第8話 フラクセン・ミリア

1.

 エドクセン王国二百四十一年の歴史に女王が存在したことはない。だが、女にも継承権は認められており、いつの時代も複数人の王女が次の国王候補として名を挙げられていた。

 現国王リトレは当年六十歳。明日にも命の期限が迫っているというような年齢でもないが、このところ心身ともに急激な衰えが目立っていた。若い頃からの漁色が原因であろうとされているが、無論公然とした噂ではない。とにかく、王は迫りくる時間に怯え、臣下たちは次の王が誰になるかと頻りに噂し、悩み、あるいは既に戦いの準備を始めているのであった。

 せめて王に自ら継嗣を選ぶ意志があれば、彼らの心はもう少し穏やかで、彼らの選ぶ方法ははるかに陰気であったろう。王の数多くの美妃たちに金粉入りの美酒を贈って進言させるとか、美貌の息子を男妾として献上し、後に養子として王位を継がせるとか、なんであれ、次の王は腐臭漂う貴族社会の積立金をばら撒くような方法で決定したことであろう。

 だが、王は己の後継者問題よりも、己がいかに長生きするかということこそ目下の大事であるようだった。彼は後継ぎのないことを責める臣下を鬱陶しく思いながらも問題を解決しようとはせず、ただ目の前の金と美妃たちを愛し、独占することを至上の喜びとし、それらを奪われることをばかり恐れた。

 後継者が決まることで彼に喜びがあるとすれば些末な政治に割く時間も愛する趣味に使えるということ以外にありえず、自分の子に跡を継がせたいという親として当たり前の願いすらないのが、周囲にとっては、この際は救いであるかもしれない。彼の子には王座に座ることを許されるような人物はいないのである。

 リトレの子に王家の才を受け継いだ者はなかった。父親がそうであったように人柄や政治能力の欠如に目を瞑ったとしても、人並外れた魔力を持ってさえいれば王位を望めたであろうが、それもなかった。それどころか皆、虚弱といってもよい。男子は二十一人の内、実に二十人が夭折し、女子は三十一人生まれたが十三人が死亡、十六人が臣下に嫁いだ。残ったのは男子一人、女子二人だが、やはりこの子らも、この国の王位を継げるようななにがしの能力も持たない。

 彼らに与えられなかった王家の魔力は、リトレの兄弟たちの家系に色濃く伝わっていた。即ち兄のウォールナッド、妹のランダ、弟のソルドロと、同じく弟のリッドセント、そして彼らの子どもたちである。特にウォールナッドの息子キリヘッドとその妹ミリア、ランダの娘ランダリアとデリゼラ、メガの姉妹、ソルドロの息子ラバームとレザロンの兄弟に、リッドセントの息子ラスルール――この八人が、現在、リトレ王の後継として有力視されている。

 八人を数えるのは、王位継承権を有する証である光の指輪リツ・ペリューグが八つであるからに他ならない。本来この八つの指輪は、王の指示の下、選ばれた八人の王子王女にひとつずつ渡されるものである。しかし決まりでは最終的に・・・・八つすべて集めた者が王位を継ぐことになっており、収集の方法は問われない。つまり、まったくの他人が八人の王子王女を殺害して指輪を奪い取ったとしても原則上は王になることが可能なのだが、指輪に込められた魔力を制するには、王族のもので、かつ強大な魔力を持つことが要求されるため、結局は最初の八人以外から王が決まるということは難しく、また原則が乱暴すぎるというので近年では王位継承権を巡って指輪を争う風習は廃れているはずであった。

 しかし、その指輪が先日、秘密裏に城から運び出された。リトレの命令ではなく、王国未来を案じた先王カレドの第一夫人チニーチェリ太后の指示である。古ぼけた風習であっても王家の伝統である指輪を持ち出せば、王にその気がなかろうと後継者争いが開始されると考えてのことで、八人の王子王女を選んだのも太后であった。彼女のこれらの働きは越権行為であったが、王は咎めなかったどころか、これについて知りもしない。つくづく救いがたい王であった。

 二十余年前にソルドロに渡された指輪がひとつ返還されていないことは、無論、太后も知っていた。本来ならばリトレが即位した際、強硬に返還を要求すべきだったが、百年近くの長きにわたり後継者指名は別段の問題なく済んでおり、指輪の存在意義は形骸化していたので、まさか今更指輪を争う事態になろうとは誰も予想せずに油断しきっていたのである。加えてソルドロはチニーチェリ太后の実子であり、彼女は己の腹を痛めた我が子を追求できず、代わりにソルドロの息子に与える指輪はひとつだけとし、兄のラバームにのみ託したのであった。

 こうして、リトレ王をまったく無視した状態で、彼の後継者を巡る競争が始まった。

 争いが表面化する前に指輪所持者たちがまず考えたのは、行方不明の指輪の在処を突き止めることであった。運よく――結果だけを見れば悪く――その噂を聞きつけたのが例のプルスラーク・ルードエランである。この男がアマート一家に辿り着いたのはやはり彼の諜報能力がなせる技であり、ソルドロの息子であるラバームとレザロンの兄弟ですら、父が指輪をどこかに隠したとは聞いていたが、まさか指輪だけでなく父に隠し子がいるとは夢にも思っていない。

 しかし一人だけ、ソルドロの指輪の在処を知る王室関係者が存在した。セシリアの父でアルフィナの養父、オルゾル・リオーネである。リオーネは故ヤルタ・ベルリアニ・フィリツ妃に仕えていたが、妃の死後、退役し、妻の実家であるアマート家に戻った。それからは出稼ぎのため、各地を転々としつつ、旧主家との関係をひっそりと続けていたのである。

 因みに、実はルードエランはこのリオーネの旧主家、つまり国王リトレの兄ウォールナッド一家の周辺を、何か美味い話はないかと嗅ぎまわっていて光の指輪リツ・ペリューグとソルドロの隠し子のことを知ったのであった。当人たち以外で行方不明の指輪の隠し場所を知ったのはルードエランのみであり、王族の話を盗み聞きして気がつかれなかったことは元情報屋の腕が確かだったことを示したが、結局、せっかく得た特大魚を、彼は売ることも食うこともできずに終わった。利益を独占しようと誰にも情報を漏らさなかった強欲があだ・・となったのである。

 オルゾル・リオーネは迂闊にも盗聴されていたとは気がついていなかったが、旧主からついに王位継承権争いが始まるようだと聞かされ、亡き妻から預かった大切な娘と恩を受けた主のために、急ぎ馬車を駆って村に戻って来たのであった。


「……父さん」


久しぶりに見る父親の顔を涙をためて凝視したまま、アルフィナは足を止めた。今すぐその胸に飛び込みたい衝動と、実は本物の父ではなかったのだという恐怖に似た感情とのせめぎ合いで身動きできなくなってしまったのだ。

 先に動いたのは父であった。リオーネは娘を驚かせないようにゆっくりと歩み寄った。


「……聞いたよ、アルフィナ。怖い目に遭わせて、すまなかった。そして、ずっと黙っていたことを許してほしい。母さんとの約束だったんだ」


アルフィナがほんの少し顎を持ち上げて、上目使いに相手の顔を見る。どのように接していいのかわからず戸惑っている様子のアルフィナの前に、リオーネは膝をついた。


「母さんの願いだったんだ。本当の子どもだと思って、セシリアと同じように育ててくれって。お前に真実は言わないでほしいと……」


表面張力で堪えていた涙がアルフィナの大きな瞳からボロボロ零れだした。そばかすだらけの鼻をすすり、しゃくり上げながら、発した声は弱々しく儚い。


「父さんって、まだ、呼んでてもいい?」

「もちろんだよ、アルフィナ。もちろんだ」


リオーネは娘に近付いて、そのあたたかな涙を指で拭いながら微笑んだ。細められた父親の瞳にも涙の膜が張っている。父娘はきつい抱擁をかわし、それから改めて娘は父の顔を見た。

 父と姉はやはり、似ている。目鼻立ちなどそっくりで、セシリアは「母さんに似たかった」とよく言っていたが、今になって思い出せば羨ましい文句だと思った。自分と父親に似ているところは当然ながら存在していないのである。

 だが、いずれも親しい顔であった。アルフィナはもう一度大好きな父親の体に抱き着いて、次に顔を上げたときには、晴れやかに笑っていた――の、だが……。

 アルフィナの表情が、笑顔のままに不意に固まった。

 視界に入った祖母の前に、見覚えのない少女がいる。およそ、この田舎の鄙びた狭い家――しかもティーチが来た時に壊されたのを雑にくっつけただけの扉が風でバタつくようなボロ家には、似つかわしくないどころか不自然そのものの美少女である。あの高価そうな馬車の客であることは一目見て間違いがなかった。いや、あの馬車すらが"お忍び"のための簡素なものであるにちがいない。それほどに美しい少女であった。

 少女と言っても、アルフィナより年上であろう。十六、七歳ほどに見える若い娘で、滑らかな陶磁器のように白くきめ細やかな肌に、ライトブラウンの瞳は春の陽射しのように柔らかく、鼻筋の通った気品ある顔立ちをしている。スラリと伸びた手足と、絹のような長い亜麻色の髪が印象的であったが、あまりにも、その姿に既視感があった。


「ヤルタ……様?」


アルフィナはついその名を呟いたが、まさか、そんなはずはない。少女は確かにメアリーの記憶から読み取ったヤルタ・ベルリアニ・フィリツによく似ているが、妃はメアリーの幼い頃の記憶でも既に大人の女性で、今や故人である。

 だが、あまりにも似ている。つまり、彼女は、


「わたくしは、ミリア。ウォールナッド・フィリツとヤルタ・ベルリアニの娘、ミリア・ベルリアニ・フィリツです」

「王女様……!?」


口に出してから不敬に気がつき、アルフィナは慌てて目を伏せて、ちょこんと腰を落とした。


「よいのです。立ちなさい、アルフィナ」


柔らかで軽やかな、少女らしさの中に凛とした響きを含んだ声である。アルフィナが迷っていると、王女のとなりにいた灰色の髪に灰色の眼をした若者が貴公子そのものといった声で王女をたしなめた。


「そのように軽々しいことをおっしゃってはなりません。ご自分のお立場をお考え下さい」

「お前こそ、なんという非礼を申すのです。アルフィナが何者であるか、聞いているでしょう」

「しかし……」

「少し黙っていなさい」


ピシャリと言い放って、王女は再びアルフィナに視線を落とした。いや、それどころではない、王女は自ら歩み寄ってアルフィナの肩に手を置き、そばかす顔に微笑みかけたのである。


「家の者が失礼をしました。ですが、わたくしを思ってのことなのです。許してくれますか?」

「とっ」


アルフィナは動揺に素っ頓狂な声を出し、顔を真っ赤にしながら必死で続きを叫んだ。


「とんでもな……ございません!王女様!あたし……じゃない、わたし、わたくしは……」

「まあ。無理しなくてよいのですよ。わたくしとあなたとは、いとこ同士――いいえ、もう姉妹のようなものだと、わたくしは考えているのですから。あなたのことを、これから妹だと思ってもよろしいかしら?」

