第5話 ふたりの素足
「へー、茜にも男がいたなんてね」
「…別に彼氏とかじゃなかったけどね」
私と紗希は大学近くの喫茶店で話していた。学生サービスをしてくれるいい店があると紗希に連れてこられたのだ。少し古いが、黒っぽい家具や観葉植物などの調度品が置いてあり、店内を落ち着きのあるジャズが流れる。私はすぐにこの店を気に入った。
でも少ししんみりしてしまって、つい自分語りなんて老人じみたことをしてしまった。
「…ほんと、紗希はよくこんな店知ってるね」
奮発して頼んだフルーツパフェ。甘いクリームとオレンジの酸味が舌の上でとろける。
「・・・・・・」
紗希は私をじぃーっと見つめたままだ。
「…な、何?」
「…分かった、茜に男ができない訳」
紗希はクリームソーダに刺さったストローをくるくるかき回す。
「茜、それは過去の話でしょ?」
バニラアイスは、パチパチと音をたてて緑の海に沈んでいった。
一人の帰り道。
『過去の話でしょ?』
紗希の言葉は時間が経つにつれてどんどん重くなっていくようだった。
道には枯れ葉が沢山落ちていて、歩く度にカサコソいう。あの日もそんな日だった。
習字の帰り道、私は茂士の家へと急いだ。最近は日が落ちるのが早くて困る。既に空は紫色だったが、やっと茂士が一人で自転車に乗れそうなところなのだ。行かない選択肢など無かった。
「茂士君ー?」
彼の家に着き、呼んでみる。いつもならすぐに『今、行く』と返事があるのだが、その日は待っても返事がなかった。
塀によじ登り、『屋上』に向かう。夏の間に何度も通って、もう一人でも平気だった。屋上を見ると、黒い影がうずくまっている。私はホッと息をつく。
「なんだ、いるんじゃん」
柵に飛び移ろうとすると、
「来るな」
と影が言った。いつもとは違う声色に、動作が止まる。
「…どうしたの?何かあった?」
返事はない。
「自転車乗らないの?」
沈黙。
「もう!分かんないって!」
とにかく傍に行こうと柵に飛び移ると、
「うるさいっっ!!クンナァ!!」
ドンッッ
「「 あ 」」
一瞬、何が起きたか理解が追いつかなかった。
ドサァッ
しかし次の瞬間には、私の体は地面に叩きつけられていた。余りの衝撃の強さに息が出来ない。全身が痙攣する。屋上からのぞいていた影は見えなくなった。
暫くすると呼吸が出来るようになり、同時に虫の鳴き声が聞こえるようになった。立ち上がろうとするが、体はガクガク震えてなかなかいうことをきかない。心臓がドクドク鳴っている。
―――突き飛ばされた。茂士に。
その事実に、心が打ちのめされていた。
―――なんで。どうして。
私が何かしただろうか。そして茂士は、私が苦しんでいるのを傍観した。助けようとさえしてくれなかった…。
手で汚れを払う。両肘から血が流れていた。自転車に跨がる気にはなれず、そのまま押して帰った。
傍観者はどちらなのかも、悪いのは誰なのかも分からなかった。
ただ一つ、もう元には戻れないことだけは分かった。
「茜!?何があったのその怪我!?」
家に帰ると、お父さんとお母さんは傷だらけの私をとても心配してくれた。だけど、理由を話そうとは思えなかった。
次の日、茂士は学校に来なかった。そして、明らかに怪我をしていると分かる私に声をかけてくる友達もいなかった。鈴と心海でさえ、他の子と笑顔で冷たい囁きを交わしているようだった。帰宅すると、「もうあの家には行くな」と両親に強く言い渡された。理由を尋ねると、「危険だから」と言われた。どこからそれを聴いたのかは、聴けなかった。
次の日もそのまた次の日も、二つ前の席はポッカリ空いていた。私はずっと窓の外を眺めていた。考えても考えても、あいつの気持ちは分からないままだった。
風の噂で、鈴が夏の間に優真君と別れたらしいということを知った。
それから高校は、お父さんの転勤で全く知らない土地の高校を受験し、雪解けの頃引っ越した。
…そうか、そうなんだよなぁ。もうこれは『過去の話』なんだよなぁ。こんな当たり前のことを人から指摘されないと分からないなんて、本当に私は馬鹿なんだなぁ。
飲み過ぎた。頭がじんじんする。夜道に人の姿はないが、今更頬を伝う涙が恥ずかしくて、両手で顔を覆った。
―――突き飛ばしてほしい。今すぐに。
何度突き飛ばしてくれたっていいから、一人にしないで欲しかった。もっと話したかった。あんな、表面を撫でるような会話だけじゃない。もっと、もっと深く、話して欲しかった…。
『わあ、流れ星!』
『すげぇ、初めて見た』
『何かお願いした?』
『いや、別に。てか早く帰れ』
『はい?つまんないなー茂士君は。私は茂士君が早く自転車に乗れるようお願いしたのに…』
『えぇ…』
『はい、茂士君の願い事は?』
『俺の、願い事ね…』
夜が、来ませんように。
もうこれっきりにするから、許してください、今だけは…。
私はそう星に願って、
* * *
月日は流れて、季節は冬。
私は、再びあの家の前に来ていた。でも、あの家は跡形もなく消えてしまっていて、あるのは白い更地と、茶色い林だけ。
あの時と同じものは、何一つない。
満足した私は、ただの更地に背を向けた。
「もういいのか?」
「うん、もういいの」
私がそう言うと、十士は白いヘルメットを差し出してきた。
それを受け取り、ネイキッドの後ろに跨がる。
「ごめんね、こんな所まで連れてきてもらって。寒かったでしょ?」
「いいよ、帰ったらあったかいオフトンにもぐりこんでやるぅ~、とか思ってねえから」
「思ってんじゃねえか!」
ベシッと十士の頭を叩くが、彼は黒のフルフェイスヘルメットで完全防備中だ。
「痛くないぞー。さ、帰るか」
私はサイドスタンドを上げた。十士がエンジンをかけ、ネイキッドが走り出す。
「ねえ」
「ん?」
「十士は、いなくならないでね」
「不安ばっか気にしてると、子供が嫉妬するぞ?」
そう言って十士は笑う。
「…そうだね」
自然と十士の腰に回した手に力が入る。この人の背中は大きくて、確かに温かい。
「私が人にものを教えるなんて、出来るかなー?」
「お、早速不安か。いいぜ聴いてやるよ。ただし温かい飲み物でも買ってからな」
「やたーっ!じゃあ私お汁粉で」
「は?コーヒー一択だろ」
確かに今、私はこの人と会話している。
「何で冬は糖分が大切だって分からないのかなあ…ねえ十士さん?」
「いや、糖分は冷え性の原因だぞ」
「・・・・(甘いものがいいんだよ分かってよお!!)」
「はいはい、仕方ない。コンポタで我慢してやるか」
「わーい!さっすがあ!」
二人の白い息が後方に消えていく。
何気ない幸せな時間。例え忘れてしまったとしても、無かったことにはならない。
刺す程に冷たい空気を、私は思いきり吸い込んだ。
Fin.
ソーダとオレンジ 天野 樹 @mineral-blue
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