沈黙の夏

春賀 薫

沈黙の夏

 今日も、山川絢の朝はセミの鳴き声から始まる。

 八月、早朝五時。

 目覚まし時計は、まだ鳴っていない。

 窓を締め切っていてもセミに起こされる。

 家の横が公園なのだ。この県で四番目くらいの広さである。

 ああ、また寝不足だ・・・。

 二度寝しようにもうるさすぎて適わない。絢はのそりと起き上がり、一階のリビングへ降りた。そして、テレビをつけた。

『うーん、おいしい!!』

 アナウンサーがかき氷の食レポを元気にしていた。

「文化祭の練習終わりに冷たいの食べに行きたいな。」

 呟きながら、市販のアイスコーヒーと菓子パンを持ってソファに腰を下ろした。親はまだぐっすりの時間だ。セミの鳴き声は気にならないらしい。

 絢が気にすれば気にするほど、鳴き声は窓を通り抜けてリビングに響き、耳を突き刺す。

 それに対抗するように、絢はテレビの音量を一気に三つ上げた。

『次は天気予報です。立山さーん。』

『はーい!!今日も暑いですねー!』

 中継先の暑さは、テレビを通してでも伝わってくる。アナウンサーの白いワンピースが眩しい。

『今日も全国的な猛暑日となるでしょう。ですが、昨日よりは少し下がり過ごしやすく感じると思います。』

 画面に出てきた日本地図に、サングラスを掛けた太陽が何個も輝いている。

「今日は・・・49℃!確かに昨日よりはマシかあ。」

 夏休みの宿題なんてやる気になれず、絢はだらだらと過ごし、八時前に家を出たのだった。


「あ、絢ー!おはよう!」

 二年二組のドアを開けると、友達の梨帆が抱きついてきた。

「おはよう梨帆、今日も元気だね。」

「当たり前でしょ!それに、会うの一週間ぶりだからテンション上がっちゃって。」

 えへへ、と笑う梨帆の頭に台本が叩きつけられた。

「痛いよお。」

「嘘泣きは良いから、早く台詞覚えて。」

 にこりと笑うのは千津江だ。目の奥は笑っていない。それでも、梨帆は元気に返事をして、台本を読み始めた。

『私は妖精・チャヌ。ミーシャ姫、貴方を助けに参りました――。』

「梨帆って台詞多いよね。」

 絢は中身のほとんどが氷の水筒を開けながら千津江に言う。

「まぁ、この劇のキーパーソンってやつだもの。」

 そう言う彼女はヒロインだ。美しい顔は、王子と恋に落ちるミーシャ姫役にぴったりだ。主役のピエール王子役はサッカー部のキャプテン、佐々木だ。彼もまた整った顔をしている。

「千津江は台詞覚えたの?」

「ええ。」

 ああ、千津江は本当にすごい。美人で男子からの人気も高く、成績も学年トップをいつも争っている。彼女の所属している陸上部では、エースを張っている。佐々木くんと並んだら、本物の王子と姫みたいだ。

