聞いてないよ」

「ざっけんな。送っただろ」

「あれ前のじゃないの?」

「前と同じでやんだよ。もういいから順番だけ間違えんなよ」

 高圧的な物言いに、センパイが分かりやすくしょげていく。両手で持った梅酒ソーダに視線を落とし「うん」と小さく頷いた。

 センパイと城島さんは付き合っているのだろうか。どうにも気になるが、聞けなかった。

 それを聞いてしまうと、もうセンパイと二人きりで会えない気がした。



      ※



「……暑っちぃな」

 二人は行ってしまった、二ケツで必要以上にバイクを空吹かせて。

 真夏の夜はまとわりつく湿気が鬱陶しい。林から聞こえる虫と蛙の大合唱が耳障りだった。

 暑さと騒音の不快感に締め付けられながら、住宅街を練り歩く。周りより一回り大きな白い一軒家が俺の家だった。

 そっと、気づかれないように玄関扉を開ける。ガチャというドアノブの音なるべくなるべくさせぬようゆっくりと行う。

居間の電気がまだついており、テレビからドラマの音が聞こえる。上手くすれば、このまま二階の自室へ行けるだろう。

「翔太ぁ? 帰ったの?」

 その居間からした母の声に舌打ちしそうになる。「うんー」と声だけで返事をする。

「ちょっと来なさい」

「汗かいたら先風呂入るーっ!」

「いいからちょっと来なさい」

 感情的では無かったが、明らかに怒っていた。短く溜息をつきながら居間へと向かう。既にテレビを消した母が、仁王立ちでこちらを見つめていた。

「今、何時?」

「八時半」

「遅くなる日は事前に決めた日にする約束だよね? どこ行ってたの?」

「先輩とかと飯行ってただけだよ」

「……あんたお酒飲んでるでしょ」

 黙秘。

「学校、夏期講習あるでしょ? 夏休み中一回でも行った?」

 説教がいつもの奴になって来たので、踵を返し自室へ向かう。

「待ちなさい! 成績落ちた事は気にしなくて良いって言ってるでしょ! 不貞腐れるのはやめなさい!」

 返事の代わりに部屋の扉を思い切り閉める。バァン! という音の後、何も聞こえなくなった。

「……面白くねえ」

 今頃、センパイと城嶋さんは仲良くクラブで遊んでいるのだろうか。二人とも「年上だから」と奢ってくれるようなタイプでも無かった。16歳で一食1500円は痛かった。

 それでも行ったのは矢部センパイが誘ってくれたから。店着いた時「この後タケ来るから~」には、やはりガッカリした。本当に城嶋さんが来なかったら良かったのに。

 ポケットから財布を取り出すと、煙草が一本ぼろり、と落ちた。瞬間、脳裏に自らの喫煙歴で偉そうにする姿が浮かぶ。

「煙草くらいでバカじゃねえの」

 こんなもの吸っている事を自慢されるのに我慢ならなかった。何で手に入れたかも忘れたライターを引き出しから手に取り、ベランダの窓を開けた。

 右手に持った煙草にジリジリと火をつけるが中々つかない。おかしいとネットで「煙草 吸い方」と調べる。

「吸いながらじゃないと火ぃ点かないのか」 

 あの時、吸ってみなくて良かった。きっとあの二人は今みたいな俺を見て、手を叩いて笑っただろう。

 こんなに顔に火を近づけた事が無かったので、少し怖かった。そしてライターの火が煙草に点いた途端。

「ーーーーっ!?」

 身体が拒絶反応を示し、まるで空気で溺れたかのような感覚に陥る。バフンバフンと喉が裏返るほどせき込み、四つん這いに倒れた。

 息を吸い込む量が分かっておらず、深呼吸してしまっていた。未だケホケホせき込みつつ、もう一口吸う。灰特有の苦みみたいなものが舌の上に広がり、不味さにえづく。

 酒を飲んだ時とは違う覚醒感が気持ち悪く三分の一も減っていない煙草を揉みくちゃにした。

「くだんね」

 酔っぱらってかいた汗をシャツが吸って気持ち悪い。だが風呂に入るには下に居る母と顔を会わせなくてはならない。

 何もかもが面倒で、ボーッと横になっていると腕にセンパイの胸の感触が蘇った。口でしてくれた日から、一体何度あの思い出で抜いたか分からない。チラッと扉を開き確認した後、またもあの夜を思い出し、一人でしていた。



