悪霊は上座で笑う

黒弐 仁

悪霊は上座で笑う

江戸のとある一角に、大きな武家屋敷がありました。


その屋敷には、篠田家という旗本が先祖代々から住んでおり、戦国時代から続く長い歴史を持っておりました。

屋敷に住んでいるのは現当主である篠田藤右衛門とその妻のお初、二人の息子の宇兵衛と豊太郎。そして使用人が二十名ほど。

篠田家では長男である宇兵衛が次期当主となる予定でした。ですが藤右衛門は宇兵衛と豊太郎のどちらも分け隔てなく愛情持って育てており、家族仲は良好でした。また、藤右衛門は使用人たちにも丁寧に接していたことからとても慕われていました。


宇兵衛が17歳になった夜のことでした。その日は屋敷にいる全員で宇兵衛の誕生日を祝い、夜遅くに床に就きました。

深夜、宇兵衛は体全体に感じる、言いようのない不快感で目を覚ましました。どこかが痛いとか、気持ちが悪いとか言ったような体調が悪いといったような感じではありません。

言うなれば、虫の知らせを感じているとでもいうような、どこか不安で落ち着かないといった感じです。

もう一度寝て、十分に睡眠をとれば翌朝には治まっているだろう。そう思い宇兵衛は目を閉じ、気持ちを落ち着かせようとしました。

ところが、その不快感はどうしても取れません。それどころか、時間が経つにつれて大きくなっているような気さえしました。動悸を感じ始め、冷や汗も出てき始めました。


どのくらい時間がたったでしょうか。宇兵衛は何度も寝相を変えましたがまだ眠りにつくことができません。

そうしているうち、宇兵衛の耳に、何かもの音が聞こえてきました。

宇兵衛は初め、自分と同じく寝付けない者が水でも飲みに起きたのだろうと思いました。

しかしながら、よく耳を澄ませて聞いてみると、どうやらそれは人の声だということが分かってきました。

だけれど、それは話し声ではありません。じっと宇兵衛が耳を澄ませていると、その声は段々と大きくなってきました。



うぅ…、うぅぅ…ううぅううぅぅ…うううぅうっぅうう…


いぎ…、いぎぎ…、いぎぎぎぎ…


あぁあぁぁぁあぁ…、あぁ…、あぁぁあぁ…、うぁあぁぁぁあぁぁあ


ひぃい…、嫌だ…、嫌だぁ…助けてくれぇ…



それは呻き声と悲鳴でした。いまだかつて、宇兵衛が聞いたことのないような、ひどい苦しみ、痛みを感じているような声です。

その声はさらに大きくなり続け、しまいには宇兵衛のいる部屋中に響き渡るかの大きさにまでなりました。


「うわぁぁあぁぁあぁ!???」


宇兵衛は飛び起き、慌てて辺りを見回しました。ですが、そこには誰もおりません。声も消え失せ、暗闇と静寂があるだけです。

宇兵衛は立ち上がると、そのまま夜明けまで屋敷中を歩いて見て回りました。しかし、結局はその声の主を見つけることはできなかったのでした。


次の日、夜眠れなかったのと変な声を聞いたことで宇兵衛の体調は良くなく、武芸の稽古にも身が入りませんでした。

「宇兵衛。一旦稽古は中止だ。」

稽古の様子を静かに見ていた藤右衛門が口を開きました。

「今日は一体どうしたんだ?顔色も良くないみたいだが…」

「父上。実はですね…」

宇兵衛は昨晩自分が体験したことをこと細かに説明し始めました。

藤右衛門は初めの方こそは心配そうな顔つきで静かに話し合を聞いておりましたが、途中から表情が段々と厳しくなっていきました。

その様子を見て宇兵衛は藤右衛門が怒っていることを察しました。

藤右衛門は息子二人に愛情をもって育ててきましたが、その反面、弱音を吐くことや弱みを見せることに対しては非常に厳しかったのです。

「宇兵衛。お前ももう十七になったんだ。十七といえばもう立派な大人。いつ、この篠田家を継いでもおかしくはない年齢なのだぞ。それなのに、たかだか悪夢を見た程度でまいっているようでは立派な武士になどなれんぞ。」

