第14話 二つのメール    

「三日後、京都に行こう」

 

 お昼を食べようと入った近くのラーメン屋で箸に麺を掴み彼女は言った。夏だというのに熱々の味噌ラーメンを頼むあたりが逆に清々しい。

 

「なんで京都?」


 テーブル越しに彼女の麺を啜る音を聞きながら、冷やし中華のハムにからしを塗る。ズルズル、という効果音が耳に心地いい。

 

「ほら高二の夏に修学旅行で京都に行くでしょ? だから私も京都見たいの」

 

 ‥‥なるほど、そういうことか。

 

「三日後か。また急だね」

「ダメ?」

「いいよ、行こう」

 

 別に予定があるわけじゃないし明日でもいいくらいだった。けど、あまり素直に反応すると恥ずかしい。なんでもない感じを装って冷やし中華の麺を口に運んだ。

 

「じゃあ決まりね。キャンセルは受け付けませんので」

「うん」

「今日は旅行に持ってくもの、たくさん選ばないとね!」

「あぁ、うん」

 

 運動会前の小学生みたいな気合いに、僕は若干たじろぎながら首肯した。

 今日は長い一日になりそうだ。そんな予感とともに僕は冷やし中華にさほど手をつけられていないことに気がつく。彼女においては麺を食べ終えそうで、僕の様子を見ながら食べるペースを落とし始めた。

 

「東雲くん、話ながら食べるの苦手だよね」

「まぁ、これでも良くなったほうだよ」

「私と出会って?」

 

 そうかもしれない。口にはしたくないけれど。


「僕に照れて欲しくて言ってるの?」

「そうだよ。私と出会って?」

「じゃあ、みすずさんと君のおかげかもしれない」

 

 薄めてしまった。言いたいことはもっとしっかりとした一人に対しての言葉だった。

 

「なんか可愛げがないね」

「だから、僕は可愛いって言われるの好きじゃないんだよ」

 

 口早に言って残りに箸を伸ばす。さっさと食べてしまわなければ。

 っごほ。

 慌てて食べたせいか小さく噎せる。さらに冷やし中華の酸っぱさが喉の奥に染み、瞼の下から溢れないほどの涙がじんわりと瞳孔を覆う。

 

「大丈夫?」

「大丈夫。なんともないよ」

 彼女の頬が緩む。

「慌てなくてもいいのに。時間もたっぷりあるんだし」

「別に慌ててないよ。ただ麺を勢い良く啜りたかっただけ」

「そうなの? でもよく噛んで食べるんだよ」

「そんなの言われなくても分かってるよ」

 

 僕の投げやりな言葉に軽く頷いて彼女は味噌ラーメンに視線を戻した。

 それから二人の間に会話もなくなり、僕は冷やし中華を食べながらたまに彼女の様子を盗み見した。いきなり静かになったから自分のさっきの態度について考えたけど、相変わらず彼女は微笑み気味で冷やし中華の味よりもそっちが気になった。どうしてこうなったのか、それを聞きたい気持ちはもちろんあったけど、大縄とびにうまく入れない小学生みたいにタイミングが掴めない。もしかしたらこうやって笑うことにより恐さを演出してるのかもしれないとさえ思った。

 それでもとうとう居た堪れなくなり、冷やし中華を食べ終えるタイミングで自分が言わなきゃいけないことを頭のノートにまとめた。

 

「あの、さっき心配してくれてありがと。それにごめん」

 

 彼女は微笑み気味の顔を少し呆気じみた表情に変化させると、二秒ほど固まり、それから困り眉でゆるやかに笑った。

 

「どうしたの、急に」

「いや、なんでもないんだけど」


 味噌ラーメンのスープをレンゲで掻き回しながら彼女は視線をそこに落とした。その表情は笑っているのにさっきまでとは種類が違うように思えた。

 

「ねぇ、東雲くんは私といるとき楽しい?」

 

 楽しい、と素直にそう即答したかったけど、

  

「高校生をしてるんだなって気持ちになるよ」

 

 口から出る言葉は捻くれて伝えたい成分を薄くしてしまう。聞きながら彼女は瞼を上げ上目使いに僕の目を見た。一瞬ふいをつかれたけど視線は逸らさない。

 

「東雲くんにとって高校生ってなに?」

 