「ええ?でも、でも、その……」


なんなのだろう、この人は?アルフィナは混乱する頭で必死に考えた。

 ミリア・ベルリアニ・フィリツという姫については、アルフィナも話に聞いていたから知っている。彼女以外の名前は正直いっぺんに聞かされて混乱してしまい定かでないのだが、先に彼女の母と、己の父との関係をおぼろげながら聞いていたので印象に残っていた。

 ミリアは、かつてアルフィナの実父ソルドロとともに王位を争い氷の海事件で失墜したウォールナッドと、メアリーが敬慕するヤルタ妃との間に生まれた美貌の姫である。兄のキリヘッドの陰に隠れてあまり目立ってはいないが、生まれつき、その優れた容姿と華奢な体に似合わぬ魔力が評判を呼んでいて、この度、光の指輪リツ・ペリューグの下賜を受け、名実ともに王女としての立場を得、その去就が注目される人物のひとりとなっていた。

 メアリーのような豪奢で色気のある美人ではないが、透き通るような肌と柔らかな笑顔が小川のように清らかで、気品漂う微笑みはどこか超然とした雰囲気すら感じさせる。まさしく「高貴の人」であり、アルフィナが天女という単語を知っていれば、きっとそう形容したであろう。

 絶対に、姉ではない、とアルフィナは思った。

 自分と家族を卑下するのではないが、あまりにも彼女たちと王女はちがいすぎた。もしも王族という者が皆、この王女のような別世界の人種なら、やはり自分はソルドロの子どもなどではないのではないか。養父オルゾル・リオーネと血がつながっていないにしたって、きっと川のほとりに捨てられていたとか、そういうことなんじゃないかしら……。などとアルフィナがどぎまぎしながら考えていると、ミリア王女がライトブラウンの瞳を瞬かせながら首を傾けた。

 その動作が、キッドに似ている。


「やっぱりカレンに、似ているわ」


つい思ったことが、再びポロリと口をついて出た。はっと気がついて口を噤んだが、ミリアはしっかりとアルフィナのことばを聞いていて、瞳を微かにきらめかせながら聞き返した。


「カレン?どなた?」

「いえ、それは……」


返答に困るアルフィナを見かねたメアリーが、となりに優美な動作で跪いた。アルフィナがキッドを迎えに行って、そのまま話し込んでいた間に、残ったアマート家と水瓶座とは王女は既に挨拶を済ませている。


「アルフィナの友人でございます、王女。それより、仲睦まじくていらっしゃるのは結構ですけれど、お二人でいつまでも床にお座りになっていらっしゃるものではございませんわ」

「そうですね。水瓶座のメアリー、気遣い大儀です」

「光栄に存じます、殿下」


メアリーが恭しく礼をするのとほとんど同時に、ミリア王女はアルフィナの手を取ったまま立ち上がった。アマート家にあるだけのクッションをかきあつめた中でなんとか見苦しくない物をふたつ重ねた椅子に腰かけると、王女は自分のとなりに椅子を運ぶよう灰色の貴公子に命じて、それにアルフィナを座らせた。


「わたくしは、ずっと妹が欲しかったのです。緊張しないでお話してちょうだいね。それからセシリア、あなたのことも、わたくしの姉だと思うことにします」

「さすがに、無理がおありかと。本来であれば、このようにお話もしかねる身分の娘です」


貴公子が王女の後ろに侍りながら、また主の軽率に眉を寄せる。オルゾル・リオーネが娘たちの視線を受け止めつつ、苦笑して王女に礼をした。


「我ら家族は、あくまで農民の一家。そのようなお言葉を頂戴できましただけでも、身に余る名誉でございます」

「あら。あなたは母をよく助けてくれたと聞いていますよ。そちらのご老人も城にいたのでしょう?よく尽くしてくれました。父母に代わって礼を言います」

「滅相もないことでございます!」


アマート夫妻が恐縮して、震え声で叫んだ。ミリア王女はにっこりと微笑んで室内を見渡し、それから入り口に目を留め、そこに人影があるのに気がついてジェシーにライトブラウンの瞳を向けた。


「水瓶座のジェシー・サダルメリク。あそこにいるのが、先程話していた青年ですか?」

「御意ですわ、王女」

「パフ。あの者を、こちらへ」

「はっ。おい、お前!」


王女が灰色の部下に指示すると、部下の貴公子は声を鋭くして戸口へ呼びかける。凛々しい声で、まかり間違っても「聞こえませんでした」とは言えない、よく通る声であった。


「王女のお呼びである!ここへ来い!」

「パフ。丁重に」

「しかし、あやつは先刻来、あそこに立って聞き耳を立てておるのです。王女に対し奉り、不敬ではございませんか」

「不敬で結構。まあ挨拶ぐらいはしてもいい」


戸の影から掠れたアルト声が返って来た。ディリンジャーがこみ上げる愉快さをかみ殺し、メアリーとジェシーが眉を顰める。キッドが靴音を響かせて現れ、帽子を取って、慇懃無礼に頭を下げた。


「ご機嫌麗しゅう、王女様。ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じます。さりながら、わたくしは、あなたになんの用もない。早速お暇をいただければ幸甚にございます」

「キッド!ふざけないのよ!」


ジェシーの声を、王女が右手で制してキッドに微笑を向けた。


「構いません。ですが、キッドとやら、暇を出す前に礼を言わせてもらいます。あなたがセシリアを救出し、指輪を守ったと聞きました。オルゾル・リオーネは我が母の友。その家族をよく守ってくれました」

「勿体なきお言葉」


キッドが深々と頭を下げた。それに対し、王女は王族にあるまじき寛容さでまた微笑む。


「許します。対等の高さで話しましょう」


ピクリ、とキッドの肩が動いた。だがキッドは顔を上げず、黙っている。王女が困り顔で首を傾げた。


「どうしました。顔を上げてよいのですよ」

「恐れ多きことながら、お断り申し上げます」

「何故です。遠慮なら無用ですよ」

「理由は申せませんが、遠慮でないことは確かです」

「いい加減にしなさい、キッド!」


ジェシーがキッドの肩を強引に上げさせ、乱れた前髪の間に覗くヘーゼルグリーンの瞳を見た王女が、あっと小さく驚きの声を上げた。パフなる貴公子が耳ざとく聞きつける。


「いかがなさいました、王女」

「パフ!彼です!母が亡くなったとき、わたくしを救った天使様です!」


聞き捨てならない王女の発言に、全員の視線がキッドに集中した。王女が再び椅子からおりて、先程アルフィナにしたよりも強くキッドの両手を握りしめ、ライトブラウンの瞳を感激に煌かせながら全身で歓喜を表現した。


「間違いありません!あのときの天使様ですね?」

「人違いで……」

「では、ありません!わたくしは、人の顔は絶対に忘れないのです!そうですね、パフ?」

「左様ではございますが……しかし、このような……」


ビュンっと勢いよく首をまわして王女が部下を睨んだ。相手がぐっと言葉を詰まらせたのを見て、キッドに向き直る。訳が分からず、周囲は顔を見合わせるやら肩を竦めるやらである。キッド本人は嫌そうに眼をそらしているが、王女は更に強くキッドの手を握りなおした。


「天使様とお呼びしているのは、あのときお名前を伺わなかったからです。ジェシー・サダルメリクがキッドと呼んでいましたね。それがお名前ですか?では、わたくしも、これからはキッド様とお呼びします。あのあとずいぶん人を使って探させたのですよ。こんなところで、お会いできるだなんて」

「人違いです。繰り返すようだけれど」

「こちらも繰り返しますけれど、絶対にあなたです。それともキッド様はわたくしをお忘れですか?あのときはほんの子どもでしたから無理もありませんが……」


王女が一息に喋りながら今度はひどく悲しそうに眉を八の字に下げて涙ぐんだので、さすがにキッドも盛大なため息とともに観念した。続いて、懸命に見上げてくるライトブラウンの瞳を見つめ、首を傾げて笑う癖。なぜか痛ましいような笑顔であった。


「背が、ずいぶん伸びた」


パッと子どものように王女の顔が華やいだ。


「十六になりました!」

「そう。あのときは十二?十三歳?」

「十三です、キッド様」

「その"キッド様"は、およし下さい、王女」

「ではキッドもわたくしに形式ばった話し方はしないで下さい。約束したでしょう?次はきっと対等の友人だと。覚えていますか?」


キッドがまた嘆息して頷いた。王女がようやくキッドの手を離し、喜色満面、一同を見回し、特に灰髪灰眼のパフに向かって宣言した。


「キッドは、わたくしの恩人です。以降、彼に対し不敬とか不遜とか申すことは、わたくしが許しません」

「そのような勝手はおっしゃるべきではございません。この者は不審です。帽子もコートも薄汚れて、どう見てもならず者の風体。その上、まったく魔力を感じませぬし、それで拳銃を携行している優男など、信用できかねます」

「パットフィール・セメデリヤ。お前の方こそ、わたくしの命の恩人に対し不遜極まります。謝罪なさい」

「いや、ちょっと待て」


低いハンサムな声が二人の会話を遮った。ディリンジャーである。いつも余裕ぶった二枚目もさすがに展開についていけず、割って入ったその態度もひどいものだが、誰も責めなかった。


「さすがにわからん。説明を求める権利ぐらいは主張して構わんかね、パフくん」


これにはパットフィールの美貌が呆れと憤りに歪み、彼が興奮から立ち直り声を発するまでには三秒を要したが、時間をかけただけあって、その声は冷静であった。


「ディリンジャー殿のおっしゃることはもっともです。アルフィナ様もいらしたばかりですので、わたくしからご説明申し上げてもよろしゅうございましょうか、王女」

「許します」


主人に深々と礼をしてから、パットフィール・セメデイヤと呼ばれた灰色の青年は、背筋を伸ばして語り始めた。


「先程、御自らお名乗りあそばしたように、こちらにおわすはリトレ国王陛下の姪であらせられるミリア・ベルリアニ・フィリツ姫様でいらっしゃいます。御父上は陛下の兄君ウォールナッド殿下、御母上はヤルタ妃殿下。この度、太后様よりキリヘッド殿下とともにご兄妹で光の指輪リツ・ペリューグを賜り、正式に王女となられ、王位継承権を獲得なさいました」


話の途中で、こっそりと聴衆は席替えを敢行した。五脚しかない椅子の、ひとつは王女、となりにアルフィナ、アルフィナの向かいの背もたれのない椅子にセシリアと、やや離れたところにアマート夫妻が座っている。ジェシー、ディリンジャーは王女とテーブルを挟んで正面に立ち、キッドは王女の視線を避けるように部屋の隅で帽子を被りなおした。