「は、はい…。申し訳ございません…。」

「どうやらお前はまだまだ精神面が未熟と見える。今日からはもっと徹底的に鍛えていかねばならんな」

その日からの稽古は、これまで宇兵衛が味わったことのない厳しいものとなりました。


それからしばらくは特に何事もない日々が続きました。

あのうめき声や悲鳴が聞こえることもなく、やはりあの時は体調が悪かったのだろうと宇兵衛は自分で納得し、次第にそのことも忘れていきました。


次に宇兵衛が怪異に遭遇したのは、あの声を聞いた日から一か月程が経過した頃でした。

あの日と同じように、宇兵衛は夜遅く、例の不快感で目を覚ましました。

(この感じ…、まさか!?)

宇兵衛はすぐにあの日の夜のことを思い出し、全身から冷や汗が滝のように吹き出し始めました。

(慌てるな…。あれは悪夢だったのだ。怪異などこの世に存在などしない…)

宇兵衛は心の中で自分に言い聞かせ続けました。

そうして時間が経過していくうち、



うぅ…、うぅぅ…ううぅううぅぅ…うううぅうっぅうう…


いぎ…、いぎぎ…、いぎぎぎぎ…


あぁあぁぁぁあぁ…、あぁ…、あぁぁあぁ…、うぁあぁぁぁあぁぁあ…


ひぃい…、嫌だ…嫌だぁ…、助けてくれぇ…


またもや声が聞こえてきました。あの時と同じ、ひどい苦痛を受けている声です。


(気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ…)


宇兵衛はギュッと目を瞑り、必死に自分にそう言い聞かせ続けました。

そうしている間にも声はどんどん大きくなり、ついには部屋全体が震えてるのかと思うほどまでになりました。

流石の宇兵衛もここまでくると無心で耳を塞ぎました。しかし前の時と違い、声が消える気配はありません。声は容赦なく宇兵衛の鼓膜を刺激し続けました。


その状態がしばらく続くうち、宇兵衛は新たな異変に気付きました。

それは、臭いでした。

声と同じく、始めの方こそかすかに香る程度でしたが、段々と強くなり始め、たちまち部屋中に充満したのでした。

宇兵衛は最初、その臭いが何のものなのかわかりませんでした。ただ一つ言えるのは、決して嗅ぎたくはないもの、不愉快極まりないもの、吐き気を催すものであるということでした。


(これは悪夢だこれは悪夢だこれは悪夢なのだ…!!!)

悲鳴と悪臭で気が狂いそうになりながらも、宇兵衛は必死に自分に言い聞かせ続けました。


すると突然、


ずしっ…


寝ている宇兵衛の上に何かが覆いかぶさりました。

(なんだ…!?一体何が…!?)