 難しい質問と思いながらも、その答えは彼女と出会う前から僕なりにあった。

 

「なんだろう? 今まで眩しすぎたもの、かな」

「じゃあ今、東雲くんはキラキラしてるんだね」

「そうやって揚げ足をとるんだね、君は」

 

 突然、彼女は手の甲で両目を隠す。

 

「うわっ、東雲くん眩しすぎ」

「いちいちそういう反応ができる君の方が僕には痛いぐらいに眩しく思えるけどね」

 

 目を表情から隠しても、口角がにやけているので彼女の表情全体が簡単に想像できる。

 

「そう? 羨ましい?」

「そこは普通かな」

「そこは普通なんだ」

「うん、普通」

 

 取り留めのない会話が続いていく。僕が彼女に聞きたかったことはぎこちなくも頭の片隅で蠢いていて、口から言葉になるのを待っている。そんな状況がしばらく惰性的に流れていき、店に長居するのも忍びなくなった頃、彼女が「そろそろ行こうか」と言った。僕は頷いて彼女と一緒にレジスターのある入り口前まで静かに歩いた。精算が済み外に出ると室内との温度差が身を襲う。そこら中の道から陽炎が確認できて、まるで鉄板料理にされているかの気分だ。彼女は右手に持った麦わら帽子を被り、「私は冬より夏が好き」とはにかんで囁いた。僕は「どっちも嫌い」と小さく零した。

 彼女が僕の半歩前を歩いていく。どこに行くかは聞いてないけど、そのままついていきショッピング街道へ入った。この道を通るといつも彼女と葬式店に入ったことを思い出す。どうやら一生忘れない経験になってしまったようだ。

 

「そういえば京都に何泊するの?」

「そこは修学旅行の気分を味わいたいから、同じ二泊三日だよ」

 一泊二日だと思ってた。

「ほんとに二泊三日でいいの?」

 −−彼女の誕生日に宿泊日が重なってしまう。

「ん? なんでダメなの?」

 

 あっけらかんとした声が耳を抜ける。この態度をどう捉えればいい?

 聞きたいことがさっきのを含め二つに増えた。一つは今日までにタイミングを見つけ聞けそうだけど、もうひとつは、サプライズ、という言葉が脳裏でちらついている。もしかしてみすずさんはこのことを知っていたのか? 彼女がみすずさんに旅行の相談していたと考えてもおかしくない。ということは今日たまたまロビーでみすずさんに会ったのは偶然じゃないってこと? いや、さすがにそこまでは考えすぎか。

 

 「おーい、東雲くん聞いてる?」

 「うん、大丈夫。聞いてるよ」

 「もしかして二泊三日だと都合悪い?」

 「いや、大丈夫」

  彼女はくすっと小さく笑う。

 「内緒は多いほうが楽しいよね」

 「そうかもね。楽しいことを秘密にしてればの話だけど」

 

 ショッピング街道の真ん中、そこにある大型デパートへ足を運ぶ。最初に見に寄ったのは二階にある百円ショップ。旅行に持っていくものを買おう、というコンセプトで中を巡っていたのだけど、彼女がパーティグッズのコーナーを気に入ってしまい、「ねぇねぇこれすごくない? これ百円だってよ」「いや、どう考えてもいらないでしょ」「東雲くんこれ頭に被ってみなよ」「絶対やだ」オチがない漫才みたい会話が流れていった。

 なにも買わず百円ショップを出てからは、同じフロアにある靴店と三階にある本屋に足を運んだ。どちらも二十歳を越えていないだろう客層が多くいて、その中には男女で手を繋いでいる人達もいた。肌と肌の接触、そういうものを僕はどういう気持ちで見ればいいか分からないし、なにより見ること自体に抵抗がある。でも興味がないわけでもなく、視線は好奇心からたまにそういうものに泳いだ。彼女はそんな僕を時折小さく笑い、「手でも繋ぎたいの?」「東雲くんの手は冷たそうだね」「どうしたの? 顔赤いよ?」などとふざけた様子で口にした。僕はそういう言葉に対し、「はいはい」とあしらうようにしていたけど、内情はあたふたしていて涼しい顔はできてなかった。