 セシリアの父オルゾル・リオーネはメアリーと王女の間に立ち、王女の反対どなりで、パットフィールは解説を続けていた。


「王女がこちらへお運びになられたのは、リオーネ殿がセシリア嬢に保管を頼んだという光の指輪リツ・ペリューグをご確認なさることと、アルフィナ様にお会いなさることが目的でいらっしゃいます。リオーネ殿は王女の母君ヤルタ妃殿下の護衛の任についていた経緯があり、ヤルタ様がお亡くなりになられる際、何かあればこの者を頼れと王女にご遺言なされるほど、ご信頼されていたので、城勤めを離れてからも秘かに連絡をとりあっていたのです」

「先日、光の指輪リツ・ペリューグが下賜された噂を耳にして、わたしがアルフィナのことを申し上げると、ミリア様は大層ご興味を示され、御自らお出ましになられたのだよ」


リオーネが他所へ家族のために出稼ぎに出ていたのはどうも本当らしいことを、キッドは後で聞いた。日雇い人夫の中には素性の知れない者も多く、秘密の連絡を取り合うに余計な探りを入れる者が少ないというのも理由であったらしい。この家に残って畑を耕す毎日では、家族にも村民にも怪しまれるだろうという気遣いだった。


「だが、指輪は既に水瓶座にセシリア嬢が渡してしまったとか……」

「それについては、後程ご交渉に応じましょう。お話を続けて頂けるかしら、ミスター・セメデリヤ」


ジェシーの言葉にパットフィール・セメデリヤは念を押すように頷いてから、話を戻した。アルフィナは熱心に耳を傾けていたが、キッドは退屈そうに欠伸をかみ殺していた。幸い部屋の隅は光が届かずに薄暗いし、灰色の狼のような瞳は今、話を続けるのに夢中で視野を狭くしている。


「リオーネ殿からあらましは伺っております。アルフィナ様の御力についても。他の人間に指輪を渡してしまったのは残念ですが、アルフィナ様とご家族のためには悪くないお考えでした。とはいえアルフィナ様のことが他に知られれば危険なのも事実です。オルゾル殿がご家族を守るために帰宅するということでしたので、わたくしと王女も案内をしてもらったのです」


アマート一家が揃って婿の顔を見た。これまで留守をしていた一家の大黒柱が戻るのである。精神的にも実際的にも頼もしいし、何よりも単純に嬉しかった。その反応を待つように、一呼吸を置いてからパットフィールは一層引き締まった声を出した。


「ここで明確にしておかねばならないことは、リオーネ殿にも王女にも、アルフィナ様を玉座に無理矢理に縛り付けようなどという意思はない、ということです。……指輪を手放されたということは、アルフィナ様ご自身にも、そのようなお考えはないということでしょうが、念のため」


ここまで喋ったとき、ミリアが片手を挙げて部下を制した。パットフィールがまた恭しく頭を下げて、王女の椅子の斜め後ろに身を引く。


「アルフィナに尋ねます。あなたは、王位を望まなくとも、わたくしとともに来る気はありませんか?」


王女の深い声がアルフィナの心をとらえた。


「あたしが、王女様と?」

「実を言うと、わたくしは王位が欲しいわけではないのです。しかし絶対に渡せない相手がいます。その者に勝つために、あなたの能力が力になってくれたらと思っています。もちろん無理強いするつもりはありません。でも考えてみてちょうだいね」


その微笑みは見る者の胸をあたたかな気持ちで満たしたが、アルフィナは即答しなかった。あまり急な話である。さすがに今回は、落ち着いて、しっかり考えなければいけないことだと思った。王女も急かす気はないらしい。ミリアは改めてにっこりとアルフィナに微笑んで、今度はディリンジャーの八の字髭にライトブラウンの瞳をとめる。


「ディック・ディリンジャー」


ディリンジャーが軽く頭を下げた。その気障な様子を王女は嫌いでなかったが、彼女にとっては日常の行為であるので、市井の女のようには心ときめかない。当たり前の微笑のままだった。


「わたくしの敵が誰であるかは、後程お話しましょう。その前に、あなたが知りたいのはキッドのことですね」

「ご推察の通りです、殿下。こいつが天使などとは、到底、思えないもんですから」

「キッド。話してもよろしいでしょうか」

「なるべくならやめてほしいところだけれど、拒むとアルフィナに手数をかけそうだからね」


投げやりに言った。相変わらずのディリンジャーとキッドの態度にパットフィールは眉をひそめたが、なんとか黙っている。彼もキッドと王女の関係は詳しく聞いていなかったので興味があったのも事実であった。


「大した話じゃない」


キッドが言い訳するように前置きしたのを、王女が聞き咎めて「まあ」と大仰な声を出した。


「わたくしには人生の大事です」


どう考えても、これからの戦いの方が大事である。何しろ王女はこれから王位争奪戦の渦中に身を投じなければならないはずで、二人の間に何があったにせよ、無法者との思い出がそれに勝る大事のはずはない。だが王女の声の真剣さは、むしろ今の方が増していて、懐かしい思い出にライトブラウンの瞳が輝くのを、アルフィナは吸い込まれるようにじっと見つめていた。


「あれは、三年前、母上の御葬儀の翌日でした。当時もう十三歳であったのに、わたくしは母の死が受け入れられず、今思えば恥ずかしい程に悲嘆にくれていました。何しろ、母上は突然だったのです。前触れもなく、よくない噂も流れるほどでした」

「存じておりますわ」


メアリーがいたわるように声をかけた。当時、ヤルタ妃の死は王国中に悲しみとともに迎えられ、同時にある噂が流れたことを、彼らは知っていた。何者かが妃を毒殺したのではないか、というのである。あの頃、世間は毎日その噂で持ち切りであったが、なんの証拠もなく、妃は元々体の強い生まれではなかったので、公式にはなんらかの内因的症状により引き起こされた心臓麻痺とされたのだった。


「わたくしは母を探しに屋敷を抜け出しました。もちろん会えるはずはないのですが、とにかくじっと屋敷にいるのは耐えられなかったのです。外にひとりで出るのは初めてで、間もなく道に迷い、ふと川に出まして、そこで猫が溺れていました。わたくしは無我夢中で川に入りましたが、川底がブヨブヨと奇妙な感触がして、急に身動きが取れなくなってしまったのです」


アルフィナとセシリア、それから答えを知っているキッドを除く全員が、話の展開を予想して顔を歪めた。代表したのはディリンジャーで、八の字髭の下で不自然に笑顔を作っていた。


「まさか、とは思いますが、まさか、"猫幽霊ゴーストキャット"ではないでしょうな」


王女はにっこりと笑みを深くした。それを見た大人たちは王女とは違う種類の笑顔を一斉に偽装して呆れを呑み込み、パットフィールが微かに口を開けて眉間に皺を寄せながら王女を凝視し、アルフィナとセシリアは視線を交わして首を傾げた。


「わたくしは、まったく愚かで無知だったのです。そのとき偶然、通りがかったキッドがすぐにそれを退治してくれて、溺れていたわたくしを保護し、屋敷まで送ってくれました。わたくしは、とにかく孤独なときでしたから、キッドに屋敷に留まるよう頼みましたが断られ、せめて次にお会いする機会があれば友人になってくれることを約束してもらったのです」

「それで天使ですか。なるほど」


このディリンジャーの「なるほど」には、後に「初心な箱入りのお姫様ですな」という文句が続く予定であった。心の中だけに止めたのは、王女の斜め後ろに控えているパットフィール青年の目つきが、憐れみと呆れと忠誠心とで乱れているのが確認できたからである。余計な皮肉を言って刺激すると面倒そうだと判断したディリンジャーは賢明であった。


「あの、すいません。ゴースト……?」


セシリアよりも度胸のあるアルフィナが、正体不明の単語について質問をした。

 猫幽霊ゴーストキャットは川や湿地など水気のあるところを好む精霊の一種で、チョウチンアンコウのように頭の先に疑似餌をぶら下げて獲物をおびき寄せる、独特の狩猟方法を持つ。その際、仔猫の鳴き声のような音を出すことから名付けられた。魔獣ではなく精霊に分類されているのは、人間が襲われることは稀なためで、単純に個体数が少ないというのも理由のひとつだが、いかんせん疑似餌の造形が稚拙でまったく猫に見えず狩の成功率が低いのである。少なくとも人間はそう簡単にひっかからないので、不名誉な方向に有名なのであった。

 だが、攻撃された場合、スライム状の体に全身を拘束され、身動きできないまま丸呑みされてしまう危険もある。実際、ミリアは当時、真剣に死を覚悟した。母の姿をまぶねに浮かべ、もうすぐ会えるだろうかとすら考えたものである。彼女は、そのときの光景を明確に記憶していた。


「これが猫幽霊ゴーストキャットです」


王女が突然両掌を上にして胸の前に皿のように差し出し、その掌の皿の上に、気味の悪い生き物の画像が浮かび上がった。これには水瓶座やアマート夫妻も身を乗り出す。


「もしや……王女様の魔法なので?」


ジェシーが眼力を強めて、王女の魔法を凝視した。

 指輪の八人に選ばれたほどであるから優れているのはわかっていたことだが、これは、予想外である、いや予想を超えていたと言ってもよいかもしれない。

 部屋の隅から、キッドも油断ならぬ視線を王女に向けていた。


2.

 おとなたちが王女の魔法に目をみはっていたとき、アルフィナは単純に、王女の手の上にいる見たことのない生物に目を奪われていた。


「これが"猫幽霊ゴーストキャット"……?」

「そうです。今はその川が遠いので、わたくしの記憶する限りですが……」


そう言いながら王女が掌上に映写しているのは、どう見ても完全な猫幽霊ゴーストキャットの立体映像である。泥を水に溶かしたような茶色の半透明の体に、水中ないし泥中に暮らすためかほとんど退化していて見えなさそうな目が二つ。体の三分の一ほどもある大きな口には歯がなく、長い舌がリロリロと蠢いていて、一見不気味ながらどことなく愛嬌も感じられる。背中から一本、腕のような触手が伸びていて、その先端には例の疑似餌らしい塊がぶら下がっていた。なるほど、猫というには外見はお粗末に過ぎるが、瓢箪のような形をした何かが発する音は、仔猫が一生懸命に親を呼んでいる声に似ていた。


「大きさが、これではわかりませんね」

「いえ、十分です!ありがとうございました!」

「そうですか。では……」


すぅっと音もなく映像が消えた。アルフィナは何もなくなった王女の掌をじっと眺めている。パットフィールがちょっと得意げに唇を引き上げているが、王女はごく当たり前のことをした顔で相変わらず微笑んでいた。


「今の魔法は、王女様のご記憶に関することでしたら、なんでも映し出すことが可能でいらっしゃいますの?」


メアリーが訊ねる。王女は微笑を絶やさずに答えた。


「記憶であれば、わたくしの記憶でなくとも可能です」

「それは、つまり、他者の記憶でも映像に?」

「ええ。人に限らず、動物でも、木でも、石でも、その者の魔力が記憶しているものであれば。かえって他人の方が容易です。わたくし自身の記憶は、わたくしの感情で乱れますが、他人のものでしたら少し我慢ができますから。アルフィナもそうでしょう?自分のことを知るのは、人間には困難なことなのです」