宇兵衛は恐る恐る目を開けてみました。

それの姿が目に入った瞬間、宇兵衛は心臓が凍り付くような恐怖に襲われました。


宇兵衛の上にのっていたのは、顔がぐちゃぐちゃになった、人のようなものでした。

なにか、刃物のようなもので執拗に傷つけられたのか、もはや人間の原型はとどめていません。

「うぅ…、うぅううぅ…、うぎぎ…」

目の前のそれはよほどの苦痛が体を支配しているのか、絞り出すようなうめき声を放っています。


そしてこの時になってようやく宇兵衛は悪臭が何であるのかが分かりました。

血です。

部屋中に充満する臭いは、戦を経験したことのない宇兵衛が初めて嗅ぐ、人が斬られ流れる血の生臭い臭いだったのです。


「うわぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁあぁぁ!!!!!!!」

宇兵衛は飛び上がりました。しかし、それが上に乗っかっているために思うように動くことがせきません。

「うぅ…、うぅううぅ…、うぎぎ…」

それは絞り出すようなうめき声をあげ、宇兵衛にしがみつこうとしているようでした。

「ひぃいぃぃぃいぃぃいぃ!!!!く、来るなぁ!!!!誰か!!誰かぁ!!!」

宇兵衛がそれから必死に逃れようとしているその時でした。

「なんだ!?一体どうした!?」

宇兵衛の悲鳴を聞きつけた藤右衛門が勢いよく部屋の中に入ってきました。

「ち、父上!!そこに、そこに化け物が…!」

宇兵衛は自分の体の上を指さしながら叫びました。ところが…

「お前は何を言っておるのだ?寝ぼけているのか?」

「えっ?」

いつの間にか、目の前にいたはずのそれは姿を消していました。

また、騒音のような悲鳴も、部屋に立ち込める血生臭い悪臭も、もうそこにはありません。やはり夜の暗闇と静寂があるだけでした。

「宇兵衛!!!たかだか悪夢を見た程度でそんな女のような悲鳴を上げるなどとは武士として恥ずかしいとは思わんのか!!!」

「い、いえ…。しかし父上、確かにさっきまでそこには…」

「口答えをするでない!!!大体お前というやつは…!!!!」

そして一晩中、宇兵衛は藤右衛門からこっぴどく叱られたのでした。


流石に二度目ともなると宇兵衛はこれが夢ではなく現実に起こっていることだと確信しました。そして、必ず三度目も来ると信じ、その日以降、枕元に刀を置いて眠ることにしました。

二度目の怪異からまた二十日程が経った日のことでした。その日の夜、宇兵衛はやはりあの体の不快感で目を覚ましました。

(間違いない。来る。)

確信した宇兵衛は布団の中でじっと待ち続けました。


うぅ…、うぅぅ…ううぅううぅぅ…うううぅうっぅうう…


いぎ…、いぎぎ…、いぎぎぎぎ…


あぁあぁぁぁあぁ…、あぁ…、あぁぁあぁ…、うぁあぁぁぁあぁぁあ…


ひぃい…、嫌だ…嫌だぁ…、助けてくれぇ…



少しずつ、悲鳴が聞こえ始め、また、血生臭い香りが立ち込めてきました。

耳と鼻が壊れそうになるのを我慢しながら、宇兵衛はあの化け物が現れるのをじっと待ち続けました。

しばらくして、宇兵衛の体の上に何かが乗っかる感触がしました。

「うぅ…、うぅううぅ…、うぎぎ…」

目を開けると、そこにはあの化け物がいました。

恐怖心を必死に抑え込みながら、宇兵衛は枕元に手を伸ばし、そこに置いてある刀を手に取り鞘を抜くと一思いにそれに刀を突きさしました。


ずぷっ…


刀から手に伝ってきた感触は、人を斬ったことのない宇兵衛が初めて経験した感触でした。

その感触を味わった瞬間、宇兵衛は体全体から汗が吹き出し、吐き気を催しました。それでも必死に目の前のそれに刀を突きさし続けました。

しばらくして目の前のそれが動かなくなると、宇兵衛は布団から這い出し、その姿を確認しました。暗闇の中で分かりにくくはありますが、それの見た目は人間と変わらないようでした。ただ、顔だけでなく体中にも刃物で切られたような跡がありました。

そしてもう一つ気づいたことがありました。それとつながっているかのように、床に何かの跡がありました。

蝋燭に火をつけてよく見てみたところ、どうやら赤黒い色をしていることが分かりました。

それに触れてみると、


ぬちゃ…


不愉快な感触が宇兵衛の手から伝わってきました。

それが血だということに宇兵衛はすぐに気が付きました。

どうやらその血は、宇兵衛の寝室の外に繋がっているようです。

また、固まっていないことから、斬られてそんなに時間が経っていないのではないかと考えました。

ふすまを開けてみると、床の血は廊下に続いており、どこかへとつながっているようでした。

(どこかの部屋から這ってきたのだろうか?)

