第16話 破壊願望

 ハートフルシンドローム。

 彼女が車椅子を使い始めてから正式に病名を知った。

 僕は医学の知識には疎い。だからそれがどのような仕組みか詳しくは分からない。けれど心臓が血液を全身に送る過程において、身の末端である足へ問題が生じたのは彼女の言葉から理解できた。


『私の病気の名前はね。ハートフルシンドロームっていうんだ。安っぽい映画みたいな名前でしょ?』

 

 旅を中止した次の日、彼女は挨拶よりも早く口火を切った。それはまるで僕から詮索されるのを避けるようだった。

 笑えなかった。このタイミングで彼女が自分の弱点を語り始めたことに。

 生きたくもなかった僕が生きていて、生きたくてしょうがない彼女が死んでゆく。そんな事実を一向に認められずにいた。

 あの夜、何気なく一緒に見ていたあの月が最高だったなんて思いたくもなかった。

 戻りたい。時を戻したい。

 彼女の待つ病室の前で一呼吸置く。なにを喋ればいいのだろう。昨日帰ってからずっと考えていた言葉も今じゃ頼りない。彼女に会うのが辛くなる日が来るなんて思ってもみなかった。


「東雲くん?」


 部屋の中から彼女の声が僕を呼ぶ。このまま帰ってしまおう、という選択が潰れた。でもこれで良かった。逃げられなくなったのだから。

 スライドドアの向こう側では彼女が笑っていた。ゆっくりと開いたその先を見つめるのがどれほど恐かったか、安堵とともに睨めつけたくなった。


「よく分かったね。僕がいるって」

「東雲くんは時間を厳守する人だから」

「…そう」

「まぁそこ座ってよ」


 首肯だけしてベッド横のパイプ椅子に座った。聞きたいことがたくさんある。でも言葉にしたくはない。自分の存在が遠くなっていく気がした。


「おやおや、それは私への差し入れかな?」

「ショートケーキだよ」

「ありがと。流石に私の好みを熟知してるね」

「その、今日は君の誕生日だって聞いたから」

 

 これは保険だ。なにも話せなくなった時にこの言葉が出るように、と。

 そんなこと知る由もない彼女は満面の笑みを浮かべた。刹那、いっそこんなものゴミ箱に捨ててしまいたいと思った。なにもかも滅茶苦茶になればいい。そんな自己中心的な考えが廻っていた。

 笑わず、言葉も添えず、膝の上で抱えていた白い紙箱を静かに渡した。彼女はそれを横にある背の低い棚の上に置き、「また東雲くんに食べさせてもらおうかな?」と跳ねたリズムで囁いた。

 もう辟易だった。

 なにもかも作り物で嘘で、それを僕が強要している錯覚さえした。

 彼女の笑った顔、その瞳を直視できない。

 穢れている。自分の全てが。

 吐きたい。潰れてしまいたい。


「ねぇ東雲くん聞いてるの?」

「うん」

「どうしたの? 具合悪い?」

「うん」

「大丈夫?」

「大丈夫なら具合悪くないでしょ」

 

 陰険な自分がそこにいた。なにか大切な部分が綻んで鈍く消えた。言ってはいけないことが量産されていく。どうしようもなく染まっていく。


「東雲くん?」

「ねぇ。なんで君は僕に出会っちゃったの?」

 

 彼女の笑顔が滅却した。顔をうつ向かせたまま返事はなかった。

 壊れた。いや壊した。大量に作られた醜悪な言葉達が嘘のように消えていく。ここにいる意味が透明になっていく。

 そっと立ち上がる。謝れない。一言の謝罪で済むような軽い言葉ではなかった。それは全てを否定し、確かに心を殺そうとした。

 スライドドアを閉めながら、萎れた彼女の姿を最後に見た。正直、罪悪感よりも安堵感に襲われた。これで僕は僕を否定しながら死んでゆける。そう思った。

 やはり変わらないのだ。

 どんなに否定しても屑が生み出したものは屑でしかないと分かった。

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好きって言葉が言えなくて 村雨 優衣 @you-i

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