あっさりと、とんでもないことを言った。これにはキッドも驚いて、帽子の下から微かに見開いたヘーゼルグリーンの瞳を覗かせて王女の顔を見つめている。


「……俄に信じられるお話ではございませんわ」


ジェシーが努めて平静な声で言った。パットフィールが気色ばんだが、王女が先に明晰な声を出して部下を制した。


「百聞は一見に如かずと言います。先ほどのはわたくしの記憶でしたから信じがたいのも無理はありませんが、もう一度、今度は何かあなたたちの私物の記憶を使えば信じるでしょう。何か皆に知られてもよい過去はありますか?そのときに身に着けていた物を出しなさい。その記憶を読み取って、再生してみましょう」

「されば、こちらをお使い下さいませ」


ジェシーが一枚のハンカチーフを取り出した。上等な絹でできた、バイオレットの美しい、ジェシーのお気に入りである。


「若い頃から気に入って使用している物ですわ」

「よろしいでしょう。それで、いつのことを?」


ジェシーの若い頃、というのが何年前を指すのかアルフィナは気になったが、何年……あるいは何十年前であろうと、ただ記憶を垂れ流す映像で見るには長すぎる過去である。ジェシーはゴツゴツとした手を頬に当てて数秒考えてから「三年前の、冬」と答えた。キッドの舌打ちが聞こえて、パットフィールが狼のような灰色の眼を剥いた。


「王女の御前であるぞ!」

「これは失礼。ちょっとママがいじわるだったんでね」

「まあ。見たい記憶とはキッドのこと?」


王女の声がキッドと真反対に弾んだ。


「ええ。そうです。三年前の冬、新しい年を迎える直前のこと。そのとき海沿いの町でキッドを拾いましたの」


ジェシーが肯くのを見た王女が一層嬉しそうに椅子から立ち上がり、受け取ったハンカチを机の上にひろげた。


「少し古い記憶ですが、三年前の冬なら、わたくしが会ってから間もないときですから、キッドを探すのは難しいことではないでしょう。年の暮れ、海沿いの町、二人が出会ったときですね」


言いながら、王女は右手をハンカチの上にかざした。その掌から溢れる魔力の波動はアルフィナのものにそっくりで、やはり同じ血統の魔法であることが水瓶座には明らかであった。

 王家の感応の魔力を掌にめぐらせながら、王女はライトブラウンの瞳を遠くを見るように少しだけ細めた。口元にはなお微笑をたたえ、その顔つきは神話の女神のように慈愛に満ちた美しさである。その美貌をキッドがまたなぜか悲し気に見つめ、アルフィナもどこか切なげな視線を、血統上は従姉にあたる王女の白い顔に投げかけていた。


「見つけました」


王女が胸に当てていた左手もハンカチの上へ運び、宙に円を描くようにして両手を動かすと、微かにハンカチが光を帯びて、その光の上にどこかの港が映し出された。

 夜。雪が舞っている。本降りにはまだ早いのか、チラチラと舞い落ちる雪に足元は濡れて光り、人々が家路を急ぐ姿が確認できた。その中に、暗い海に舞い散る雪が吸い込まれるように溶けていくのを見つめながら、ひとり佇んでいる背の低い背中がある。雪が舞っている景色には心細いほどの薄いコートのポケットに手を突っ込んで、首にはくすんだ色の布をぐるぐる巻きにして、黒い山高帽を被っていた。


「キッドだわ」


アルフィナが言った。王女も興味深そうに自分の魔法でつくった映像を覗き込んでいる。


『初めまして、坊や。あたしがジェシー・サダルメリクよ』


映像の中のジェシーが名乗った。キッドが帽子を取って頭を下げる。その顔は今より少しだけ若いようにも見えなくもなかったが、今も少年のようなキッドのことだから、大きな変化は見られない。だが、その表情は、背後にひろがる冬の海のように暗い悲しみに沈んでいる。


『連絡をどうも』


掠れた声は表情がなく、雪に吸い込まれていきそうだった。


『こちらこそ、だわ。あなたの噂を聞いて前から会ってみたかったの。思ったより小柄なのね』


映像の中のキッドが返事をする前に、フッと人々の視界から港が消えた。――いや、映像のみならず、ハンカチそのものが消えている。キッドがハンカチを奪い取って、王女の魔法を中断したのである。


「もう、じゅうぶんだろ。彼女の魔法が嘘じゃないってのはわかったよ」

「貴様!姫様が嘘などおつきなるはずがなかろうが!」

「これからいいところなのよ!」


パットフィールとジェシーが同時に叫んだが、キッドは膨れ面でジェシーのハンカチをくしゃくしゃに丸め込んで後ろに放り投げた。床に落ちる前に無事、アマート老人がキャッチしたのをジェシーが受け取りながら、キッドを横目で睨む。


「ママ、そんな目はやめて。怖いよ」


ちょっと首を傾けて、上目遣いに見上げれば、ジェシーはやれやれとため息をつく。


「あんたこそ、そんな目はよしなさいよ。まったくもう」

「続きは気になるところですけれど、王女様の魔法は確認できましたわね」

「ええ。そうね」


メアリーがやんわりと話の向きを矯正し、ジェシーもキッドをもう一度だけ睨んでから同意した。


「王女様ってのは伊達じゃないわね。驚いたわ。アルフィナの魔法を、さらに映像にできるなんて……」

「いえ。そうではありません」


ジェシーの言葉を遮って、王女がアルフィナの顔を見る。その眼差しにアルフィナは少しだけ肩を緊張させたが、直後に王女がふわりとまた微笑んだ、その目元のあたたかさに、ほぉっと安らぎの息を吐く。王女がゆったりと睫毛を上下した。


「アルフィナの魔法は、未来を見るものと聞いています。他者の過去も見えるようですが、それはあくまで未来を知るための手掛かりに、相手のことを知るためのもののようだ、と」

「仰せの通りです、ミリア様」


養父オルゾル・リオーネがアルフィナに代わって返事をした。彼は家族の誰よりもはやく娘の魔法能力に気がついており、いずれ本人が自覚したときには正直に話すよう長女のセシリアに申し置いていたのである。


「娘の魔法は未来を、己の中だけで見つめるものです」


リオーネのことばに王女は嫋やかに頷いて、今度はジェシーの顔を見た。


「わたくしの魔法は過去しか見ません。その代わりに、わたくしはそれを他者に対しても可視化でき、また過去を見る対象は先程のように人である必要がないのです。その時を指定してもらえれば、あまり遠くない過去であれば、また、わたくしの魔法に対する防御がなければ、わたくしはその光景を眼前に再現できるでしょう」

「故に、ミリア王女に対し奉り、貴様らの方こそ嘘偽りを申し述べることのないように」


パットフィールが余計なことを付け加えた。キッドとディリンジャーがあからさまに舌を出して反感を示し、パットフィールが腰の剣に手をかけた。その手にメアリーが火をつける。


「あつじゅい!」

「ごめんあそばせ。でも、少々目障りでしてよ、狼少年」

「あらあら。狼少年。うふふ」


右手の甲にふーふーと息を吹きかける様を王女が笑ってしまったので、パットフィールもこれ以上まじめな顔で水瓶座の無礼を咎めることもできず、憮然として黙った。キッドとディリンジャーがニヤニヤと歯を見せているが、それに対し威嚇するように歯を見せるのがせいぜいで、それすらも「品のない」と王女に叱られる。どう見ても品がないのは向こうではないか、とは、言えなかった。


「憚りながら王女様、付き人はお選びになるべきですわ」

「そうですね、メアリー。うふふ。でも、これでこの男もいい騎士なのですよ」

「王女様がそう仰せなら、余程優れた忠犬なのでございましょうね」


美女ふたりの優雅な笑い声にパットフィールは赤面しながら歯ぎしりした。

 ジェシーがわざとらしくふーんと考えるような声を出し、太く長い指をまた頬に当てて意味ありげに王女に笑いかけた。


「王女様。あなた様のお力はよく、ええ、とてもよく理解できました」

「それはよかった。それでは、後回しにしていた話をしてもよろしいですね」

「ええ。あたしたちからもお願い申し上げますわ」


ジェシーと王女が視線を交わして頷きあうと、リオーネが家族をアルフィナも含めて立たせ、外へ連れ出そうとした。アルフィナが抗議の声を出したが、養父は静かに首を横に振る。


「これからは、王家の話だ」

「でも、父さんだって関係のある話じゃないの?」

「ない。父さんは、もうずっと前に城勤めをやめたんだ。指輪のことがあるから、いつかこういうこともあろうと思って連絡を取り合ってはいたが、もうその指輪も手放した。お前たちを守るために、これからは王家の争いには関わらないと決めたんだ。ミリア様もご承知のことだ」


そう言って、リオーネは娘たちの手を引いて出て行こうとする。

 アルフィナは迷った。父の決断は、家族のため、悩みぬいてのことにちがいない。父は責任感のある人間だと祖父母もいつも褒めていたし、アルフィナから見ても父は正義の人で、少女には忠義というものはよくわからなかったけれど、それと家族愛とを天秤にかけるなど、父にはつらいことだったろうことだけは理解できる。

 父が悩み抜いた末に選んだ家族の形は己が夢見てきたものと同じはずだという思いもあった。産まれたときに母を亡くしていたアルフィナは、出稼ぎに出た父が家に戻ってくる僅かな時間を人生で一番の楽しみにしていた。父が帰ってくるたびに、このままずっと出かけないで家にいてくれたらいいのにと願わずにはいられなかった。今、父に従い王女の話を聞かず、自分を王家の争いなどとは無関係の人間だと決めつけてしまったなら、その願いが叶う。アルフィナは自分がソルドロの娘などという真実を忘れて田舎娘に戻れるかもしれないのだ。この村の娘のまま、父と愛する家族と、ずっと一緒にいることができる。

 だが。アルフィナは思わずにいられなった。真実を知ってしまった今、もはや完全に王家との関わりを断つことはできないのではないか、と。アルフィナには力がある。その力は、恐らく王女をたすけるであろう。父がかつて王女の母に仕えていたように、いや、あるいはそれ以上に、自分の力はこの王女のためになるかもしれないし、あるいはここで王女から離れても、また他の王家の関係者がいずれ自分の力に気がついて、素性を暴き、今以上に家族を危険な目に遭わせてしまうのではないか、そんな期待と恐怖が胸に渦巻いた。

 そして、それ以上に、幼い少女には自覚があった。

 アルフィナが父の手を振りほどいた。リオーネとセシリアが驚いてアルフィナの幼さの残る顔を凝視する。水瓶座も、王女とパットフィールも同じく真剣な目つきでアルフィナの次の言葉を待った。