宇兵衛はその血の跡をたどっていきました。


少しすると、、宇兵衛は広間の前にたどり着きました。この広間では時々、藤右衛門が客人を招いた際におもてなしをしたり、また、家族、使用人全員を集めて宴会を行う際に使うのです。

広間の襖は閉まっていますが、血の跡はここの中へとつながっているようです。

宇兵衛は自分の心拍数が上がるのを感じました。今この扉の先に何があるのか、想像もつきません。

宇兵衛は息を整えると一気に襖を開けました。

その瞬間、むわっとあの血生臭い悪臭が押し寄せてきました。

「うぅ…」

吐きそうになるのを必死に抑えながら宇兵衛は広間を見ました。

この時この瞬間、宇兵衛は生まれて初めて自分の目を疑いました。

そこには、無数の死体が転がっていました。ただの死体ではありません。どの死体も体中に斬られた跡、そしてあの化け物と同じように顔を切り刻まれており、ぐちゃぐちゃになっているのです。


「うわぁ!!!うわぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁあぁぁ!!!!!!!」

宇兵衛は恐怖に駆られて叫び声をあげ、その場にへたり込みました。

「どうした!!何があった!!」

叫び声を聞きつけた藤右衛門がやってきました。その後ろには豊太郎もいます。

「そ、そこに死体が…。顔がぐちゃぐちゃの…死体が…」

宇兵衛は震える声で指さしながら答えました。

「またか宇兵衛!!!いい加減にせぬか!!!」

「兄上!!こんな真夜中にそう何度も大声を出されてはこっちもたまりませぬぞ!!!」

二人は怒りをあらわにしています。

「二人はこれが見えないと申すか!!!」

「お前は何を言っておるのだ!!!よく見ろ!!!」

「そんなこと…」

言い返しかけた宇兵衛が改めて見直してみると、もうそこには何もありませんでした。静まり返った広間があるだけです。

「そ、そんな馬鹿な…」

「馬鹿はお前だ宇兵衛!!!いったい何度同じことをすれば気が済むのだ!!!」

「い、いえ…。そんなはずは!!!それに、床についている血を私はこの手で触れたのです!!私の手にまだついております!!!」

そういって宇兵衛は自分の手を見せました。しかし、そこにはなんの汚れもない、彼の手があるだけでした。

「床にもお前の手にもどこにも血などないではないか!!!ふざけるのも大概にしろ!!!」

結局その日も、宇兵衛は藤右衛門に夜通しこっぴどく叱られたのでした。


その日以降、宇兵衛は怪異の原因を突き止めるための行動に出ました。

(きっと、この屋敷では過去に何かの事件があったに違いない。それが今俺の前に出てきているのだそれを突き止め、怪異から篠田家を守っていかねば…)

そう思い、宇兵衛は屋敷の蔵に籠り、その屋敷の歴史や篠田家の一族に関する書物をあさり、読んでいきました。

しかしながら、どの書物を読んでも、宇兵衛が遭遇するような怪異と関係がありそうな記述は見つけられなかったのです。

(そんな、そんなはずはない!!!)