      ※



 そのまま何をしていたのか分からない日々を一週間過ごした。

バイトしたり、中学の友達と会ったり、宿題したり……。その全てが何だかありきたりな日々に感じていた。

 あれから城嶋さんや矢部センパイから連絡は無い。

 十時も過ぎた頃ようやく目覚め、スマホを手に取るとラインに未読が溜まっている。

「翔太、夏期講習来ないの?」

 唯一の仲の良い同級生からメッセージが届いていた。そう言えば今日は午前と午後にある。

 こんな毎日を過ごしていても仕方がない。「午後から行く」と返信、タオルケットを蹴飛ばし身を起こした。



「出かける。七時前には帰るから」

 夏期講習へ行くと伝えるのが妙にしゃくだったので、制服姿が見つからないよう家を出た。

駅前での道のり、首筋にジリジリと陽が焼き付けて来る。喧しいセミの大合唱が煩い、入道雲は今に倒れてきそうな程積み上がっている。アスファルトが焼けた鉄板のようだ。

背後からするバイクの音が嫌に聞き覚えがあった。やけに吹かす、この音は。

「翔太っ!」

 横にビタッと止まったのは城嶋さんだった。何だか妙にあせった顔をしている。

「あ、お疲れ様です」

「お前、学校あんの? 夏休みじゃねえの?」

「何かちょっと呼び出されて……」

夏期講習と答えるのが恥ずかしかった。真面目に勉強していると思われるのが。

「へえ。ってかさ、ヤバ子知らねえ? 連絡とか来てない?」

「え、無いですよ。どうしたんですか?」

「わかんねぇ。何かこの間イベントぶっち切って。連絡してんだけど全然返信しねえんだ。周りも全然分かんなくて。飛んだ臭いんだよね」

 ”飛んだ”というのがどういう意味なのかイマイチ分からなかった。

「不味くないですか? イベントって……」

「それはまぁ良いんだけど……。まぁいいや、連絡来たらソッコー教えて!」

 半ば無理矢理話を切られ、そのまま駅の方へと走って行ってしまった。

 一体どれくらい連絡が無かったのか分からないが、不安だった。

『お疲れっす! なんか城嶋さんが探してましたけど、大丈夫ですか?』

 一応、メッセージを送っておく。城嶋さんが連絡取れないのだから、俺も無視されるだろうが……。

だがポケットにしまおうとしたスマホが即座にブルッと震えた。

『今日、夜時間ある?』

 矢部センパイだった。すぐに『ありますよ。月宮で会いますか?』と返す。

『ごめん、月宮は無理。前に家来たよね? 場所分かる?』

『覚えてますよ』

『七時頃来れない?』

 道の往来で立ち止まり、陽光が反射するスマホ画面を必死に打つ。額の汗がポタリ、と画面に垂れる。

『いいですよ』

『悪いんだけど誰も呼ばないで。一人で来て欲しい』

『城嶋さんにも言わない方が良いですか』

『絶対言わないで』

『わかりました』

『ありがとう。ショータほんと良い奴だよね』

『そんな事ないですよ』

 そこからの返信は無かった。頭の中が夜の事でいっぱいになってしまい、うわの空で聞いていた夏期講習はあまり身に入らなかった。


     ※


『やっぱ遅くなる』

 母に一言だけメッセージを送り、センパイの家へ向かう。最寄り駅から二駅の場所だった。

『もうすぐ着きます』

『誰も居ないからそのまま入っていいよ』

ドキドキと脈打つ心臓に「大した事ないだろ」と言い無理矢理平静を装う。

公営アパートの三階、矢部という手書きの表札が出ている。

鉄板のようなギィギィなる扉を開き「お邪魔します」と中に入った。

センパイの家はゴミ屋敷とは言わないが、綺麗とは言えない。染みだらけの下駄箱の上には、はぎれのようなマットが敷かれ、安っぽい花瓶に刺さった花は枯れている。廊下にはところどころゴミが落ちてるし、猫のような臭いが充満している。

