背を守る掌

明里 好奇

   (声を、殺して)



あいつの背中は、――大きい。

広くて、厚い、その背中は腹が立つほどでかい。

身長は負けてるけど、歳は俺の方が上だ。

身長が勝っていたとしても、あいつと同じ背中の広さが俺に備わっていたかと聞かれたら、正直なところわからない。

あいつの背中の大きさは、物理的な表面積の問題なんかではないのは、薄々気が付いている。


朝起きて、隣の部屋から物音がしないことに気が付いた。今日は早めに家を出る日なのかもしれない。そういえば、同じ屋根の下で暮らしているのに生活リズムがちぐはぐで、すれ違ってばかりいる。

けだるい体をベッドから起こし、髪を雑に梳かす。ベッドボードに置いてある目覚まし時計を鳴る前にオフにする。ついでにメガネを取ってつけた。


自室から出て、フローリングを裸足で歩く。ひたひたと、足音が静かな廊下に響いた。階段を下りてリビングに向かう。ドアを開けようとして、人の気配がした。居ないんじゃなかったのか。少し、安堵した。

一人は、寂しい。口には出さないけど。言ってはやらないけど。


リビングのドアを一呼吸おいてから、そっと開ける。すると、熱した油の香りがした。広めのキッチンに立つあいつの姿も確認した。

ああ、なんだか久しぶりに見るな。あいつの姿。

あいつは身長が高い。シャキッと立ってくれていれば、それはそれはスタイルがよく見えるだろうに、彼は少々猫背なのだ。宝の持ち腐れだと思う。言ってはやらないけど。


「おはよう」

何事もないように、いつも通りに聞こえただろうか。普通を忘れてしまっていた。普通を意識してしまうくらいには、久しぶりなんだと思うとすこし、寂しく感じた。

「んー? おはよー」

気の抜けた声が、のんびりと返ってきた。何かに集中しているようで、上の空だ。

小さめのフライパンをとんとんと小刻みに弾ませながら、ゆっくりとこちらを向いた顔は、記憶しているよりも少しばかり、ほっそりとしていた。

「オムレツ、食う?」

真っ白の皿に健康的な黄色がまぶしいオムレツが移される。移動の振動でふるふるとしているのが魅力的だ。

魅力的だとは思うのだが、いかんせん食欲がわかない。

「悪い、今はそんなに」

気のない返事をしても、奴は「そっか。じゃあ、焼いておくからそのうち食べてよ」とニコニコしている。なんとなく毒気を抜かれてしまった。奴の顔はどこか緩く、脱力してしまう。良くも、悪くも。


奴が俺のためのオムレツを焼いているうちに、顔を洗う。洗面を雑に行うと、整髪も雑に行った。仕事に行くだけだ。どうせ始まってしまえば一時間と持たずにセットしても崩れてしまう。過酷というわけでもないが、楽ではない仕事だからだ。不潔にならない程度に整えると、料理し終わったあいつと、入れ替わりに洗面所を後にした。


洗面所を出てすぐに振り返る。コンタクトを入れようとしている奴の背中が、手を伸ばせば届く距離にあった。白いシャツにはしわひとつなく、奴の広い背中を包んでいる。


いつもの光景だ。俺はそれを見て、ああ、俺も仕事に行かないと。そう思うだけだったのに。今日はなんだか、俺は変だったんだと思う。



洗面所の前で立ち尽くす俺を、コンタクトをつけ終わった奴が不思議そうに見下している。そりゃそうだ。俺が進路を塞いでいるんだから。優しいこいつは、俺を押しのけたり、無理に通ろうなんて、しない。少し猫背のまま、不思議そうに俺の名前を呼んだ。呼ばれたって、自分がどうしたいのかわからない。


なんだか、寂しかったのだ。そう、理由はわからないけれど。

うつむいているからこいつの表情は俺には見えない。見えないが、きっと眉根を下げて困ったように微笑んでいるだろうと、容易に想像できた。それくらいには、同じ時間を共有してきた。