宇兵衛は諦めきれず、ついには屋敷中にある、ありとあらゆる書物に目を通しました。

「宇兵衛殿!!一体これはどういうことですか!!」

使用人たち数名が宇兵衛に詰め寄ってきました。宇兵衛は無我夢中で書物を読み漁っていたために、読み終えたそれらを一切片づけておらず、屋敷中が散らかっていたのでした。

「この散らかりようは一体何なのですか!!」

「これは、その、書物を読んでいたので…」

「そんなことは分かっています!武術の稽古も怠けて、ここの所あなたの行動はおかしなものばかりです!このことも藤右衛門様にご報告いたしますからね!!!」

その後、使用人からの報告を受けた藤右衛門にひどくしごかれたことは言うまでもありませんでした。


また、ある時は祈祷師を呼びました。

「この屋敷では夜、怪異が起こって困っておるのだ。何とかしてくれ」

そう訴える宇兵衛に対し、祈祷師の方は釈然としない表情をしていました。

「なんだ?何か不満があるのか?」

「篠田殿。この屋敷には何もおりませぬぞ。何かの間違えでは?」

「そんなはずはない!私はもう三度も遭遇をしているのだ!」

「はぁ、しかし特には何も感じられませぬ。失礼ですが、寝ぼけて見間違えたのでは?」

寝ぼけた。見間違えた。藤右衛門や他の屋敷の人達から散々浴びせられたその言葉は宇兵衛の怒りに火をつけたのでした。

「貴様!!!この私を馬鹿にする気か!!!許さぬぞ!!!」

「い、いえ!!そういうわけでは!!!ただ私は!!!」

宇兵衛が祈祷師につかみかかったその時でした。

「宇兵衛!!!何をしておるか!!!」

騒ぎを聞きつけた藤右衛門がやってきました。その一部始終を見ていた藤右衛門もまた、その怒りに火をつけていました。

「ち、父上…。こ、これは…」

「言い訳をするでない!!!篠田家の名に泥を塗るようなことをしおって!!!」

勝手に祈祷師に除霊を依頼したこと、その祈祷師に暴力を振るおうとしたこと、そしてその依頼金と詫び料でかなりの金を払うことになり、宇兵衛は篠田家に多大なる損失を与えることとなったのでした。



その後も宇兵衛は怪異に遭遇し続けました。

頻度は増え、ついにはほとんど毎日遭遇するようになってしまったのです。

慣れることはありません。決まって真夜中に、必ず宇兵衛はあの不快感で目覚めさせられ、怪異を目の当たりにし、その度に精神を磨り減らされていきました。


さらにもう一つ。宇兵衛の神経を磨り減らす原因がありました。


「最近の宇兵衛殿の行動は目に余る」

「常人のそれとは明らかにおかしい」

「大体、この屋敷に怪異なんてものがあるのならなんで我々は遭遇せんのだ」

「何かしらの対策をうたないと、次に何をしでかすかわかったものではないぞ」

怪異は宇兵衛以外の人間には感じることができないのです。すなわち、屋敷の人間たちにとっては宇兵衛そのものが異様な存在となっていきました。

そのうち、屋敷にいる藤右衛門、お初、豊太郎、そして使用人の誰もが宇兵衛のことを腫れ物扱いし始め、話しかける者は少なくなり、やがては孤立していきました。

もちろん、宇兵衛もその事には気付いておりました。

理解をされず、味方もなく、周りから奇異の目を向けられるたび、宇兵衛は自分が惨めに思え、気を病んでいったのでした。


そのようなことが続いた、ある日のことでした。

その日も宇兵衛は誰からも相手にされず、一人で屋敷内をさ迷っていました。

そのうち、藤右衛門の部屋の前まで来ると、中から話し声が聞こえるのに気付きました。どうやら藤右衛門と弟の豊太郎が中で話しているようです。宇兵衛は外から聞き耳を立てました。

「宇兵衛はもうだめだ。妄想と現実の区別がまるでついとらん。奴に篠田家を継がせなどしたら没落するのが目に見えておる。」

「困りましたね、父上。これからの篠田家は一体どうなるのでしょう?」

「戦国時代より続く篠田家をあんなしょうもない奴のためなんかに終わらせるわけにはいかん。そこでだ、豊太郎。お前がこの篠田家を継ぐのだ。」

「えっ!?私がですか?」

「そうだ。お前のような者なら、十分に篠田家の当主を名乗る資格はあると儂は思っておる。」

「それで兄上は納得するでしょうか?」

「あいつが納得するかどうかは関係ない。今の篠田家の当主は儂だ。その儂が宇兵衛は次期当主にふさわしくないと言っておるのだ。そこに奴の意思など考慮する必要などないわ。まぁ、今のやつを屋敷に置いておくのは危険だ。だから、そうだな。どこか遠く離れた山奥の寺にでも預けておけばいいだろう。」

