第15話 消えない思い出と最高の感じかた
【最高の思い出を作ろう】
早朝に送られてきた彼女のメールが頭に浮かんだ。
「最高が続けばいいのにね」
バス停で一人佇みながら、満月を三日過ぎた八分咲きの月に言葉が溢れた。彼女を待つこの時間も、その最高の思い出に含まれているのだろうか。
浮き足立った腰をベンチに下ろす。二つあるベンチは僕が座ると定員になり、辺りに立ち姿の人もいなくなった。照明灯に停留看板が照らされ綺麗に見える。小さな虫を集めてしまうのは少し残念だけど。
それから五分ほどしてバス停前に彼女を乗せた車が止まった。運転席と助手席には彼女の両親が座っていて、ウインドウ越しに軽めの挨拶を交わした。娘を頼むよ、とかそういう言葉を聞くのだろうと思っていたのだけれど、「気をつけてね」「いってらっしゃい」とハニカミながら言われただけだった。
別れの車に二人で手を振って見送り、僕はさっきまで座っていた場所を譲ってあげる。そしたら「すごく優しいね。今日は雨降らないといいけど」と道化た口調が耳に届いたので軽くため息を吐いた。それなりにいつでも優しいよ、という言葉なきメッセージだ。
二泊分の荷物を入れたリュックを抱え座る彼女。それを傍らで一瞥して、「リュックに押し潰されそうだね」と思いつくままに皮肉を吐く。彼女はクスッと笑い、「確かに足痺れてきたかも。歩けなかったらお姫様だっこしてね」と少しリアルな冗談を返した。僕はいつも通りのリアクションをしながらも淡く思い、そして願った。
いつもとなにも変わらない彼女がこのまま続きますように、と。
夜の薄明かりに照らされた朧げな横顔。太陽みたいな性格をしているのに映えるのは夜の出で立ちだ。それはあと少しで月から迎えが来るんじゃないかと思うほど、透明さと鮮やかさを帯びている。
「ねぇ東雲くん」
ぼんやり見ていた照明灯から彼女は僕に視線を移す。
「なに? バスなら後十分ぐらいで着く予定だけど」
ふふ、と彼女が含み笑いを浮かべる。
「私ね。もう楽しいよ。すごくね」
「君はいつだって楽しいそうだけどね」
「そう? なら今日は特別楽しい」
そう呟き、夜空を見上げる彼女の視線が遠くに感じた。だから僕も近づくよう一緒に夜空を見上げる。
「なら、なによりだね」
「他人行儀だなぁ。私は東雲くんにとっても特別じゃなきゃ嫌だよ?」
「わかってるよ」
「ほのんとに? あ、流れ星」
慌てた口調で彼女が真上を指差す。
「どこ?」
「残念、嘘でした」
そう悪戯げに言う彼女の視線は辺りを一瞥していた。釣られて反応したのが僕だけじゃないことを心中で楽しんでいるのだろう。その隣のおじさんにいたっては訝しげな咳払いをしたので、小心な僕は反射的に会釈を返した。
「全く。君ってやつは」
「ごめんごめん」と彼女は痛いげもなく言い、ワンピースのポケットからスマホを取って画面に親指をを滑らしていく。メールの届け先は僕だろうか? タイミングよくジーンズのポケットからメールの通知音が鳴った。
【みんなにこの夜空を見て欲しくてね。ほら、たびは道連れ、世は情けってね】
スマホを確認する僕の傍らで彼女はひっそりと笑っていた。何気ない表情一つ一つを何種類も持ち合わせいて、たまにこっちが迷子になりそうだ。
流れ星の流れない夜空をもう一度見上げる。特別なことなんか起きなくても、彼女が見ているものを僕もそっと覗いていたかった。
「ねぇ、これも君がいう最高に含まれているのかい?」
「当たり前だよ。そしてこれからもずっと」
「君は本当にずっと楽しそうだね」
頭の裏が熱い。君の言葉を今すぐ否定してやりたいよ。だってずるい。ずるすぎる。君はいつだって無責任だ。でも、それでも、それ以上に君を否定したくないよ。君に会わなければ、そんな重い気持ちを未来で背負って生きるなんて僕には無理だよ。
だから、ねぇ君は‥‥
辿り着いた言葉が出ない。それはあまりにも綺麗な言葉で、今の僕には口から出る前に喉で霧散してしまうのだ。伝えたいことをそっと片隅にしまい、彼女の頬を一瞥した。いくら足掻いても僕は変わらず僕なのだ。いくら誰かが手を尽くそうとも。
「それに今日も月が綺麗だね」
そう囁きながら彼女が振り向きざま僕に微笑んだ。
あまりに唐突に刻まれた言葉。聞いた瞬間、背筋に電気が流れた錯覚を覚えた。だがそれはあまりにも短絡的な思考による反射で、わずかな間も待たず平常な思考を取り戻していった。そう、彼女は知らない。その言葉に隠された意味を。教科書に載っていた夏目漱石に落書きをするような女子高生が知るはずもない。
見計らったようにバスが停留所に止まる。鼻から小さく息が漏れた。
「きっと旅の前だからそう感じるんだよ」
なんでもない回答とともにチケット拝見のため列に並ぶ。彼女はベンチに座ったまま。きっと最後に入るのだろう。
気にせずそのまま待った。
けれど前で並んでいた五人がバスに案内されても座ったままで、
「ねぇ行くよ。次のバスなんて待てないよ」
痺れを切らしながら僕なりに大声で言った。すると彼女は少し困り笑いを見せ、決して暗くならないように、
「東雲くん、ごめんね」
と明るく言った。それはもういつもの彼女の声ではなくて。
「すいません。先行ってください」
彼女に駆ける。冗談を言って欲しかった。今なら怒らないから。
けど、その姿を見て‥‥
「ごめんね、東雲くん。なんか立てないや」
ワンピースから出たふくらはぎは小刻みに震えていて、僕はなにもできなくて、彼女はそんな僕なんかよりずっと冷静で、
「大丈夫だよ。東雲くん。ごめんね。本当にごめんね」
震える足を両手で押さえ僕に笑って見せる。彼女の声は明るくも、隠し通せない綻びがあって、そんな状況でさえ僕は自分の身体の震えを抑えるのに必死だった。本当は泣き出したい彼女を励ますこともできなかった。
どうして、その言葉が嫌悪感とともにグルグル巡っていた。僕を救ってくれた彼女を救えない現実、どうしようもない無力の中で声もなく彼女に謝っていた。
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