 絢は羨ましく思うと同時に、そんな彼女の友達で嬉しいとつくづく思うのだ。

「はあ。みんな遅いわね。」

 ため息を着きながら、千津江が言った。

「暑いからね。家出るのも億劫になるよ。部活がある人もいるし。」

「確かにね。でも、こうまで人が少ないと完成するか心配だわ。本番まであと一ヶ月もないんだし。」

「次の練習は集まるんじゃない?ほら、あれが始まるし。」

「ああ、『広範囲温度管理技術施行実験』?」

「そうそう!千津江、よく覚えられるね。」

「お父さんがいつもニュース見てるから覚えちゃうのよ。明日からは、外にいても涼しいから楽よね。」

 話しているうちに、クラスの皆がぞろぞろ集まりだした。

「そろそろ練習始めるよ!役者は声出ししてから、先週やった第一章通しでやるね。音響と照明、大道具、小道具はどんどん進めて!」

 演出の宮本が声を張り上げると、みんなは勢いよく返事をして移動を始めた。


 絢は小道具である。小道具の荷物の辺りに行くと、一人しか来ていなかった。

「お、おはよう。」

 絢はおずおずと声をかけた。

「おう。」

 玉崎が返事をした。

 彼の茶色の瞳と目を合わせた途端、胸がどきりと高鳴った。

 綺麗に刈り揃えたスポーツカット。

 陸上部のはずなのに、焼けていない白い肌。

 すらりとした長い手足。

 そのどれもが、絢の心をときめかせる。

「えっと、何をすれば良いんだろうね。」

「俺と山川しか来てねーもんな。」

 小道具の他のメンバーは、遊園地に行っている仲良しグループ女子四人と、合宿中のテニス部男子二人、そして玉崎と絢の八人だ。

 四人の女子と男子二人が親しいため、今までの練習では玉崎と絢は蚊帳の外、といった状態だった。

「そうだよね。あ、確か必要な物が書いてあるメモがあったはず。」

 荷物を漁ると、しわくちゃのメモ用紙が出てきた。

「これ、全然材料足りないよ!」

「あいつら、買い出し行ってくるって言って遊んでやがったのか・・・。」

 留守番はいつも二人だった。

 だからといって、それで親交が深まっている訳では無い。

 二人とも、練習中は他の仲の良い同性の友達の所へ行っていたので、話すのはほとんど初めてである。

「仕方ねえ、買い出しに行くか。」

「そうだね。留守番はどっちがする?」

「一緒に行くに決まってるだろ。俺一人じゃ何買えばいいかわかんねーし、山川一人じゃ荷物持てねーし。」

「わ、分かった!演出の宮本さんに言ってくるね。」

 絢は口元が緩むのを我慢してそう言った。


 役者達はちょうど声出しが終わった所だった。宮本の指示が終わった所を見計らって絢は声をかけた。

「宮本さん、道具が全然足りないから玉崎くんと買い出しに行ってくるね。」

「今から?それに小道具さん、いつも買い出しに行ってたと思うけど。」

 宮本は眉毛を寄せて言った。

「私と玉崎くん、いつも留守番で任せきりだったからよく分からなくて・・・。早く帰ってくるようにするから。」

「そうだったんだ。裏方にまで気が回らなくてごめんなさいね。暑いから気をつけて。」

「うん、ありがとう。」

 絢は、先に教室を出た玉崎を追いかけようとドアに手をかけた。

 するといきなり、肩を掴まれた。

「絢!」

「うわ!なんだ、千津江か。」

「なんだってなによ。そんなことより、玉崎と買い出しだって?」

 絢は照れながら頷いた。

「いやあ、青春だねえ。」

 にやにやしながら梨帆が千津江の肩から顔を覗かせた。

「もう、からかわないでよ。緊張してるんだから。」

「そんな情けない声出さない。玉崎は部活でも女子と全く話さないのよ?絢は充分話せていると思うわ。」

「仲を進展させるチャンス!ほら、いつも通りスマイルだよ。」

 千津江と梨帆に励まされ、絢は少し顔をほころばせた。

「ありがとう。」

「困った時はお互い様だよ。じゃ、アイスよろしくねー。」

「いや梨帆、買わないからね。」

 絢は笑って教室を出た。


「先に荷物、教室に置いてくる。山川は自転車置き場に行っといて。俺は後で行くから。」

 玉崎は校舎の前に自転車を置いた。

 そして、絢と玉崎のカゴに詰まっていた荷物を軽々と持ち、校内に消えた。

 ホームセンターの往復は玉崎には苦ではないらしい。流石陸上部、といったところだ。

 絢は暑い中、立ち尽くした。

 頬を汗が流れたが、気にしなかった。

 疲れているのではない。

 まだ目に、玉崎の姿が焼き付いている。

 夢のようだった二人きりの時間が終わる。

 絢は幸せを噛み締めた。

 そんな絢の耳に、セミの鳴き声が響いた。

 当然校内にも木があり、セミがいる。

 鳴き止んでいたのが突然鳴きだし、絢はビクリと肩を震わせた。

 絢は再び自転車に跨り、ペダルを踏み込んだ。


 校舎に隣接する自転車置き場に着き、降りて押し始める。

 木漏れ日が気持ちいい。

 ここにセミはいないようだ。

 そう思ったのもつかの間、斜め前の地面に死んだセミが転がっていた。

「・・・うわぁ。」

 絢は顔を歪めた。

 テカリと光る茶色い羽。

 ずんぐりとした胴体。

 突然、セミはジジジと鳴きだし、地面から飛び上がった。

 絢が逃げるより先に、セミはこっちに向かってきた。

「きゃあああああ!!」

 絢は自転車を投げ出し、しゃがみ込んだ。

 自転車は倒れ、金属音をたてた。

「山川!?」

 振り返ると、自転車置き場に向かっていた玉崎も自転車を投げ出し、絢の方へ走ってきた。

「どうした?大丈夫か?」

 玉崎の大きい手が、絢の背に触れた。

 でも、今は玉崎より、セミだ。

「せ、セミが・・・。」

「セミ?」

 玉崎が振り返ると、地面にセミが転がっていた。

 近寄ると、弱々しくジジジと鳴く。

 玉崎は優しくセミを拾い上げた。

「襲いやしないよ。」

 そして、近くの木の側にそっと置いた。

「怖くないの?」

 絢は立ち上がりながら玉崎に聞いた。

「うん。実は俺、虫が結構好きでさ。この子はナツゼミっていう種類だな。」

 玉崎は振り返りながら言った。

 絢は苦手なこともあって、虫には明るくない。

「ナツ、ゼミ?」

「そう、ナツゼミ。五十年くらい前に発見されたんだ。それで、一気に世界に広がった。今ではほとんどのセミがナツゼミだよ。ここ何百年かの猛暑に対応していったセミらしい。だから――」

 玉崎の言葉が突然止まった。

 絢は聞き返す。

「だから・・・?」

「明日から、『広範囲温度管理技術施行実験』が始まるだろ?ナツゼミは涼しい環境じゃ生きられないんだよ。」

 玉崎は寂しそうに微笑んだ。

 絢は、何も言えなかった。

 明日から、静かな涼しい夏が始まることは分かった。

 セミに起こされない、静かな朝。

 嬉しいはずなのに、何故か心の底から喜べない絢だった。


 山川絢は、目を覚ました。

 朝の五時。

 もちろん目覚まし時計はかけていない。

 いつもの癖が残っているようだ。

 静まり返った部屋で、しばらくボーッとしていた。

 しかし、昨日のことを思い出し、慌てて窓を開けた。

 涼しい風が、部屋に入ってきた。

 八月中旬とは思えない温度だ。

 いつもうるさかったはずのセミの鳴き声は、もうない。

 絢は、悲しくなった。

 自分でも何故か分からない。

 突然、聞き覚えのある、ジジジという音が聞こえた。

 慌てて絢は窓から身を乗り出し、外の木を凝視した。

 すると、セミが一匹、木に止まっていた。

「良かった・・・。」

 そう声に出した途端、セミは呆気なく木から落ちた。

 そして、また、静かになった。

 空は透き通るような、いつも通りの薄い青が広がっていた。



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沈黙の夏 春賀 薫 @haru-kaoru

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