第1話 【いつもの朝】
第一章【境界線上の天使】
これは私が初めて人を殺す、少し前のお話――。
◆◆◆◆
玄関を出ると思わず「あはっ」と小さく笑ってしまいました。
ちょっと嬉しかったんです。ひんやりとした空気が体を包んできて、私の好きな秋の予兆が感じられたものですから。
「そうですよね、もう九月の中旬なんですから」
一人でそんな納得した後、アパートの扉の鍵を閉めました。
ちょうどのその時に隣の部屋から賑やかな音が聞こえてきて、すぐにランドセルを背負った小さな男の子が飛び出してきました。
「あ、梓姉ちゃんだ」
「おはようございます、大地君」
いつも元気溌剌な大友大地君は、私が笑顔で挨拶をするとそれ以上に素敵な笑顔で「おはよっ」と返してくれました。まだ小学二年生ですが、その小さな笑顔にはたくさんのものをもらえます。
「ちょっと大地、早く行くよっ」
続いて家から出てきたのは大地くんより大きな女の子でした。
「おはようございます、雅ちゃん」
出てきた女の子は大地君のお姉さんの雅ちゃんです。小学六年生の女の子にしたら少し大きめの身長ですが、それを活かすバレーボールに通っているらしいです。きっと活躍しているに違いありません。
性格は弟思いのしっかり者で、感心させられることが多いです。
「あっ、梓さん。うん、おはよう」
ここの姉弟の笑顔は本当に素敵です。朝からたくさんの元気をもらってしまいました。
「お急ぎですか」
「こいつが朝から余計なことばっかりするんだもん。ほらもう行くよ」
どうやら想像以上に急いでいるみたいで、雅ちゃんは大地君の手を引っ張って早足でアパートの階段をカンカンという音をたてて下りていきました。
その二人の背中に向かって小さく手を振った後、私は鍵を扉の側に置いてある植木鉢の下に隠しました。
念のため、急に母が帰ってきたとしても、困らないようにしないといけません。
念のためにドアノブを回して鍵がかかっていることを確認した後、私も学校へ向かいます。
時間はまだ午前の八時前。学校までは二十分もかかりませんから、ゆっくりと歩いて行けます。今日は気候がすごく良いので、気持ちよく登校できそうです。
夏も嫌いじゃありませんが、色々と気にしなければならないことが多くあります。それに比べると涼しげな秋はずいぶん楽な気持ちで一日一日を過ごせますし、なによりその涼しさが気持ちに平穏をもたらしてくれます。
しばらく歩いていると、分かれ道になりました。いつもなら高校へ最短で行ける右側へ曲がるのですが、今日はそういうわけにはいきませんでした。
反対の道から、聞き慣れた男の子の泣き声が聞こえてきましたから。
「これは、いけませんね」
秋の予兆を感じるためにわざとゆっくりとした歩調で進んでいましたが、それをやめて一気に駆けだして泣き声のする方へ向かいます。
しばらくすると、道の端でお尻をついて泣いている大地君と、その彼を宥めようとしている雅ちゃんが見えました。
「雅ちゃん、大地君」
二人の名前を呼びながら近づいていくと、反応してくれたのは雅ちゃんだけでした。
「梓さん……どうして?」
「声が聞こえたものですから。それより、何があったんですか」
雅ちゃんは口では答えずに、うろたえた目つきで大地君の右膝を見つめました。見るとそこには大きな傷があって、血が流れて白い足に線を描いていました。これはいけませんね。
カバンの中から絆創膏と消毒液を取りだして、ポケットに入っていたティッシュに消毒液をつけました。
「大地君、ちょっとしみてしまいますけど、我慢して下さいね」
お尻をアスファルトにつけて泣いている大地君と視線を合わすために私にもしゃがみ込みます。
大地君はしみると聞いて怖がってしまったようです。
「怖がらないで大丈夫です。大地君は強い子ですから」
痛みと少しの恐怖心のせいで弱々しくなってしまった瞳に、私が映っていました。
「……うん」
「はい、さすがは大地君です」
私がそう褒めて微笑むと、彼は泣き止んで不器用に笑い返してくれました。そんな彼の傷口に、なるべく痛くないようにティッシュをあてると、やっぱりしみたみたいで体を縮めました。
「あっ、痛かったですか」
「ううん……大丈夫」
どう見たって痛がっているのは分かりますが、せっかく彼が頑張っているのですから、それに水を差すようなことは言えません。その後は血を拭き取ってあげて、絆創膏を貼りました。
「はい、これでお仕舞いですよ。よく頑張りました、偉いです」
大地君はもう泣き止んで、貼られたばかりの絆創膏の表面をなでていました。
「あ、梓さん」
後ろから雅ちゃんに声をかけられたので振り向くと、落ち着きを取り戻したいつものしっかり者の彼女がいました。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって。急いでてこいつの手引っ張って走ってたら、転んじゃって……」
「そうだったんですか。けど雅ちゃんに怪我なくて良かったです。ああ、そうだ、これをどうぞ」
私は雅ちゃんの手を取って、そのまだ白くて柔らかな掌に自分が持っていた数枚の絆創膏をのせました。
「雅ちゃんも常備することをおすすめしますよ。スポーツをしているなら特にです」
「え、悪いよ……」
「気にしないでください。それにまた何かあったら、今度はお姉さんが守ってあげないといけませんよ」
雅ちゃんはまだ痛む膝に負担をかけないように立ち上がる大地君を見て、ありがとうとお礼をした後受け取ってくれました。
大地君も、私に褒められるよりお姉さんに褒められた方が嬉しいでしょうし。
「それじゃあ二人とも、お気をつけていってらっしゃい」
私は二人の背中を軽く押してから、手を振りました。
もう元気になった大地君が大きく手を振り返してくれて、遠慮がちな雅ちゃんが頷きながら、今度は優しく弟の手を引っ張って歩いて行きます。
そんな二人の後ろ姿をしばらく眺めていました。
羨ましいなと思ってしまったんです。私は一人っ子ですから、ああいう光景は憧れてしまいます。
友達に聞けば兄弟なんかいいことはないと口々に言いますが、そう言っている顔が本当に嫌そうじゃないんですから、説得力がありません。
「相変わらず優しいわね」
急に後ろから今朝の気温よりずっと冷え込んだ声が聞こえてきました。
振り向くと無愛想な顔でそっぽを向いた、私と同じ制服の綺麗な顔立ちの女性が立っていました。
高い鼻に、細い輪郭。そしてポニーテールで一つに束ねた後ろ髪の光沢。いつ見ても綺麗で、少し嫉妬してしまう自分がいます。
「わざわざ反対の道に行ってさ」
「大地君の泣き声が聞こえたものですから。それより、おはようございます、先輩」
沢良宜先輩は私の挨拶にうなずきだけ返しました。相変わらずなのは、お互い様じゃないですか。
「今日はお早いですね」
「日直だからよ。あんたこそ、毎日毎日早いわね。学校近いんだから、ゆっくり寝なさいよ」
「早起きが癖になっちゃっていますから」
「あ、そう」
先輩は会話も程々に、すぐさま背中を向けて歩き出しました。
「ほら、行くよ」
素っ気ないのに言葉に暖かみを感じるのは、先輩の特長で私はそこがとても好きです。
「はい!」
返事をして、先輩の横に並びます。先輩は背中にテニスラケットを提げていて、一歩足を動かす度にそれが小さく揺れていました。
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