視界が真っ白になり、体温が体を包んだ。頭部に暖かい何かが覆いかぶさっている。それが奴の大きな掌だと分かる頃には、その手は俺の背中に回されていた。

今の状況を理解すると、いたたまれなくなってしまい現前を覆う胸板を押し返してみたが、びくともしない。

「……何してんだよ」

「何って、そんなところに立ってるから」

「やめろよ、こんな」

「朝から疲れた顔しちゃって、ここから動こうともしないし……寂しいのかと思った」

息が、詰まった。なんでばれてんだ。そうだった、こいつは勘が鋭いんだった。

「ちょっと、疲れてただけだ。悪かったな、辛気臭い顔で!」

語気を荒げて、その勢いのまま離れようとした。今の精神状況でこの距離はまずい。胸の真ん中あたりが、むずむずとしてしまう。ついでに瞼も熱いし、のどが絞まる感覚もある。これは非常にまずい。見られたくなんかない。特にこいつには。

歳は近いといっても、俺の方が年上なんだ。そんな格好の悪いところ、見られるわけにはいかない。

「暴れたって、逃がさないよ?」

少し楽しそうに言ってから、両手で頬を挟んで優しく上を向かされる。一体何をしているんだ、俺たちは。朝の時間は一分だって惜しいはずなのに。

目覚まし時計が鳴るより前に、二人して起き出して、本当に一体何をしているんだろう。

「そんな、泣きそうな顔を見たら、放っておけないでしょう?」

また、困ったように笑って、片方の手の指の背で俺の乾いた頬を撫でた。

それは優しく、触れるように、拭うように、数回動いた。

「……泣いてなんか、ないだろ」

バツが悪くなって、強引に顔を逸らした。これ以上、俺を見ないでくれ。頼むから、知らないままでいてくれよ。

「泣いてるなんて、言ってないでしょ。俺は」

ぐっと、体がこわばった。確かにそうだ。そうだが、あまりに涙を拭う動作に似ていたのだ。とはいえ、奴の策にはまってしまったらしい。


「じゃあ、背中貸せよ」

俺は、どうかしていたんだ。知られているのなら、見られてしまうのなら、少しでも見ないでいてほしかった。

「えー?」

不満そうに、それでも素直に半回転をして再度現れた背中に、俺は額を押しつけた。つもりだった。思いのほか強く、大きな背中に額がぶつかってしまった。骨と骨がぶつかる鈍い音がする。

「悪い、加減がうまくいかなかった」

謝罪はすぐに口から滑り落ちた。びっくりしたまま、へそ曲がりでも素直に謝ることができた。

「ん? え? 大丈夫だよ?」

拍子抜けするほど、間抜けな返答が返ってきた。心配して損したと思ったら、切羽詰まっていた横隔膜や肩は、少し落ち着きを取り戻していた。

ワイシャツにはしわひとつない。額をぐりぐりと、背中に押し付ける。猫がやればかわいい動作も、大の男がやったところで何の意味もない。もしかしたら他の動物だったなら意味があるのかもしれないが、今の俺たち人間にはまったくもって必要のない行為。

それをこの男は、黙ってされるがままになっている。額に背骨の出っ張りが、ごりごりとしてこいつの体に脂肪が少ないことを、俺に知らせる。

これは女の体ではない。触れるだけで壊れそうだと感じることはないし、やわらかさに包まれて安心感を得ることもない。

それでも、俺にとってこいつの体温を感じて、触れていられるだけのこの行為が必要だった。


いつもは困ったように受け入れて、俺が満足して解放したら終わりを迎える。それが常だった。俺の気分が落ちてそれを口にするまでもなく、奴が気付いて俺の好きにさせている、そんな状況だ。

