第4話 アイスキャンデー


私が中学生の時まで住んでいたのは、田舎とは言えないが、人の生活音よりも自然の声がよく響く、そんな静かな町だった。

その日は、蝉が鳴き始めた頃の、放課後に週三で通っている習字教室の帰りだった。中学に入りたいと思える部活がなくて、困っていたところに丁度同じ悩みを抱えた友達に誘われ、一緒に始めて早二年が経つけれど、その友達は早々に辞めてしまったし、何だか私も最近は書くことに集中出来ていない。…帰ったらお母さんに言おうかな、もう辞めたい、って…。

そんなことを考えながら、ダラダラと自転車をこいでいた。今思えば、あの時の私は退屈していたのだろう、自分自身に。これといった特徴がないのは前から分かっていたことだったけれど、周りでどんどん変わっていく友達を見ていた手前、自分だけが取り残されたような不安や苛立ちを持て余していたのだった。


自転車をこぎながら不意に沈んでいく西日を見上げると、その手前、ポツンと建った古い二階建ての一軒家の上で、小さな人影が動いた気がした。慌ててブレーキをかけ、もう一度その屋根の上をよく見てみる。しかし、その辺りはもう暗くなっていて、人影を確認することは出来なかった。

…あの一軒家は、近所の子達の間でも噂の家だということは知っていた。一日中陽が当たらず、遠くから見ても古い家であることがわかるから、と。どこの怪談好きが流したのか分からないが「真夜中に叫び声が聞こえる」なんて噂まであった。

オレンジ一色の世界に、その家の周りだけ林の影が暗い紫に染めている。風にのって木擦れの音が聞こえてきた。けれどその時の私は、恐れよりもどうしても人影が見間違いでないことを確かめたい衝動の方が勝っていた。確かめるだけだ。数分とかからない。だから、私は自転車のハンドルを九十度回してその一軒家へとペダルを踏んだ。

近付けば近付くほど、古い一軒家は背後の林と相俟あいまって不気味さを増幅させていく。

「怪談なんて。もう小学生じゃないんだし」

自分に言い聞かせ、そこは見ないようにしながら意識を屋根だけに集中させる。すると、やはり何かが動いている。

「やっぱり見間違いじゃなかった…!」

しかし何だろう?鳥だろうか?思いを巡らせている内に、一軒家の目の前に着いた。

家は苔むしたブロック塀に囲まれ、あちこちが蔦に覆われていて、扉も明らかに錆び付いている。外から見る限り人が住んでいるようには思えなかったが、何だかばつが悪く感じて、自転車は一軒家の正面からは見えないところに停めた。周囲の歩いて屋根を色んな角度から見ようと試みる。しかし、屋根の上は高すぎて見えなかった。

「やっぱりちょっと離れた方がよく見えるかぁ」

そう思い直し、自転車を停めた場所に戻ると、

「…あれぇ!?」

ついさっき停めたはずの自転車が消えていた。うそ、だって誰もいなかったよね…??軽くパニック状態に陥った私の脳内で、クラスの子が言っていた言葉が反復される。

って、あの家。幽霊が…』

私の顔から血の気が引いていった。ど、どうしよう…町を振り返る。林の影は長く伸びて、町を今にも夜に飲み込もうとしていた。もう帰らないといけないのに…泣きそうになっていると、

「おい」

背後からいきなり響いた声に、私は野生動物に負けないくらいの瞬発力で飛びすさった。と思う。

するとそこには、頭に緑の葉っぱをひっかけた薄汚い男の子が私の自転車に跨がっていた。

「・・・・茂士しげと君!?」

茂士君は同じ中学校のクラスメイトだ。いつも友達数人で駄弁っている私に対し、彼はいつも一人だ。だから直接話したことはないのだが…

何でここに…と思ったが、びっくりさせられたのと、自転車を勝手に乗られた怒りで言葉が出てこず、ほぼ反射で彼の頭にゴツンッと渾身のゲンコツをお見舞いしてしまった。

「いって!何すんだ!」

「いったあ!!」

しかし私の手もかなりのダメージをうけてしまい、片手をさすりながら私は続ける。

「それはこっちの台詞!この石頭!!何でここにいるの?それに何で私の自転車に乗ってるワケ?」

「お前が他人ひとの周りを勝手にウロウロしてたんだろ!」

茂士は自分の頭を両手で庇うように押さえながら反論する。パラリと葉っぱが地面に落ちた。

「父さん帰ってくるの早いな、と思って屋根の影に隠れて様子見したら自転車に乗ったアホ面の同級生だったし、しかもそいつ、家をぐるぐる観察し出すんだぜ?そりゃあ一刻も早く逃げ出したくなるだろ!」