「あたし、やっぱり無視できない」


はじめは、自分に言い聞かせるような声であった。まだ家にいたい。それまで想像もしていなかった自分の恐るべき秘密を知って、それでも許してくれる大事な家族のそばで、穏やかな故郷の日常を繰り返していたい。そういう想いを断ち切ろうとしている決意の滲む声であった。少女は自分の責任を自覚している。甘えたい子ども心に打ち克って、敢然と顔を上げた。


「あたしが知らん顔するのは変だよ。あたしがいたから、今、こんな小さな家で、王国のことなんて、おっきな話をすることになっちゃったんでしょう?」


セシリアが驚きを通り越して怒っているような顔つきで妹を振り返った。


「あなたが望んでソルドロ殿下の指輪をもらったんじゃないわ、アルフィナ。あなたは何も知らなかったじゃない」

「でも、キッドを見つけたのはあたしよ。水瓶座の皆さんを巻き込んだのは、あたしなの」


セシリアはなおも何か言いたげに唇を震わせたが、リオーネが間に立って、じっとアルフィナの瞳を見つめた。養父の顔を臆せず見返すアルフィナのブラウンの瞳が、強く光っていた。

 いつの間に、この娘はこんなにも強い瞳を持つようになったのだろう。血のつながりはなくとも、愛した妻の腹を痛めて産まれてきた、リオーネにとってアルフィナは間違いなく己の娘であった。娘の成長を喜ばぬ親も、一方でそれを少しく淋しいように思わぬ親もいるまいが、このときリオーネの胸中は他人よりもやや複雑であった。


「ソルドロ殿下の御気性を受け継いだな。お若かった頃の、良い御気性を……」


己のものではない。リオーネは強く、そう感じてしまったのであった。だが、それも仕方のないことである。アルフィナはまさしくリオーネの娘であり、他人の娘でもあったのあるのだから。二人の父親からそれぞれに受け継ぐものがあるのなら、きっと強い娘になるだろう。そう思い直して、リオーネは心を決めた。


「ミリア様、水瓶座の皆さん」


王女が微笑んで頷き返しながら、直接返事はせずに、また部屋の隅に引っ込んでいるキッドの顔を見た。


「キッド。あなたはどう思いますか」


キッドは一瞬、表情を険しくした。出て行きたいのはむしろ自分の方である。だが、今この流れでアルフィナと入れ替わるわけにもいかないし、アルフィナのような少女が覚悟を決めているときに自分ばかり逃げ出すのは卑怯な気もする。


「勝手にすればいいよ」


結局、そう投げやりに言ってみるしかなかった。

 許可を得たアルフィナが室内に戻って、残るアマート家の面々は一度皆外に出た。キッドは内心で羨ましく思いながら見送っていたのだが、ジェシーが勢いよく手を打ち鳴らす音で思考が途切れた。


「オーケー。それじゃ、商談に移りましょう」

「商談だと?」


パットフィールが元気を取り戻して、灰色の目を光らせた。


光の指輪リツ・ペリューグは王家の至宝です。商談などとは言わないでいただきたい」

「あら。でもあたしたちは商人なのよね。そういう人間が宝物に値段をつけるのは当然ではないかしら、狼坊や?」


坊や扱いされて憤激し、更に噛みつこうとするパットフィールに王女が視線を投げた。不満の色を魅せながらも低頭して下がった従者に代わり、ミリアがゆったりと、しかしはっきりとした口調でジェシーに語り掛ける。


「元々アマート家から奪うつもりがあったでもありません。アルフィナが望むならそのままでももよいと考えていましたし、あなた方が商人である以上、相応の対価を支払うつもりもあります」

「ご理解いただけて結構ですわ。して、相応、とは?」

「逆に問います。水瓶座は指輪の対価にいくら欲しいのです」


上から物を見た言い方である。ジェシーは目を細めた。

 ジェシーも別に、パットフィールにああは言ったが指輪を金で売ろうとは考えていなかった。ここで王女のひとりと知己を得ただけでもずいぶんな利益だと考えてよいし、ジェシーの見たところではミリアは噂に聞く他の候補者よりも清廉な印象を受ける。この王女が将来、王になれるかどうかはわからないが、少なくとも他の王子王女の私利私欲に利用されるよりはよかろう。従順に指輪を渡しても水瓶座には損になるまいし、むしろ、この潔癖そうな佇まい、率先して献上すべき相手のようにも思われた。

 だが、水瓶座にも矜持がある。唯々諾々と従い、ただで宝を渡すなど、看板に傷がつくとまでは言わないが癪ではある。ジェシーはけろりと嘯いた。


「まず一億は下らないよう、お願いいたしますわ」


パットフィールが灰色の眼をいっぱいに開けて、アルフィナが硬直した。一億など、アルフィナには見当もつかない数字であり、上流貴族のパットフィールにしてからが、そんな額の金を動かしたことはない。しかし水瓶座の一同と王女の表情は落ち着いたものである。それどころか、王女は笑みを深くして見せた。


「それでも譲歩したつもりなのでしょう、ジェシー・サダルメリク。わかりました。指輪をわたくしに譲るのであれば、まずは一億、後に不足分も必ず支払うと約束しましょう」


ジェシーがルージュを引いた唇をくいっと引き上げ低頭した。王女の落ち着き払った態度はアルフィナとパットフィールを慌てさせたが、ジェシーには満足のいく対応だったのである。ミリア王女はいわゆる深窓の御令嬢というやつで金銭感覚がふつうではないのだろうとアルフィナなどは考えたが、無知からこぼれた無茶な話であれば、パットフィールが諫めたはずであった。王女は本気で一億以上の価値を指輪に認め、きちんと支払うつもりがあるという度量をまずは見せつけたというわけである。

 しかし王女の狙いは指輪ではなかった。稀有な魔法能力を披露し、水瓶座のような商人やアマート一家のような農民の話にも耳を傾ける器の大きさも示した上で、王女が出した提案は、水瓶座とアルフィナを驚かせ、未だ従者も承服せざる大胆なものであった。


「ですが、いかがでしょう。そのまま指輪を持っていては?」

「は?」


疑問符のための、それ自体はまったく意味を持たない音を全員が唱和した。一度下げた頭をジェシーが上げると、王女は先程までと同じ微かな笑みをまだ口元に湛え、そのライトブラウンの瞳には嘘偽りや冗談の色が一滴も混じっていないように見える。


「彼らが持っていても価値のないものです」


パットフィールがとなりからそう言ったが、王女の表情は変わらない。主人の横顔に、パットフィール青年は眉を顰めて口を尖らせ、語を継いだ。


「アルフィナ様は玉座を望んではおられませんが……」

「アルフィナではなく、ジェシー・サダルメリクに話しているのですよ」

「より一層玉座から遠のくではございませんか。ですから、彼らには価値がないと申し上げているのです。金銭に替える以外には彼らには使い途のないものだと……」

「その通りですわ、ミリア王女」


ジェシーも口を挟んだ。その目にはあからさまな不審がある。


「憚りながら、我が水瓶座は日陰者の集まり。王女様のご崇高な理想よりも実のある話があれば、そちらを選ぶかもしれません。他の何者かが買うといえば売る、そういう商いにこの指輪を使いますが、よろしいのですか」

「あくまで、商いですか」


このとき王女の瞳に奇妙な輝きをアルフィナは見た。唇の角度は変わらないのに、笑顔が変わったような、何か確信を秘めた笑顔のような、微かな違和感がさざめいた。

 同じことをジェシーらも感じたようである。違和感にジェシーが微かに顎を持ち上げ、パットフィールは主人が次はまた何を口走るのかと内心冷や汗をかいていた。そんな彼らの胸中を知ってか知らずか、王女は気負いなく静かに息を吸い込んで、音にして吐いた。


「では、水瓶座を買います。いくらかかりますか」

「なんだって?」


思わず、キッドが声を出した。パットフィールもその言い草を不敬だなどと突っかかっている暇はない。慌てて主人を問い質した。


「何とおっしゃいました」


さすがに一座の動揺には気付いていようが、王女の微笑はまるで綻びを見せず、やわらかに弧を描いた唇から発せられる声の音律もまったく変化がなかった。


「水瓶座を買うと言いました。指輪はいりません。代わりに、彼らが欲しいのです」

「それで、いかがなさるおつもりです。まさか彼らに我々の手助けをさせようなどというお考えではございますまい」

「そのまさかです、パフ。わたくしは、彼らが欲しい。彼らの能力と、人柄が欲しいのです」


王女のことばは淀みない。

 王女は、はじめからこのつもりであったのだ。はじめ、というのは、つい先刻、この家で水瓶座をアマート夫妻とセシリアに紹介されたときである。

 まったくの思い付きであった。パットフィールの困惑ぶりを見ても王女が不意に閃いただけのことであろうことは明らかで、当然、だれも咄嗟には、この王女の発案を呑むことも、それどころかまず本気かどうか信じることもできなかった。

 だが、この場でアルフィナだけが王女の気持ちを理解することができた。出会ったばかりの人間をあっさりと信用してしまうのは、あるいはその高貴な生まれ育ちのために他人を疑うことを知らないというだけかもしれないが、それだけではないという確信がアルフィナにはあった。アルフィナもまた、初対面の若者を、しかもキナ臭い酒場にいた人殺しのガンマンを、信頼してしまった少女なのである。


「あの、いいですか」


アルフィナはおずおずと右手を顔のとなりぐらいに挙げて、小さな声を出した。小鳥のはばたきのような微かな声であったが、王女の真意をはかりかね答えを求めていた一同の視線が少女のそばかす顔に集中する。王女が発言を許可すると、皆の視線にやや緊張の面持ちでアルフィナはことばを継いだ。


「王女様は、もしかして、さっき魔法を使ったときにママの……ジェシーさんの心を読んだんじゃないでしょうか。あたしたちの魔法は、そういう力があるから……」


王女の瞳が喜色に輝いた。


「ええ、その通りです、アルフィナ。わたくしは感応の能力者といえど読心が苦手なのですが、それでも彼らの魔法が非常に強力で、かつわたくしに敵意がないことはわかります。先程、ジェシー・サダルメリクの持ち物を覗いたとき、この者が正義の人間であることが伝わりました」

「とはいえ、素性の知れぬ者どもです」


いくら正義の人と言えども、それだけで味方になってくれるとは限らない。灰色の従者は主に慎重さを求めようとしたが、振り向いた王女の眉間には頑として譲らぬ意志があった。


「パットフィール・セメデリヤ。お前はわたくしの魔法を疑うのですか。少なくとも、ジェシー・サダルメリクは信頼に値すると、わたくしが言っているのですよ」

「疑うなどと思いもよらぬことでございます。ではございますが、彼らは……」

「無法者だと申すのでしょう」


パットフィールが顔を伏せた。王女はさらりと口にしたが、本来、貴族である彼らには無法者アウトローなどという存在は認めがたいはずである。この灰色の青年が特別なのではなく、これは彼が教育されてきた社会が長い年月をかけて培ってきた感覚であり、貴族出身でなくとも法を外れた犯罪者など簡単に受け入れられるものではない。無法者という連中は、法のもとに守護されず、また法の内につながれることがない。王国国土に生きていながら王国臣民としての義務を果たさぬ賊だとパットフィールは考えていた。

