第2話 【復讐の標的】

「今日も特別レッスンですか」


 先輩は一ヶ月前まではテニス部の部長でした。


 夏の大会が終われば三年の先輩は自動的に引退なので、今は部長を私のクラスメイトの久留米さんに譲ってテニス部員ではありません。


 ただ、放課後にそのテニス部の子たちに特別レッスンをしています。


「うちの部活はまだまだよ。向上心はあるけど、実力がついてきてない。はっきり言って中途半端ね」


 辛辣な言葉ですが、先輩の思いのままなんでしょう。


 けどどんなにきつい言葉を使っても、先輩が後輩思いなのはよくわかります。じゃないと自分の受験を放り出してまで、レッスンなんてしませんから。


 テニス部のみんなもそれをわかっているからこそ、このスパルタ気味の先輩をずっと慕っているんですから。


「それと何回も言わせないで欲しいんだけど――」


 先輩はそこで言葉を句切ると、射るような視線で私を捕まえました。


「私がレッスンをつけたいのは、あんたなのよ」


「……わかっています」


 私の返事が先輩を満足させるものじゃないことも、わかっています。だけど何度も同じことを言われて、そのたびにこう返すしかないんです。今回も私の返事は同じでした。


 そして先輩のリアクションも同じで、私の返事に深い追求はせず、見放すように黙りました。


 私も一年生の頃はテニス部でしたが、二年生で辞めてしまいました。先輩は未だにそのことが納得いっていないのです。


 本当に申し訳ないです。


「……あんたの家計の事情は知ってる。だから部を辞めるって言った時も、強くは引き留めなかった」


 二年生に上がると同時に、私は退部すると真っ先に先輩に告げました。その前からそういう予兆をちゃんと察していた先輩は、特に強い引き留めもしないまま、私の願いを聞き入れてくれました。


 あれだけお世話になったのに、まともな恩返しもできないまま部を去ったことは、大きな後悔となっています。


 たくさんいた同級生の中でも、先輩は私のことを特に気にかけてくれていました。先輩は「見込みがある」と言ってくれました。


 それに答えられなかったのですから、情けない話です。


 それでも辞めないといけないと思ったのには、それ相当の理由がありました。


 もちろん、家計の事情というが大きなものですが、そのほかにもう一つ、どうしても譲れないものがありました。


 その理由は、決して語ることはできませんが。


「けどね……たまには先輩のレッスンにくらい付き合いな」


「それは怖いですね。先輩、テニスになると性格が変わってしまいますから」


「元々私は怖いわよ、知ってるでしょ」


「いいえ、先輩は優しいんですよ。テニスになるともっと優しくなるんです。それに甘えてしまいそうな自分がいて怖いんです」


「バァカ」


 先輩は部でも怖いことで有名です。練習に手を抜くことは絶対にしないで、どんなに疲れていても全力で、もうふらふらな後輩の私たちにスパルタレッスンをしました。


 けど、私たちが疲れていたということは先輩もそれと同じくらいか、それ以上に疲れているはずです。それなのに、そんなことを微塵も感じさせずに指導してくれたのは他でもない私たちのためです。


「今日はアルバイトが入ってしまっていますから、またお時間があるときにお願いします」


「その言葉も、もう何回目になるのよ」


「分かりません」


「あ、そう。十七回目よ、覚えときなさい」


 そう冷たく指摘されてしまうと、思わず息が詰まってしまいます。


 私にとっては単純に断っているだけでも、先輩にとってはそのたびに期待を裏切られているんですから覚えられるのも無理はありません。


 問題はその数字を私は全く意識していなかったことでしょう。


「……すいません」


「朝から謝るんじゃないわよ。こっちまで暗くなるわ」


「でも」


「あんたは嘘を吐くのが下手。自分で分かってるかしらないけど、すごく下手よ」


 いきなりそんなことを言われてビックリしてしまいますが、そうなんでしょう。嘘を吐いてはいけないっていうのは、あの人の教えの一つでしたから、嘘を吐き慣れていないんです。


「十七回とも、嘘を吐く様子では言ってない。だからしつこく言ってんの」


 先輩が歩くスピードを上げて、私を置いていきます。先輩の背中を眺めながら、やっぱり優しいと確信しました。


 そんな先輩について行こうと、私もスピードを速めます。


 しばらくすると校舎が見えてきました。何人かのまだ眠気が覚めていない様子の知り合いと目が合い、一人ずつ挨拶していると、急に誰かに後ろから抱きつかれてその勢いで倒れてしまいそうになりました。


「梓先輩っ、おはようございます」


 なんとか体勢を立て直そうとする私に抱きついたまま、彼女が元気よく挨拶してくれました。


「ああ、結菜ちゃん。はい、おはようございます」


「ああもう先輩、私は後輩なんですから敬語はいらないんですよ」


 結菜ちゃんは私の首に両手を巻き付けて、甘えるように抱いてきます。


「いい加減に離れな、このバカ娘」


 抱きつかれたまま不安定な姿勢をとる私を考慮して、先輩が結菜ちゃんの耳を引っ張って引き離します。


「痛いっ、ちょっと美夏先輩、耳はなしですってっ」


 先輩に耳をつままれたままの結菜ちゃんは、その耳が綺麗に露出するくらいのショートカットが似合う一年生です。


 テニス部の後輩ですごく人懐っこい性格をしています。こうやって私のことも先輩として仲良く接してくれている、とても明るい子です。


「朝からテンション高すぎなのよ、あんたは。鬱陶しい」


「美夏先輩が低すぎなんですよぉだっ」


 この二人を見ていると私は時々、北風と太陽を思い浮かべてしまいます。明るく元気な結菜ちゃんに、冷静で大人な先輩。


 ようやく先輩に耳を放してもらって、結菜ちゃんが恨めしそうな目つきをしていました。


「乙女の耳を何だと思ってるんですか、もうっ」


 結菜ちゃんの抗議が聞こえているはずなのに、先輩は何事も無かったかの様にまた歩き始めます。その態度に結菜ちゃんがまた怒って、ぴょんぴょんと跳ねながら先輩に猛然と抗議を繰り返しています。