 本屋で小説を一冊買った後、四階のゲームセンターにも行った。一応、一回ずつクレーンゲームはプレイしたけど、どちらもセンスがないことに気付きすぐにやめた。それから遊具をいろいろ見て回り、最終的に太鼓の達人を二人プレイしたけど、これもどちらもセンスがなくて僕らは顔を見合わせて苦笑いするのだった。

 そんなことがあり、ようやく最上階の六階にある自動販売機横のベンチに腰を落ち着かせることができた。隣に座る彼女の機嫌は良好で右手には冷えたコーラ缶。今ならラーメン屋でのことを聞けそうな気がする。でもそんなこと今更聞いてどうなるわけでもないのか。右手に持った緑茶缶に視線を置いて僕は思考を巡らしていた。

 

 「どんな小説買ったの?」

  ゆるやかな彼女の声が耳に届く。

 「えっと、『吾輩は猫である』知ってる?」

 「そのぐらいは知ってるよ。夏目漱石でしょ?」

 「そう。君が教科書に落書きした人ね」

 

 僕が呆れ口調で言うと小刻みに彼女は笑った。

 

「だって教科書にある夏目漱石の顔って恐くない? 昔の千円札に写ってるのもそうだけど、なんか目だけ笑ってないみたいな。あぁいうの地味に恐いなぁって。だからお髭とツケマ付けて可愛くデコレーションしたの」

「‥‥可愛くって」

 

 夏目漱石に彼女の言葉を聞かせたらどんな反応をするんだろう。

 

「ところで『吾輩は猫である』がどうかしたの?」

「あれは猫の視点で物語が進んでいくでしょ? 同じように現代の作家たちが猫の視点でかいたものを短編集にしたんだ。今日はそれを買った」

「あ、なんか面白そうだね」

「うん」僕が相槌を打つと、彼女ははそれに返して微笑む。

「そういえば、東雲くんはなんで小説が好きなの?」

「分かんない。食べ物の好みと一緒で答えられるものじゃないのかも」

 

 彼女の眉間がほのかに力む。

 

「えっと、それは酸っぱいものが好きなのに、なんで酸っぱいものが好きなのかは分からないみたいな感じ?」

「あぁ、そんな感じかもね」

 ぼさっと言った僕の目を見て、彼女は得意げな笑みを浮かべる。

「じゃあ、私から東雲くんが小説を好きな理由を推測してみていい?」

「それ、どういうこと?」

「まぁまぁ聞けば分かるから、いい?」

 

 その瞳からウインクが飛ぶ。僕は「‥‥言ってごらん」と呟く。彼女の思いつきの行動一つ一つに大きな意味はないのかもしれない。

 

「東雲くんが小説を好きな理由。それはね、人間そのものに興味を持ってるから」

「それってつまりどういうこと?」

 

 言っていることを飲み込むのに時間がかかりそうだ。けど今の彼女の言葉には不思議となにか意味がある気がした。

 

「東雲くんは人見知りだけど、人自体は嫌いじゃないんだよ。じゃなきゃ人が作った物語を好き好んで読もうとは思わないでしょ?」

「‥‥そういうものかな」

 

 しっかりと返す言葉が浮かばない。今まで生きていて気付かなかったことを出会って一ヶ月もしない彼女に見透かされ、それなのに悔しさよりも安堵感が胸に押し寄せ、それがなぜかも分からなくて。

 緑茶缶のふちに口を付け、冷たさを喉に通す。彼女も横目で僕を見てからコーラをゴクゴクと飲んでいく。そうしてできた貴重な数秒間にも僕は話すことを見出せず、

 

「人間って面白いね。特に東雲くんは」

 

 結局、彼女のバトンを受け取った。

 なにもかもが情けない。改めるまでもなくそう思った。けどそれと同時に聞きたいという感情も強くなっていく。そしてようやく、

 

「‥‥君はあのときどんな気持ちだったの?」

 

 口から言葉が溢れる。彼女は聞きながら困り笑みで首を傾げた。

 

「それって今日の話? それとも昨日の話?」

「今日。ラーメン屋で‥‥その、静かになった時間があったじゃん。そのときの話」

 

 沈黙のまま数秒おき、彼女はコーラを一口喉に通した。横顔の微笑は悩んでいるというよりイタズラめいたものだった。

 

「東雲くんはその気持ちを知ってるはず」

「知らないから聞いたんだけど」

「しょうがないなぁ。教えて欲しい?」

 