 かつてどんな悪事を働いたか知らないが、つまるところはただの極悪人ではないか。そこにどんな事情があるにせよ、法すら見捨てた外れ者、ならず者、そういう連中なのである。殊にあのキッドとかいうガンマン、王女は命の恩人だと言うが、いかにも胡乱な男である。


「本来、関わるべき身分の者ではございません。いえ、正確には、彼らには身分などというものすらないのです」


さすがに後半を口にするにはパットフィールにも遠慮があったが、水瓶座は彼を責めなかった。水瓶座の全員が戸籍のない無法者というわけではないが、どう取り繕おうと自分たちが身分卑しい者であることは否定しようのない事実であり、間違いなく王女と対面などできるはずがない。ここで追及すべきはパットフィールではなく彼の主人の発言の方であった。


「そこの狼男の言うことは、ちょっと癇には障るけれど正しい。おれたちが何者なのか、きみは本当にわかってる?」


「約束」とやらを守って、キッドが友人に対する口調で王女に質問した。王女はそれが嬉しかったのか、にこりと笑った顔をキッドに向ける。


「ジェシー・サダルメリクをわたくしは信じます。アルフィナの言う、わたくしどもの魔法能力が理由で不足ならば、キッド、あなたが根拠です。あなたはわたくしを救った人。わたくしがフィリツの娘だと知っても、正直に館まで送ってくれましたね」


キッドが眉を顰めて言葉を詰まらせた。過去の気まぐれが自分の首を絞めているように彼は思った。なるほど悪人ならばフィリツ王家の姫と知って素直に館に届けたりはしないであろう。迂闊なことをして報復が怖かったのだと言い訳してもよかったが、それにしては、あのときの自分は幼い姫に親切をし過ぎた。今更どんな理屈を捏ねまわしても、もはや王女はキッドを善人と決めつけて譲るまい。


「でもね、友だちの友だちがみんな友だちとか、そんなの……」

「それに」


キッドが言いかけた声にかぶさるように、王女はやや声を強くした。ピンと絹糸をはったような、強さと美しさを備えた声である。


「敵は、我こそ法だと言わんばかりの王子と王女。ならばお上品ぶった貴族の剣で倒すより、法の外からハンマーで殴るぐらいの方が痛快です」


あるまじき王女の発言である。呆気にとられる水瓶座とアルフィナに、最上級の笑顔を王女が見せた。ふふっと首を傾げた姿は、どこか得意気で、パットフィールが文字通り頭を抱えている。


「痛快……」


アルフィナが呟いて、ディリンジャーが口笛を吹いた。


「……じゃじゃ馬は、血統かな」


キッドがアルフィナのそばかす顔を見ながら呟いた声を、二人のおてんば娘がばっちり拾い上げて、明るさの異なるブラウンの瞳で咎めるような視線を投げた。


「じゃじゃ馬とは、わたくしのこと?」

「じゃじゃ馬って、あたしのこと?」


その声がよく揃っている。それじゃ従姉妹どころか姉妹みたいだとキッドが笑うと、少女二人は嬉しそうに、同時に少し恥ずかしそうに、顔を見合わせて笑い合った。ジェシーもメアリーも気がそがれたようで、二人、目配せをして苦笑している。女たちの楽しそうな笑い声の中でディリンジャーが揶揄するような視線を向けると、パットフィールは目をそらしながら王女に見つからぬよう密やかに嘆息し、肩を落とした。

 王女が、手を叩いた。


「オーケー。それじゃ、商談に移りましょう?……いかがでしょうか?先刻のジェシー・サダルメリクの台詞を真似てみました」

「お見事でございます。ですが、二度となさいませぬよう」


せめて威厳を保ってパットフィールが言うと、王女が愉快そうにくすくす笑う。


「ごめんなさい。やってみたかったのです」

「王女様に真似していただけるなんて、望外のいたりですわ」


ジェシーがきれいに手をまわして頭を下げる。王女はそれを微笑みとともに見守り、ジェシーが再び顔を上げたとき、二者の視線の間には、好戦的な光が一瞬、流れた。


3.

 王女の欲しがる水瓶座というものが、水瓶座そのものではなく、目の前のジェシー、メアリー、ディリンジャー、そしてキッドの四人を指していることはアルフィナにも理解できる。他に何人が所属しているのかわからないが、アルフィナの見聞きした限りでは、キッドを除く三人が水瓶座の中心であるらしい。彼らが抜ければ水瓶座は立ち行かなくなるだろう。


「少なくとも規模は小さくなる。休業しないまでもな」


ディリンジャーが髭を撫でながら言った。ジェシーも当然、そのことを考えている。


「水瓶座は家族みたいなもの。あたしたちを自由に使いたいというのであれば、商売を止めている間、あるいは万が一が起こった場合に、彼らの生活を保障していただくことは大前提です」


王女は抵抗のない様子で頷いた。


「無論です。いいえ、こちらの条件を聞けば、前向きに検討してくれるでしょう」

「とは?念のために申し上げておきますが、王となった暁には国庫を開いていくらでも持っていきなさい、などとおっしゃるのでしたら、お断り申し上げます」

「そのようなことは有り得ません。国庫は国民の税で蓄えられたもの。それも今の陛下がずいぶん減らしておしまいになりましたが、本来は民のために開くものです」


そのぐらいのことは弁えているのだという顔を王女は見せた。色と食のために黄金をばら撒いている叔父のリトレ王とはずいぶんな違いである。

 とはいえ、先程の自信ありげな発言はどうであろう。指輪の金額を一億ヤン以上としたからには、よほどの好条件でなければジェシーらも応じかねる。それとも一億以上の価値のある指輪をやるから働けと、あべこべなことを言うつもりではあるまいか。

 一同が一匙の期待を混ぜ合わせた懐疑の眼差しを自分に向けていることを十分に意識しながら、王女はあえて一拍、ゆったりとした間をとってから、ジェシーの彫の深い顔を見つめて唇を動かした。


「もしもわたくしの戦いを助けてくれるのならば、戦いの後、あなたがたが堂々と太陽の下を歩けるよう計らう、ということで、いかがですか」


明らかに水瓶座の顔付きが変わった。


「つまり……恩赦、ということ……?」


メアリーの声が動揺に震えた。紫の瞳が揺れ、足元から一瞬、強烈な熱風が吹き上がり、ドレスの裾から煌びやかな装飾の靴を覗かせて、男たちを惑わせる金糸の後れ毛が乱れた。


「あら。わたくしったら、興奮してしまって」


すぐになんでもない風を装ったが、危うくアルフィナの実家が燃えるところである。メアリーはほっそりと長い指で耳元の乱れた金髪をかき上げると、王女に対し、長い睫毛を伏せて貴族時代に叩きこまれた礼をした。

 その美しい所作を見た王女が、ほんの少し首を傾げた。


「あなたは、いずこかの貴族の姫のようですね。元の身分に戻るのが望みでしょうか」

「御意にございます」


嘘をつけ、と、キッドとディリンジャーは思った。メアリーはその全身に、多くの男を一瞬で惑わし、のぼせ、発熱、発汗、動悸とあらゆる不具合を発症させる情熱的な魅力を纏った女だが、唯一その紫水晶にも似た瞳の奥だけが暗く沈んでいることを二人はよく知っている。その暗黒は復讐を願う者にだけ見える炎の陰に他ならない。

 王女はまだそれには気がつかないで、相変わらず透き通るような微笑でメアリーを見つめ、それからジェシーに顔を向けた。


「他の誰が王となっても即位記念に恩赦はあるかもしれませんが、あなたがたが対象となるとは限りません。わたくしは必ずジェシー・サダルメリクが選んだ者すべての罪を赦し、かつてと同等の身分へと復帰させることを約束しましょう」

「それは魅力的なご提案ですが、敵とは何者でございます。王女は先程、王位が欲しいのではなく渡せない相手がいると仰せでございましたが……。その辺りをお聞かせ願わなければ、畏れながら返答いたしかねます」

「もっともなことです。パフ」


名を呼ばれた灰色の青年が「はっ」と短い返事とともに頭を下げ、やはり灰色の眉毛をキリリと引き締めて解説を始めた。


「既にご承知でしょうが、王位を得るには光の指輪リツ・ペリューグを八つ集めねばなりません。無論ひとつは既に王女が、今ひとつはジェシー殿、そして残る六つは他の王子王女の方々がお持ちでいらっしゃいますが、まだほとんどの方が去就を明らかになさっておりません。ミリア王女の兄君キリヘッド王子も、ミリア様に敵対はなさらないおつもりですが、ご自身が王となられるかについては沈黙しておいでです。しかしながらソルドロ殿下の御子息レザロン様が兵をおまとめになっていると噂がございます。レザロン様は指輪をお持ちではありませんが、家にひとつしか下されなかった指輪を兄君のラバーム様に奪われ、ひどくご機嫌を損ねられたということです」


ソルドロの息子、つまりアルフィナの兄ということになるラバームとレザロンの兄弟は母を異にし、それを理由に反目し合い衝突を繰り返していた。お互い父親譲りの猛々しさがあり、万が一を恐れた臣下の計らいにより、滅多に顔を合わせることのないよう、現在レザロンは王都を離れ、領地の城で暮らしているとのことである。


「レザロン様は王都での閉塞した館暮らしよりも現在のお暮しぶりに満足されておられましたが、兄君の下につかれるのはお嫌だと常々おっしゃっておいででした。将来ラバーム様が父君の跡をお継ぎになられたならば、必ず分家し独立すると。ところが、もしもラバーム様が国王となられれば、いかに御兄弟といえどもレザロン様は臣下ということになってしまわれます」

「では兄君の指輪を奪って自分が王になるおつもりだと?」

「可能性は……ですが、問題なのはむしろその兄君の方なのです」


パットフィールのことばにミリア王女が眉を顰め、微笑を消した。ジェシーがその表情を受けて、ちょうど先程アマート夫妻と話していたことを思い出す。


「ラバーム王子の噂は聞いたわ。野心家で苛烈な性格の、貴族主義だとか」

「はい。また、ラバーム様は父君より強大な魔力を受け継がれ、それを制御する技術もお持ちです。自信もおありなのでしょう。ラバーム様だけは、既に明確に指輪の収集を宣言されています。加えて……」


ここで、一度パットフィールは王女の顔を確認した。まだ味方になると決まったものではない、しかも、いわば犯罪者集団である連中に本当にこのような話をしていいものかと今更ながら不安に駆られたのである。王女は忠実な従者のその眼差しの意味を正確に理解した上で、目だけで頷いて話の続きを促した。パットフィールは従うしかない。