「なるほど。そうすれば一安心といったところですね。」

「あぁそうだ。豊太郎。これからお前は、篠田家の次期当主として今まで以上に厳しい鍛錬を行っていくことになるぞ。くれぐれも、宇兵衛のようにならぬようにな。」

「はっ!確かに、心得ました。」


外で話を聞いていた宇兵衛は絶望に打ちひしがれました。そして呆然自失のまま自分の部屋へと戻ったのでした。

それから宇兵衛は食事もせず、ずっと部屋に閉じこもりながら様々な考えを巡らせていました。



(父上に見放された。父上に捨てられた。父上は俺と親子の縁を切るつもりなのだ。俺は真実を言っているだけなのに。この篠田家を守りたかっただけなのに。何故理解をしてくれないのだ。父上だけではない、屋敷の連中皆そうだ。俺をあんな侮蔑の目で見おって。俺はまともなのに。はっ、そうか。分かったぞ。父上は初めから豊太郎に篠田家を継がせるつもりだったのだ。そうだ。そうに違いない。きっとあの怪異は父上がおこしていたものなのだおれのきがくるっているとみせかけるためだったのだほかのれんちゅうもいっしょになってわたしをおとしいれようとしたにちがいないちくしょうふざけおってきっとこのあとはおれをころそうとしているのだそうだそうにちがいないちちうえもははいえもほうたろうもやしきのれんちゅうもいっしょになっておれをころそうとしているのだふざけるなころされてなるものかおまえらのおもいどおりにさせてなるものかふはふはははひひひはっはひひあひひはははふははははははははっはははっはははっははははははふはふははははははひひ)



度重なる怪異と周囲の目によって精神がすり減っていた宇兵衛にとって、父である藤右衛門に見放されたという現実は彼の気を狂わせてしまうほどに大きなショックを与えてしまったのでした。



それから数日後のことです。その日は広間で屋敷にいる者たちを集めて藤右衛門は宴会を開いていました。表向きには恒例の屋敷全員での宴会ということになっていましたが、実際には豊太郎が篠田家次期当主になることを屋敷の者たちに宣言する場として設けられました。