しかし、今回は少し普段とは違った。


「おい、なにしてんだよ」

「何って、胸貸してる」

「そうじゃなくて!」

お前に、見られたくなんかなかったんだ。お前にだけは、見られたくなかった。俺がこんなに脆くて、こんなに格好悪いところ。格好いいお前にだけは絶対に、見られたくなんかなかったんだ。

視界はもう一度白で埋まっていて、薄い布地越しに体温があった。俺よりも、高い体温。子供みたいだとよく笑っては、愛おしく思っていた奴の体温。背中に、また掌の感覚。守るように覆われた背中が暖かい。直に触れる体温の凶暴性を俺は知っている。

だってほら、落ち着いていた感情が胸を満たしていく。溺れるように体温とゼロ距離になった体から、匂いを嗅ぐ。ぎりぎりで突っ張っていたハリボテの心は音もたてずに崩れた。

「大丈夫。顔は見てないから」

だから、なんだよ。優しくするな。大事に、扱うな俺を。お前の彼女なんかじゃないんだぞ。そうやって俺じゃない誰かにも同じように優しくしてきたんだろう。そうやって守るように隠すように覆いかぶさって、そうやって。

俺だけのものに、なるわけないのに。

背中に回された掌が、とんとんと優しくリズムを刻む。それは、もう止められるわけがなかった。シャツにしわが付くことなんて、どうでもいい。胸元あたりを握りしめて、詰まる気道をそのままに、声を殺したまま大きな体に隠れて、泣いた。


「声、出しなよ。苦しいでしょ。俺は何も聞いてない。だからほら、苦しい泣き方やめてよ。大丈夫。まだ、家を出るまでに時間はある。俺なんかじゃ足りないかもしれないけどさ、泣く胸くらい貸せるんだから、痛いときは教えてよちゃんと」

少しずつ言葉を切って、ゆっくりと言葉が降ってきた。泣いている俺を邪魔しないように、注意しながら、その言葉を選んでいてくれているのを知っている。


お前で足りないわけねえだろ。そんなこと、言ってやらないけど。

玄関の先で子供が楽しそうに登校していく声が聞こえる。

声を出して泣く? そんなやり方、当の昔に忘れてしまった。20年くらいずっと、こうやって隠れて泣いてきたんだ。今更出せと言われて、出せるものでもないだろう。

でも、もしかしたらお前と一緒だったら、俺が捻じ曲げて忘れてしまったものもいつか思い出せるのかもしれない。

そんな希望くらい、持ったっていいだろう?


「なんで、おまえが、泣いて、んだよ」

涙でにじんだ視界では、確かにその大男は泣いていた。俺以上にぼろぼろと泣き出して、俺の涙が引っ込んでしまった。

「だって! なんか、うつったんだもん! そんな痛そうに泣いてるの見たらさあ! 我慢できないよ、やめてよもう、俺まで痛いじゃんか!」

「わかんねえよ! 声出すってなんだよ! 俺の泣きはこうなの!」

「なんでそうなるの! 首絞めながら息しようとしているみたいに見えるよ、不自然!」

「だとしてもそんな器用になあ!」

言い合って、どちらともなく笑いあった。

泣き笑うという感覚に、むずむずとした気恥ずかしさと、嬉しいような不思議さを感じて、そのまま笑いあった。


きっと、お互いに玄関のドアを出たら普段通りの一日が待っている。二人とも大人だから、それが当然なのだ。わずかに交差する時間を強引に結び付ける。それでやっと互いに立っていられる。

戦場で背中合わせで戦うような感覚に似ているのかもしれない。互いがいなくなれば、戦況は一気に不利になる。それどころか相手の死は、己の死と直結している。

一蓮托生のようなものかもしれない。


いつか、互いの進む道が違ってしまう日が来るかもしれない。俺たちを分かつのは、一体何か。今の俺にはわからない。

それでも今は、今だけは、せめて。

交わった一瞬のような今を、大切にしていきたいと願う。へそ曲がりの俺でも、それを願うくらいはいいだろう?

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