「先日、ミリア様の兄君キリヘッド様の手の者が、ラバーム様の館より退出する怪しき男を尾行し、王都の外れにある火焔教寺院付近で見失ったと……」

「火焔教?」


メアリーが聞き捨てならぬ単語を繰り返した。

 火焔教はその名が示す通り炎の神を祀る宗教で、八つ星パ・バルツァ信仰の根強いエドクセン王国では規模は小さいものの、国境を接する南部の国ラーメ国で信仰されており、王国内でも西南部に信者が多い。

 ラーメ国は火山と共存している国で、古の時代より人々は火の神の怒り――つまり火山を一方で畏れ、一方で敬い生きてきた歴史がある。メアリーは火の魔法の使い手であるからラーメ国には親しみをもって迎えられたのであった。メアリーが卵を持ち帰った火山竜も火の神の使いであるという伝承もある。


「寺院付近で消えたということは火焔教の関係者……下手をすればラーメ国の人間の可能性もありますわね」

「ラーメ国は我が国とはかつて大陸の覇権を争った歴史がありますが、現在は友好国のひとつです。彼の国の関与は考えたくないことですが、国内の火焔教信者であったにせよ、見過ごせません。ラバーム様がご実家の兵や貴族たちだけでなく、外部にまで勢力拡大に動いているのだとすれば由々しき事態です」

「武力と人数で押されると、人間は弱いからな」


ディリンジャーが忌々し気に吐き捨てる。アルフィナが首を傾げ、ジェシーが補足した。


「みんながやってるから正しい。同じようにやらなきゃ痛い目を見る。他人のせいにして生き延びる人間は珍しくないわ」


なんとなくはわかったという顔のアルフィナの表情を確認してから、ミリアがまた口を開いた。


「もしもそうして他の王子王女がラバーム王子になびき、指輪を渡すようなことになっては、あの野心家が王位に就くことになります。野心家なだけならばよいでしょうが、己を守り崇敬する貴族ばかりを贔屓して、民を顧みない男です。あのような男に国を任せることはできません」

「ミリア王女が戦いに臨まれるのは、王という身分、権力を欲されてのことではなく、この国のため、この国の民のためだということを、ご理解いただきたい」


あまりに御大層な言い分を聞いて、キッドが不機嫌そうに瞑目し、腕を組んだ。不躾な態度を目ざとく見つけたパットフィールが咎める。


「何か言いたげだな、ガンマン」

「……別に。余程、王女様はお困りなんだと思ってね。孤立無援ってやつなのかなぁと心配しただけさ」


ミリア王女の決意の表情が微かに崩れた。


「キッド。いじわるな言い方はやめて下さい」

「いじわるか。そう言われるとつらい。でも意地が悪いのは、そっちじゃないかな。本当のことを隠して他人を巻き込もうなんて非道だよ。目的が本当にラバームを王位に就かせないことだけなら、他の誰かにさっさと指輪を譲っちゃえばいいじゃないか」

「それは……」

「おれたちみたいな外道の前にさ、どうして兄貴のキリヘッドは敵対しないだけで味方すると言わないんだろうか。逆に、きみ自らお兄様にお味方します、と言わないのも妙だ。もしかして、きみ、とんでもない悪だくみをしてるんじゃないのかい?」

「いい加減にしろ!この無礼者が!」


ついにパットフィールが腰の剣を抜いた。叫びながら一足飛びに距離を詰め、キッドの喉元に剣先を突き付ける。だが怯えたのは、それを見るアルフィナのみで、肝心のキッドは顔色一つ変えずに、冷たく相手を見返しただけである。


「剣を納めなさい」


思いの外に強い王女の声が響いた。


「キッドに対し、無礼だなどと申してはならぬと言ったはずですよ」

「しかし、この男の無礼は目に余ります」

「なりません。下がりなさい」


鼻の頭にピクピクと皺を寄せながらも、パットフィールは渋々剣を引いた。離れる前にもう一度、灰色の眼を思い切り憎々し気にぎらつかせてキッドを睨みつけ、踵を返し、王女に頭を下げて再び斜め後ろに控える。キッドのヘーゼルグリーンの瞳が相手を射抜くように鋭く光った。


「継嗣問題よりも、ずっと危険なことがあるんじゃないのか」


王女は一度目を閉じた。自分の中の覚悟を確かめるように、肚の底に息を潜めていた理想を引き上げるように、きつく閉じた目を再び開いたとき、その眼差しには強さがあった。


「わたくしには理想があり、わたくしには力がありません。今は、とにかく味方がほしいのです。理想を語るには、理想を実現できる力が必要です。しかし、その力を得るために、わたくしは敢えて先に理想を語る愚をおかしましょう」


王女のライトブラウンの瞳が決意の炎に照らされた。その炎色は冒しがたい清浄さで見る者の心に沁みとおり、その唇から発せられることばは覚悟に満ちていた。


星の国ゲーツァ・タルトと戦います」


凛と響く声は世間知らずの十六の小娘のものとも思えず、内容はあまりにも突飛であった。一瞬、時計が止まったように全員のあらゆる反応が制止した。だが王女の落ち着きようを見るに、無稽むけいの話というでもなさそうである。


星の国ゲーツァ・タルトと、戦うのです」

「言い直さなくても聞こえてはいたわよ……」


ジェシーが王女に対するものとは到底思えない態度で言ったが、さすがにパットフィールも咎めなかった。パットフィールも、つい先日王女にこの話を打ち明けられたときは、まったく同じように、いや彼ら以上に、驚愕し硬直したものであった。

 星の国ゲーツァ・タルトは、世界中に伝説を残す大魔法国家であり、あらゆる学者が、あらゆる伝説、あらゆる遺跡、あらゆる史料、あらゆる遺物、ありとあらゆるなにもかもを調査して、なお辿り着けない国である。むしろ星の国以前の古代文明の方が実態が明らかになってきているぐらいで、まさしく神秘の国であった。


「その伝説が、蘇るとしたら、いかがです」


王女は表情を変えずに言ったが、いかがもなにも、水瓶座には答えようがない。伝説が蘇るとは、つまり、千七百年余り昔に滅んだはずの国が復活するということか。そんなことが、なぜ起こり得て、なぜ王女はそれを知り得たか。


「……いいえ。でも。待って」


ジェシーがひとつのことに思い当たって、眉を険しくした。


「氷の海事件があるわ」

「あっ。おじいちゃんの言っていた、陛下と、ウォールナッド様と、ソルドロ様が、遺跡を調査したときの」


アルフィナも祖父の話を思い出してそばかす顔を上げる。王女が頷いた。


「そうです。あのとき調査した星の遺跡パシェ・タルトは彼の国の突端なのです。強力な封印魔法を父上たちが攻撃したとき遺跡の上空に突如あらわれた虹色の光に包まれた青年。彼こそが伝説の八つ星パ・バルツァがひとりと推測されます」

八つ星パ・バルツァ伝説……あたしも知ってます。星の国ゲーツァ・タルトを守る伝説の八人の魔法戦士で、八人が現世に再集結したとき封印が解かれ……」

「伝説が、蘇る」


アルフィナの最後を引き取ったのはディリンジャーである。夢物語が現実になると聞き、思い切り顰めた眉の左側だけを持ち上げて、苦み走った顔つきで「そんな馬鹿な」と呟いた。


「つまり、なんです。海の底で千何百年の昼寝をしていたおとぎの国が、近くいきなり目が覚めて地上に出てくる、と?それはまずい。どのぐらいの人数か知らないが、国がひとつ引っ越してくるような場所は、この大陸にはありませんからな。立派な侵略だ」

「ですから、戦うのです」

「簡単におっしゃるんですのね」


メアリーがため息交じりに呟いた。王女はそのため息に向かい、


「戦うと言っても剣を交えるかはわかりません。舌戦かもしれませんよ。土地があれば、そちらへ移るかもしれないではないですか」


と、果たしておとぎ話のようなことを言ってのけた。ジェシーがやはり嘆息する。


「その辺りの計画は、まだ空っぽでいらっしゃるのね。でも、そうね。無理よ。考えようがないわ、今の段階では。本当にそんなことが起こるかどうかも定かでないのだし」

「それは残念ながら確かなのです。おじいさまの予言ですから」

「……夢占いのカレド様?」


ああ、と、吐息のような悲鳴のような声がメアリーとジェシーの口から洩れた。先代の国王カレドの予知夢は、夢であるので朧気で操作性に劣るが外れたことのないことで有名だった。


「おじいさまがお亡くなりになる直前、ご覧になられた未来です。そのときお側にいらした父上が、お帰りになってからお部屋に飾られていた花を下さいました。その花を使い、わたくしは己の魔法で父上とおじいさまの会話を再生し、内容を知ったのです」

「では、他の王子王女の方々は、ご存知ないと?」

「恐らくは、ですが。父上も半信半疑でいらっしゃったのですが、わたくしにだけ教えて下さったのは、おじいさまの御指示だと……おじいさまの夢に母上がいらしたそうなのです。母上の子は、わたくしだけですから」


兄のキリヘッドは病死した先妻の子である。

 カレド先王の夢では、ヤルタ妃が赤ん坊を抱いて涙に頬を濡らし、じっと座り込んでいたという。理由を聞けば、この子を戦に出すのが悲しいと妃は答えた。はて、しばらくこの国に戦はないはずだと首を捻ると、妃は遠く海を指さした。その華奢な指の先には、あの虹色の遺跡が眩い光を放っていたのだと、ミリアの見た魔法映像の中で先王は語っていた。

 キッドが帽子の下で唇を噛んだことに気がついて、アルフィナが首を捻る。しかし他に誰もその奇妙な反応を目撃した者はなく、パットフィールもジェシーに説明を続けていた。


「しかし、いかに先代様のお言葉とはいえ、直にお聞きになったのはウォールナッド様だけですから、王女がどれほど説得を試みても、継嗣問題で争っている現状、王室関係者は熱心に聞いては下さらないでしょう」

「そうでしょうね。あまりに荒唐無稽すぎるわ。……なるほど、それで、とにかく戦力が欲しかったのね。せめて無視できない実力をつければ話を聞いてもらえると」


王女と狼が、ほとんど同時に頭を下げた。ジェシーが慌てて、王女よりも身を低くする。メアリーとディリンジャーもそれに続いた。


「わたくしに、ついてきてくれますか」


王女が顔を上げると、その唇には例の清廉な微笑みが蘇っている。十六歳の娘の、穢れというものをまるで知らないような、透き通るような美貌には逆らい難い厳かな気配があった。