 僕は黙ったまま首肯する。

 彼女はウインクするとはにかみながら瞳を覗かせた。

 

「それはきっと、東雲くんが『優しい泥棒』になったときと同じタイプの気持ちだよ」

 

 ラーメン屋での情景が脳裏に浮かぶ。そしてそれは彼女の言葉とともに気持ちを鮮やかに染め、答えになっていく。口から「ありがとう」と言葉が溢れる。温かさがうなじを流れ足の先まで浸透していく。あぁそうか、まるで慣れていなかったんだ。いわゆる人と人の間にあるこういう心と行動に。彼女はあのとき、僕が食べ終わるのを待っててくれただけなんだ。それなのこんな深読みして::

 

「ふふ、どういたしまして」

 

 流れるように言うと、彼女は立ち上がりゴミ箱に缶を捨てた。僕はハッとして、まだ半分以上ある飲みかけを慌てて飲んでいく。けど早々に噎せ、吹き出しそうになるのを必死に耐えるのだった。再び彼女が僕の横に座る。その表情は微笑み気味であのときと一緒だった。僕は鼻から小さく息を零し、自分のペースで緑茶を飲み始める。それくらいしか彼女の行動に答えることができなかった。

 そうして飲み終わた後は、このフロアを二人で見て回った。雑貨店が数件あって、どこの商品のポップもカラフルで僕は見ていて飽きなかった。彼女はポップの文字を目で追うよりも売られているリュックやアクセサリーを身に付け、「これどうかな?」「東雲くんもこのメガネかけてみてよ」「やっぱりリュックは派手なほうが可愛いね」話しをすることがメインだった。

 デパートを出たのは四時頃で、外はじめっとした暑さが続いていた。そのせいか、彼女の頭に乗った麦わら帽子と、夏風で揺れる黒い長髪が涼しげに見えた。

 この日は五時から予定があるらしく、彼女とは駅ビル前の駐車場で別れた。迎えの車には彼女の母親と父親がいて、「いつもありがとね」「これからも菜月と遊んでやってね」車外で言葉をともに僕へ小さく頭を下げた。彼女は両親の様子に少しソワソワしていたけど、「だってよ、東雲くん! 仲良くするんだよ」と冗談めいた口調でその場を切り抜けた。結局、この場に一番緊張していたのは僕で、まるで借りてきた猫みたいに大人しくなってしまった。もともと人見知りなのにいささか無理がありすぎたのだ。

 彼女の父が家まで車で送ると言ってくれたけど、それは断った。彼女は「乗ってけばいいのに」とぼやいてうたけど僕にも僕で予定があるので、「また今度」と言葉を添え小さく手を振った。

 彼女を乗せた車が曲がり角を左折して消える。僕は一人になった。さっきまでの照れ臭さは消え、かわりに静けさが霧雨のように滴る。


「明日はどうするんだろう」 

 

 溢れた言葉が駅前の音に溶けていく。脳裏には父のことも浮かんでいたけど朝より小さく軽くなっていた。避けては通れないことだけど自分からぶつかる必要もないと思えたのだ。大きく背伸びをしてから、ふくらはぎの疲れとともにショッピング街道へと来た道を戻りめる。

 その途中の十字路で信号が青になるのを待っていると、ジーパンのポケットに伝わるバイブレーション。確認したら彼女からのメールで、

 

【明日は十時に校門前で[ピース] 四葉のクローバーでも探そっか[笑顔] 以上今日も笑顔が素敵な菜月ちゃんなのでした、まる】

 

 絵文字を織り交ぜた言葉と一緒にミミの写真が添付されていた。

 少しは夏目漱石に興味を持ってくれたのだろうか。そんなことを考えていると人々の足音で信号が青になったことに気がついた。

 僕は足早に横断歩道を渡り、信号を少し越えたところで立ち止まる。スマホの画面越しに色々な言葉が浮かんでいた。カラフルな絵文字も使ってみたかった。

 けれど結局は【分かった。明日、校門前で】と絵文字なしの言葉を送信した。単純にメールに慣れてなくて、送る内容に自信が持てなかったのだ。

 一件送信しました、という横文字とともにそよ風が頬を撫でる。

 ふとメールを打つ父の姿が目に浮かんだ。

 初めて息子に送ったメールに、その謝罪に、あの人はなにを思ったのだろうか。       

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