奥の台所からヒョイ、とセンパイが顔を出した。

「あー来たっ! ね、ラーメン食べる?」

 一瞬、裸エプロンなのかと思った。シャツに短パンなのでそう見えただけだった。

「マジっすか。超嬉しいです」

 調味料や古びた野菜が並ぶテーブルで、卵が乗っただけの袋ラーメンを食べた。

そのまま冷蔵庫から取り出した缶チューハイを持って、居間から和室へ移動した。

敷きっぱなしの煎餅布団が並び、二人で並んで体育座りになる。

「ま、とりまちょっと飲もうよ」

 センパイはテレビの話だとか、最近聞いてる曲だとか、明日には覚えていなさそうな事を矢継ぎ早に話していた。俺も本題を聞き出す事が出来ず、ただ笑う事しか出来なかった。

二十二時も過ぎた頃、そんな話題も尽きてしまい、二人で黙って缶チューハイをちびちび飲んでいた。

何か、何かと話題を探すがもうどうしようも無かった。それは止めておけ、という自身の忠告を聞く事が出来ない。

「あ、あの……」

「んん~なぁにい?」

 酔っぱらっているのか、おどけているのか、センパイが間延びした声を出す。

「いやー、何て言うか、な、なんかあったんですか?」

「ん……? うん、まぁ……」

 視線も合わさず曖昧に答える。何かあったに違いない。色んな想像が頭の中をぐるぐると回る。

「あの……ね」

 たっぷり三十秒くらいの間があった後、ようやく口を開いた。

「なんか……生理……来なくて……」

 チビ、と缶チューハイを一口間に挟む。

「調べたらやっぱ……うん……妊娠して……てね……」

 それは正直、予想していた事の一つではあった。だが、そのままセンパイがポロポロと涙をこぼし始めたのは全くの不意打ちだった。

「どうしよ……誰にも言えないよ。ママ絶対怒るもん……ショータ、どうしよ……」

 どうしよう、と問われてもどうする事も出来ない。十六の高校生に何を期待しているのか、とすら思った。

だけど、センパイは誰にも相談出来ず、たった一人で想像も出来ない不安を抱えていたのだ。そして、漸く俺だけを信じて相談を持ち掛けてくれた。

「相手、誰っすか」

 黙秘。

「……城嶋さんっすか」

 なおも黙秘。腹の底から煮えたぎるような怒りが沸いて来ていた。何故、ここで隣に居るのが城嶋さんでは無く、俺なのか。

「ショータ、どうしよう。あたし、ほんとどうしよ……」

 センパイが嗚咽を漏らしながら抱き着いてきた。胸と胸が密着し、心音が、直接に心臓に響く。俺は黙ってセンパイを強く抱きしめた。鼻をすする音が耳元で聞こえる。

「ショータ……ほんと言い辛いんだけど……お金貸して欲しいの。ママには内緒で堕ろすから……」

 抱き着いていたのをパッと離す。

「駄目っすよ! ちゃんと相談しないと!」

「無理! 美香子さんにママのフリして貰うから、あとお金あれば大丈夫なの。お願い! 絶対返すから!」

「だって……いくらですか?」

「十万」

「俺、そんな金無いですよ」

「お年玉とか、給料前借りとか……親の財布とか方法はあるじゃん」

 眼を真っ赤に腫らしながら何故か睨んで来た。突然の態度の豹変に言葉に詰まる。センパイがすぐ様「ごめん」と謝る。

「もうずっと不安なの。お酒飲まないと寝れないし、どうしたら良いのか分からないの」

 センパイが泣けば泣く程、怒りが募る。糞野郎の顔面をぶん殴る事しか思い浮かばない。そうしてそれが一番簡単な解決方法だと気づいた。

「わかりました。俺、何とかします」

「ほんと! ショータ本当最高! 超良い男だよ!」

「だってセンパイ、困ってるじゃないですか」

「……マジかっこ良過ぎるよ」

 センパイの細い眼が先ほどの涙では無い潤いを持ちはじめた。瞳がキラキラとしているのは、俺の思い上がりでないなら見惚れていた。

「あたし、ショータ好きだよ」

「……俺もセンパイの事大好きです」

 ゆっくりと、唇と唇を重ねる。罪悪感はあった。何をしているんだ、という思いもあった。だけど、もう止められなかった。脳みそがとろけるんじゃないかと思う程、気持ちが良いキスを続け、顔を離したセンパイが頬を染めながら、俺の起立したモノを撫でた。

 それだけで果てそうな快感に身震いすると、センパイがあの悪戯っぽい笑顔になる。

「いいよ。しよっか?」

この八重歯を、どうしても忘れる事が出来ない。



    ※



終電も過ぎると町の人気も途端に無くなる。それが田舎の急行も止まらない駅なら無人であった。スポットライトのような街灯の下、纏わりつく蛾を振り払いながら待っていた。

 親からの着信は山のように来ている。知った事ではない。

道の向こうから「パパパパパバァ」と音だけが先にやってくる。けたたましいエンジン音。真っ黒なビッグスクーターには青いLED灯が瞬いている。

「お待たせ。何、ヤバ子の話って」

 城嶋さんがメットを外し、ズボンのポケットから赤マルを取り出した。一本咥えると、ふと何か思い出したかのように手が止まった。煙草を咥えたまま別の抜いた一本を俺へ差し出した。

「吸う?」

「貰います」

 キンッ! と小気味良い音をさせながら開くジッポーから炎が揺らめく。もう吸い方は分かっている。眼前の小さな火へ、口を近づける。美味いなどと微塵も思えないが、城嶋さんから一瞥も視線も外さないまま、煙をゆっくり吸い込み、ゆっくり吐き出す。