「星の国と戦えと言うのではありません。その戦力を得るために、わたくしはまず、この国の王となります。その戦いについてきてほしいのです」


水瓶座が答えるまでには、やや間があった。真っ先に答えたのはメアリーである。


「お約束をお守りいただけるのであれば、火焔教であろうと、伝説であろうと、灰にしてご覧に入れましょう」

「……なんと頼もしい」


王女は亜麻色の髪をかきあげながら、心からの笑顔を見せた。続いてディリンジャーが王女の前まで進み出て跪く。


「このディック・ディリンジャーに、文字通り、あなた様の盾となる名誉をお与えください」

「許します。わたくしを守りなさい、ディック・ディリンジャー」

「有難き幸せ」


この男の笑顔ほど白々しいものもない。だが、ディリンジャーのような鍛えられた戦士は、内面はともかく、頼もしい存在になるであろう。ディリンジャーは王女の手の甲に形式的というには丁寧なキスをしてさがった。

 王女がゆったりと顔を上げて、ジェシーを見た。


「……よろしいのですか」


既にトップスターであるメアリーとディリンジャーが王女に従う意志を示している。だが、彼らのリーダーたるジェシーが断るならば引き下がるつもりの王女であった。無論パットフィールは、王家の重大な情報を渡した上に指輪も回収できていないことを危惧していたが、王女はまったく意に介していないらしい。ジェシーもそれを感じ取っていた。


「さあ、あなたのそれは、器の大きさかしら?それとも、おばかちゃんなのかしら?」

「きっと馬鹿です。だってひとりで戦えないのですから」


王女は少しも機嫌を損ねる風もなく、嫋やかに首を傾けた。ジェシーが膝をつき、巨体を折り曲げて頭を垂れる。


「なれば、我らをお使い下さい」


王女の笑顔が更に輝いた。その笑顔は、例えるならば白百合のような美しさである。陶器のような肌に亜麻色の髪、すっと伸びた背筋には一本芯があり、清楚で華やかなその美貌は百合の花の化身だと言われても、人は信じるだろう。

 その美しい白百合が視線を滑らせてそばかす顔の少女を見た。

 アルフィナは水瓶座ではないし、犯罪歴もない。農村の娘という身分を変えたいとも考えていないし、大金も欲していない。メアリーやディリンジャーのような戦闘能力もないどころか、まだ自分の魔法を満足に使いこなせてもいないし、王女に対する作法も知らないので、手元に視線を落としながら、もじもじと話はじめた。


「あの、そういう、報酬はいらないんです。でも……」


王女がアルフィナの心を察して、白百合の笑みで語り掛けてくれた。


「わかっています。家族と外に出なかったのは、先程のわたくしの願いのためですね?」

「……はい!お役に立てるかわかりませんが、連れて行って下さい!あたし、知りたいんです。自分の力とか、本当のお父さんのこととか、知らないといけないと思うんです」

「運命から逃げても人は幸福になれます。でも、あなたは自信を持っていたいのね。その強さが、これからわたくしの励ましとなることでしょう」


アルフィナは王女の微笑みにドキドキしながら礼をした。そばかす顔は火照り、手には汗をかき、足も震えそうに緊張していたが、自分自身の決断で一歩を踏み出したのである。

 さて、キッドだけが残った。


「あんたは、どうするの」


ジェシーが訊くまでもないことを訊いた。アマート一家を外に待たせているし、なるべく話を早く切り上げたい、という気持ちも見えたが、キッドはそれでも二秒黙って、二秒後に選んだ答えは、


「嫌だ」


である。王女がライトブラウンの瞳を見開いて、となりでは灰色の瞳が苛立ちにギラついた。二人の顔を見ずに、キッドは顔を伏せている。


「おれは法の中に戻る気はない。別に恩赦なんかいらないし、それに……」


そんなことを笑って言ったが、その後にひどく悲しそうな、どこか怒っているような顔で王女とアルフィナとを見た。


「無理だよ。あんな真っ白まっさらなレディたちと一緒に、なんてさ」


これはキッドの本音である。キッドはこれまでに、ずいぶん汚い人生を送ってきた。人生をやり直したいとは思わないが、後悔がないわけではない。


「そんなことを言ったら俺はどうしたらいいんだ」


ディリンジャーが冗談めいた声を出したが、キッドはちらりと視線を滑らせただけである。笑顔は淋しげだった。


「比較にならない」


パットフィールがあからさまに渋面を作ってミリアを見た。


「やはり止しましょう。少なくとも、あの男はよろしくありません」

「彼らが来るかどうか、決めるのは彼らですよ、パフ。けれどキッド、あなたが断るのは正直を言ってとても悲しいことです」

「キッド、一緒に行かないの?」


キッドが二人の少女から目をそらした。

 キッドがどうしても嫌がるのには理由があった。ひとつには、やはり住む世界のちがう潔白の少女に近づきがたいからであり、またひとつは、王家と八つ星と関わることだからである。なぜ頑なに王家との関りを嫌うのかについてはキッドは他人に明かしたことがないし、王女にわかるはずがない。


「キッド。あなたが恩赦を望まず無法の者であり続けるには、どんな理由があるか知りませんが、他に望みはないのですか?何か欲しいものは?あのとき助けて頂いたお礼だって、きちんとできていないのですもの」

「ご厚意は有難いんだけれど、特に欲しいものはないし……」


王女が泣きそうに眉尻を下げて、アルフィナも大きな目で上目遣いにじっとキッドを見ている。あまりに純な二人の眼差しに、キッドはぐっと喉を詰まらせた。

 いや、二人だけではなかった。メアリーとパットフィールの責めるような視線も痛いし、ジェシーがアヒルみたように口を尖らせているのは全員を案じる親心のようなものであろう。ディリンジャーに限っては顔が見えないが、ひどい圧力である。逃げられる気はしなかった。


「ああ、もう!わかったよ!おれも行く。どうせ、今のおれは水瓶座の雇われ人だ。従うさ」


積極的ではないまでも、ひとまずキッドも一緒に来てくれるとわかって少女二人の表情が輝いた。ディリンジャーがなぜ二人ともキッドのようなチビにばかりと髭を撫でている。キッドも二人がどうして自分に期待をかけるのか不思議に思いつつ、それは追及しないで、ひとつだけ条件を出した。無論、どんな内容であってもキッドの頼みならばと少女たちは身を乗り出すようにして耳を傾ける。


「いや、別に何かほしいとかじゃないんだよ。ただ、二人とも、なるべく危ないことはしないでほしい。そんなことを言ってられない時が絶対に来ると思うけれど」

「馬鹿を言うな。俺がいる限り、ミリア様に危険など決して許すものか」


パットフィールが鼻を鳴らした。キッドが面倒そうに嘆息する。


「どうだか」

「なんだと?愚弄する気か?」

「いちいち絡むなよ。あとでボールでも枝でも投げてやるから」

「いい加減に……!」

「隙ができたぜ、狼くん。そんなすぐカッとなって、王女様をお守りできるやら」


また剣に手を伸ばし掛けていたパットフィールがぐっと黙った。業腹だがキッドの言う通りである。王女がその姿を優しい眼差しで見守って、キッドに視線を戻した。


「わたくし自身が戦いを皆さんに頼んでおきながら、自分だけ逃げるような真似はできません」

「そうよ。キッド。それに、あたし、もう危ないことに手は出しちゃったわ。あなたにリーチ・ティーチをやっつけてって言ったのも、あたしなのだし……」


キッドはちょっと返事を迷った。首を傾げ、頬を膨らまして少し考える。


「そういう自覚があるのは素晴らしいことだ。特にミリア。きみはおれたちの総大将になるんだからね」

「総大将……。そう、ですね。なんだか思っていたよりも勇ましい響きですけれど」

「有難いことさ。自分の爪だけピカピカに磨き上げて、顎をしゃくって高笑いしながら殺戮を命じるような貴族様ってのは最低だからね」

「そんなのは貴族の風上にも置けない、不届きものです」

「うん。それはいいよ。いいと思う。でも、だからって、きみが前に出てくることはない。いや、正確に言おう。きみでは、前に出てこられない」


王女が眉を顰めた。これにはパットフィールも口をへの字にしただけで、抗弁はしない。まったくキッドの言う通りであるからで、アルフィナにも王女にも、キッドの言わんとするところは理解できた。


「……わかっています。このままでは足手まといでしょう」

「そういうこと。いいかい。念を押すけれど、危ないなって思ったら逃げることだ。勇気とか、覚悟とか、正義とか、そんな精神論ではどうにもならないことっていうのはあるからね。アルフィナも怖いと思ったら逃げていい。本当に恐ろしいときに足が動かせるだけで、じゅうぶん、人並み外れた胆力だから」


ひとつ諦めの息を吐くと、キッドの表情にはいつもの悪戯っぽさと人懐っこさ、それから少しの危うさが取り戻された。その笑顔はまったく皮肉を言っている顔ではなかったが、アルフィナは不満であった。


「あたし、逃げるだけなんて嫌」

「わたくしもです。アルフィナ、あなたのことばは、やっぱり勇気が出ますね。勇気だけでどうにもならなくても、やはり、戦わねばならないときはあるでしょう。今は無理でも、わたくしたちだって戦う力を養わなくては」

「やっぱり、じゃじゃ馬だなぁ、二人とも」


呆れて率直な感想を言ったキッドの後頭部を、ジェシーがパシンと音を響かせて平手で打った。


「いたっ!何するんだよっ」

「レディに対し、失礼なのよ、あんたは」


かなり上からキッドを一瞥して、ジェシーが王女とアルフィナの前に立った。


「高い位置から失礼、王女様。でも、もっともっと大きな敵が、あなたたちの前には立ち塞がるでしょう。そのときのために、お二人が力を養うのは素晴らしいことですわ」


その背にキッドがいーっと歯を見せた。


「馬か、お前の方こそ」

「うっさいなぁ。DDなんか馬車のくせに。ママだって、あんな首太くってさ」


そのやり取りにメアリーがクスクスと笑いだした。忍び笑いすらが衆目を集める艶美な女が、ふっくらとした唇に笑い黒子を添え、格調高いピアノの音色のように嫋やかな声で語を紡ぐ。


「馬ばかりですのね。わたくしも、じゃじゃ馬と呆れられながら育ったわ。ところでお馬の皆さんも、狼の坊やも、走りすぎてお腹が空きませんこと?」

「いいところに気がついたわ、メアリー。そうよ、もうキッドもアルフィナちゃんも行くと決まったのだから、後のことは後で話すとして、アルフィナちゃんのおばあさまのケーキをいただきましょうか」


ジェシーがアルフィナにウインクをして、アルフィナが喜色満面、外に家族を出迎えに行く。

 その背を見送りながら、キッドはぽつり、独り言を足下に落とした。


「王女様ったって、所詮は十六歳の小娘だろ。すぐに親父のところに帰りたくなるさ」


薄寒い声は、はしゃいでいる王女たちには届いていない。長閑な村の片隅に、ひとり剣呑な気配をさざめかせて、左利きのガンマンは未来を睨みつけるように右目を細めて奥歯を噛みしめた。肚の底に悪意が渦巻き、春先にとけのこった雪のように汚らしい未練が喉元につかえ、ひどく気分が悪かった。

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夜明けの黄金銃 げんさい @umetel

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