 なんだかあの二人も姉妹みたいで微笑ましいです。


 当初の予定では今朝の秋を感じさせる気候を楽しみながら登校するつもりでしたが、結局三人で一緒に校門をくぐり抜けました。


「それじゃ、昼休みにね」


 下駄箱で先輩と別れて、結菜ちゃんとお喋り……と言っても私はいつも聞き役で彼女がすごい勢いで一方的に喋るのですが、そういったやりとりをして、彼女とも別れて自分の教室に着きました。


 教室に入れば矢継ぎ早に男女問わずクラスメイトの皆さんが挨拶してくるので、それに応答しながら席につきました。


 机の上に置いていたカバンをそっと開けて、教科書などを出していきます。


 必要な物を全て出し終えて、再びカバンの中に目を向けるとお弁当箱と水筒、そして革製の鞘に収められた柄の部分が木製の、ナイフが残っていました。


 小さく息を飲んでしまいます。これを持ち歩くようになってから、もう十日以上が経つというのに未だに落ち着きません。


 けれど家に置いておくのも不安なので、こうやって肌身離さず持っているのですが、やはりそれはそれで落ち着かないのです。


 当たり前といえば、当たり前の話ですが……。


「篠原」


 そんなことを思い巡らせていたら、急に大きな声で呼ばれたせいで、音をたてて急いでカバンを閉じてしまいました。


 声をした方、つまりは教室の扉の方を見るとすらりとした長身の男性が立っていました。


 このタイミングで来られると、心臓に悪いですね。


 廊下に出ると、二宮先生は相変わらずのスマイルで迎えてくれました。年齢はまだ二十代の後半で、英語の先生。テニス部の顧問で生徒からは絶大な人気を誇っている学校の人気者です。


「おはようございます、先生」


「ああ、おはよう。いきなり呼び出して悪いな。実はちょっと頼みたいことがあって」


 二宮先生には一年生の頃から部活でお世話になったので、他の先生方より親しい関係にあります。こうやって先生に頼み事をされるのも珍しいことではありません。


「はい。私にできることなら」


「いや助かる。実は沢良宜にお願いをして欲しくてな」


「先輩にですか?」


「ああ。ほらもう九月も半ばだろ、そろそろ文化祭の準備とかで忙しいじゃないか。部活も大切なんだが、俺としてはそっちにも力を入れて欲しいなってこともあるから。しばらくの間は部活の時間を短くしたり、多少の欠席や遅刻を大目に見たいと思うんだけど……」


 そこで先生は言葉を濁し、私に目で訴えかけてきました。もちろん、それだけ何が言いたいのかは分かります。


「先輩にそれを許してあげて欲しいと、私から頼めばいいんですか」


「まあ、そういうことだな」


 あの厳しい先輩のことですから、そういうのがきっと許せないだろうというのが先生の予想なんでしょう。そこで先輩と親しい私の方から頼んで欲しいということですか。


「ええ、構いませんよ」


 そもそも先生の予想は的外れなんです。先輩は確かに厳しい人ですが、事情があればちゃんと優しい判断してくれる方ですから、今みたいにちゃんと説明すれば納得してくれるでしょう。


 ただあまり素直じゃない性格ですから、小言くらいは言うでしょうけど。


 私が何の躊躇もなく承諾すると、先生は目を輝かせました。


「そうか、それは助かるよ。あいつはお前の言うことだと意外にすぐ聞くから」


「そんなことありませんよ。今朝だって叱られてしまいました。そういう頼み事なら先生から直接言っても大丈夫だと思いますよ」


「いやあ、どうも俺はあいつに嫌われてるみたいだからな」


 残念ながら先生のこの直感は当たってしまっています。先輩はあまり先生のことをよく思っていません。女生徒に甘いと言って、先生が顧問だと部活にならないと文句を漏らしていました。


 その時にちょうどチャイムが鳴って、先生が慌て出しました。


「おっと、まずいな、もう戻らないといけない。じゃあ篠原、頼んだ。本当にお前がいてくれて助かった」


 先生はすぐに背中を向けて廊下を走り出しました。近くにいた生徒に、走っちゃダメだよ先生と、ふざけて注意されてもお得意のスマイルでそれをかわして。


 何か重たい荷物を抱えた様な気分で、自分の席へと戻っていきます。先生がああいう頼み事をしてくれるということは、信頼されているんでしょう。もう退部して半年以上経つというのに、そうやって心を許してくれているところは、素直に嬉しいです。


 でも――。


 席に着くと同時に担任の先生が入ってきて、いつも通りのホームルームが始まって、特に変わった連絡事項もなかったのですぐ終わりました。


 一限目が始まり、先生が黒板に次々と書いていく文章を目で追いながら、それをノートに記していきます。


 ふと、窓の外に視線を向けると廊下を歩いている二宮先生が目に入りました。一限目は授業が無く、自分のクラスのホームルームが終わったから職員室へ帰るんでしょう。


 私を信頼してくれている先生……。でも、それでも――。


「私は、あなたを許しません」


 持っていたシャーペンの先の芯が折れ、細い音をたててどこかへ飛んでいきました。

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優しすぎた天使の復讐劇 夢見 絵空 @yumemi1010

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