その場に宇兵衛はいません。使用人たちはもちろん、藤右衛門、お初、豊太郎の誰も彼に声をかける者はありませんでした。

ここの所、異様な目つきで一人で何かをぼそぼそと呟いている彼を見て、誰しもが気味悪がって相手にしようとはしなかったのでした。

宴会も終わりに近づいたころでした。突然、広間の襖が勢いよく開きました。

そこに現れたのは、宇兵衛です。しかし、その様子は異常というほかありませんでした。

息は荒れ、目は血走り、体を震わせ、ものすごい形相をしています。そして右手には刀を持っていたのです。

「宇兵衛!一体何しに来たのだ!その刀は何のつもりだ!!!」

藤右衛門が彼に向かって怒鳴りました。

いつもの宇兵衛でしたら萎縮してしまうところですが、今の彼は全く動じません。

宇兵衛は藤右衛を睨みつけると、そのまま上座にまでどかどかと足音を立てながらやってきました。

その尋常ではない様子に、藤右衛門の方が少し押されてしまったほどでした。

「父上…、全て、あなたが仕組んだことだったのだな!!この俺を陥れようとしたのだな!!」

「な、何を言っておるのだ宇兵衛!ついに、本当に気が狂ってしまったのか!?」

「うるさいうるさい!!黙れ!貴様さえいなければ、こんなことにはならなかったのだ!」

「お前、この私に向かって何という口の利き方だ!!!恥を知れ!!」

「ふんっ!この俺を殺そうとする奴などに丁寧な口などきく必要ないわ!!お前など、こうしてやる!!!」

そう叫ぶと、宇兵衛は手に持っている刀を思いっきり藤右衛門の顔に向かってふり降ろしました。

「ぎゃぁあぁぁあぁあぁぁあぁあぁぁぁあぁあぁ!!!!!!」

「その目だ!!そのような侮蔑の目で俺を見るんじゃない!!!」

宇兵衛は執拗に顔を切りつけていきました。刀を持ちこんでいなかった藤右衛門は多少は抵抗をしたものの、結局はなすすべなく息絶えてしまったのでした。

「いやぁあぁぁぁあぁあぁああああああああぁぁああぁぁあ!!!!!」

「兄上!!!よくも父上を!!!!!!!」

「うるさいうるさい!!!!お前らもだ!!!お前らも俺を殺そうとしおって!!!覚悟しろ!!!」

宇兵衛は藤右衛門に続いてお初、豊太郎をも切り伏せて殺してしまいました。

「お前も!!!!お前も!!!お前もだ!!!!!」

さらには残った使用人たちも殺し始めました。その様子はまさに地獄絵図と呼ぶにふさわしいものでした。人間とは思えない動きで次々に切り伏せ、さらに今まで宇兵衛に冷たい目を向けていたその顔を特に執拗に切り付けられたのでした。

中には、瀕死の状態で広間から這って脱出した者もおりました。しかしながら既に大量の血が流れ出ており、その末路は想像に難くありません。



「うぅ…、うぅぅ…ううぅううぅぅ…うううぅうっぅうう…」


「いぎ…、いぎぎ…、いぎぎぎぎ…」


「あぁあぁぁぁあぁ…、あぁ…、あぁぁあぁ…、うぁあぁぁぁあぁぁあ…」


「ひぃい…、嫌だ…嫌だぁ…、助けてくれぇ…」



聞こえてくる悲鳴とうめき声、部屋に充満する血なまぐさい悪臭、横たわる顔がぐちゃぐちゃの斬り刻まれた死体。

宇兵衛が今まで屋敷の中で遭遇していたものは、まさに今、彼の目の前にあるものでした。




そう、彼が見ていたものは過去のものではなく今ここで起こっていること、すなわち、未来のものだったのです。




それが屋敷によるものなのか、彼自身によるものなのか、はたまたそれ以外の何かによるものなのかは分かりません。

何度も見て、聞いて、感じていたものであるにもかかわらず、宇兵衛はこの事実には気づいておりません。

そもそも、今の彼にとってはそんなことはもうどうだってよいのです。

彼の頭の中にあるのは、自分を侮蔑する者、自分を殺そうとしている者達の排除だけなのです。



藤右衛門、お初、豊太郎、そして使用人たち。その全てを殺し終えた宇兵衛は刀を持ったまま藤右衛門が横たわる上座へどかっと座り込みました。


「ははっ・・・、ははははっ・・・・!あははははは・・・・!!!どうだぁ!!思い知ったかぁ!!!あーっはっはっはっはっはっはっ!!!!!俺は誰にも殺せない!!俺は誰にも殺させない!!俺を殺せるのは俺だけだぁ!!!!!」

そう高笑いをすると、宇兵衛は持っていた刀で自分の首を斬りました。

興奮しているためか、切り口からは凄まじい勢いで真っ赤な鮮血が長い時間吹き出し続け、そこから流れる血液は宇兵衛の座る上座を赤く染めていきました。ひとしきり血液が吹き出し終え、宇兵衛は自分とその他の者たちのものが混じりあった血の海の中で笑いながら息絶えたのでした。



こうして、戦国時代より続く篠田家は一晩にして没落したのでした。


このような経緯があったために、誰もが気味悪がって篠田家の後にその屋敷に住む者はおりませんでした。

取り壊すという話も出たのですが、どういうわけか、作業に入ろうとすると必ず事故で人が死んだりするなど、何か不吉なことが起こるのです。


結局、屋敷はそのまま放置され、荒れ果てていったのでした。






そしていつの頃からか、その屋敷には悪霊が住み着き、誰もいないはずの広間の方から不気味な高笑いが聞こえてくるという噂が近隣で流れるようになったのでした。

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