「……矢部センパイの事、本当に何も分からないんですか?」

 事ここに来て、俺の様子に気付いた城嶋さんがエンジンを止め、バイクから降りた。荒々しく煙を吹き出し俺を舐めるように睨んだ。

「は? ねえよ。話あんならさっさと言え」

「糞野郎だな、てめぇ」

まだ数口しか吸っていない赤マルを地面に投げ捨てる。途端に、城嶋さんの額にギュッと皺が寄った。

「は? 何言ってんだクソガキ。喧嘩売ってんのか?」

 脚がやや震えているのを自覚していた。喧嘩自体は初めてでは無い。ゲームセンターで他校の生徒と揉めた事もある。だが、明らかな年上とした事は無かった。

筋肉粒々の腕、俺と一回りは違う。体重なら二十キロ差くらいか。普段から威圧した空気を発していたが、実際にその対象となった時の恐怖は比べものにならない。喉がカラカラになっていた。

「そうだよ。タ、タイマン張れよ」

 震える声を抑え込み、拳を小指から順に握っていく。城嶋さんは眉間に皺を寄せ、睨みながら向かって来る。きっと勝てはしないだろう。だが、一発ぶん殴る。いや分からせるまでぶん殴る。喧嘩に勝つ事が目的じゃない。こいつに思い知らせるための喧嘩だ。

バンッ、と右耳のすぐ後ろで石と石がぶつかった音がした。直後に鼻に水が入ったような時のような痛みが走った。やや跳ぶように倒れ尻もちを着いた。来た、と思った時は既に殴られていた。

「ーーーーっう!」

 右手で鼻を覆うとダラダラと鼻血が垂れていた。耳の中がジンジンと痛む。

「何があったか知んねぇけど舐めんなよクソガキ」

 黒いブーツの重いつま先が真っすぐ俺の胃へとめり込んだ。それだけもう息が出来ず、身体をくの字に曲げる。城嶋さんは容赦なかった。そのまま続けて二発、太ももを踏みつけるに二発、おまけに廻し蹴りで頭に一発。またも右耳で石と石がぶつかった。

勢い良く倒れた俺は、みっともなく這いつくばるようにして城嶋さんから逃れた。何よりも本能があいつから距離を取れと告げていた。

「---------ッッ」

 込み上げてきた嘔吐感、たまらずブチ撒けた。

「は……っ! は……っ!」

 上手く呼吸が出来ず短息になる。口の周りはゲロだらけだ。まだ、一発も殴っていない。それなのに。

「す、すみません……」

 俺の心はすっかり折れていた。どうやっても勝てる事など出来ない。それ所か一発入れる未来さえ見えない。フィジカルの差というのは圧倒的だった。根性見せてやる、なんて考えが簡単に吹き飛んだ。

「何がしたいんだよ。何があったんだよ、言えよ」

「矢部……ッセンパイッ、孕ませたなら……責任取りましょうよ……っ!」

 情けなくて、恥ずかしく、かっこ悪くて顔をあげる事が出来ない。四つん這いでうずくまるようになったまま、声を絞り出すしか出来ない。

「はぁ? 孕ませた?」

 その反応にグチャグチャだった脳みそが完全に止まる。

「え? あいつ俺が妊娠させたって言ってんの?」

 昨日のセンパイとのやり取りを思い出す。城嶋さんかと聞いた時、何も答えはしなかった。だが、あの流れなら完全に肯定と捉えるのが普通だ。

「いや……完全にそう……とは……」

 歯切れの悪い俺に、城嶋さんが呆れたと言わんばかりの溜息をついて、もう一本煙草を取り出した。

「またかよアイツ。ウリでもしてんのか知らねぇけど、前も出来た時そうやって金集めてたんだわ。だからヤバ子って呼ばれるんだよ。ヤリマンバカのヤバ子」

 ヤリマン……バカ……。城嶋さんの言葉がグルグル頭を回る。

「ま、分かったからいいや。ありがとう」

 一人勝手に解決した城嶋さんがそそくさとヘルメットをつける。ブォンブォンとエンジンを回し、俺の方を向いた。

「じゃあな、殴って悪かったな。お前根性あんじゃん」

 青いLEDの光が、夜の闇へと消えていく。

 口の中が血の味でいっぱいだった。俺は一体何がしたかったんだろう。半端に不良ぶって、半端に優等生やって、半端に惚れて、半端にカッコつけて。

感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い無人の駅前で鼻血を垂らしながら呆て座りこけていた。急に、スンと酸えた匂いがした。鼻血が詰まっていて気付かなかった。

右の太ももで吐き出したゲロを踏んでいた。それを見て、突然笑いが込み上げて来た。

「きったねぇゲロもんじゃ」

 田んぼの向こうでは、大きな影となった山から虫の声が絶えず聞こえていた。

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