「え?この家、茂士君の家なの?」

″アホ面″なんてワードは聞こえなかった。うん。それにしても、見られてたなんて…恥ずかしさで顔が熱くなる。

「いやぁ、そうだったんだ…だってここ、『幽霊がでる』なんて噂もあるし…てっきり誰も住んでないのかと…」

「…悪かったな」

「へ??」

「幽霊屋敷に人が住んでて悪かったな!!」

ガシャアアァン!!すごい音をたてて私の自転車が横倒しになる。カゴから習字バッグが投げ出される。茂士が乱暴に蹴りつけたからだった。

「…ちょ…ちょっと!何すんの!?」

慌てて駆け寄り、自分の習字バッグについた汚れをはたき、自転車を起こす。そしてなぜ急にこんな酷いことをするのか問いただそうと振り向くと、もうそこに茂士の姿はなかった。代わりに、少し遠くからガチャリ…と鈍い金属音が聞こえた。

そして、静寂。どこかでカラスが鳴いた。私はカゴにバッグを突っ込むと、自転車を全力速でこいで帰った。

ただ、ここから出たかった。



次の日の学校も、特に何かがある訳でもなく終わり、私はいつも通り友達の心海ここみすずと一緒に下校していた。

「あー数学ほんと眠かったー」

心海が両手をあげて伸びをする。

「うんうん、でも堂々と爆睡してる心海さんはヤバすぎだからね?」

私はお調子者の心海に注意する。

「てっへへ~」

「褒めてませんけど!?」

「まあ、起きてても上の空なら寝てる人と大差ないけどね~」

鈴の言葉にギクリとしてしまう私。

「い…いや、だってえ、あの先生言ってること意味不明じゃん!数学の先生とかやってる時点で私と同じ言語喋れてないんだって!」

「ほーう、今日は何妄想してたの?」

「そ…それは…」

数学の時間、早々に先生の言語を翻訳することを諦めた私の意識は、昨日の出来事へと飛んでいってしまっていた。知らない家、突然現れたあいつ、叫び声、倒れた自転車…

あいつ―――茂士君の席は私の2つ前だ。私と同じ窓際の席のあいつは、数学の時間ずっと窓の外を見ていた。あいつは授業中だけでなく、休み時間もずっと窓の外ばかり眺めているのだと、今日気づいた。

でもこのことも、昨日のことも誰かに話そうとは思わなかった。まず幽霊屋敷に一人で近づいたことから、格好のネタにされるだろう。それは勘弁だった。

でも、じゃあ何と言って誤魔化そう…不意に前を向くと、離れてはいるが、私達の前方をあいつが一人で歩いている姿が目に飛び込んできた。

『―――っっ!!今日に限って何で…』

「??茜?どうしたー?」

黙ったままの私を心海が覗きこむ。

「おーい!鈴ー!!」

「あ、ユウちゃん」

その時、後ろから男子が一人駆けてきた。

「あ、優真君じゃん!ちーす」

運のいい助け船に内心ホッとして、声をかける。

「ちーす、茜!鈴、俺も一緒に帰っていい?」

「勿論、一緒に帰ろ」

「出たよ、いちゃいちゃカップル」

呆れたように呟く心海の頭が鈴にぺしっと叩かれる。そう、優真君は隣のクラスの鈴の彼氏だ。鈴は比較的おとなしい性格なのに、いつの間に成立していたのか…

「で、何話してたんだよ」

「それがねユウちゃん、茜が数学の時間ボーッとしてたから、何考えてたの?って聞いたら、前を歩いてる茂士君ガン見したまま黙ってるの」

ば…ばれてる…

「へー、茜ってあんな低身長が好きなんだ」

「茂士ってあれだろ?幽霊で有名の」

「え、どういうこと?」

心海には後でチョップをかますとして、優真君の言葉が気になった。

「あいつっていつも一人なんだろ?いてもいなくても同じだから、幽霊。ってお前らのクラスの奴から聞いたけど。」

そうだったんだ…

「あ、そういえば優真君部活どうしたの?」

「え?ああ、サッカー?鈴と一緒に帰りたかったからサボった♥」

「わー優真君ったら勇者ー(棒)」

ペシィィッ

今度は私が鈴に叩かれた。こ…んのリア充め…

ゴスッ

ムシャクシャした私は心海に空手チョップをした。

「・・・ッッ~~!!忘れてくれると思ったのにー!」



「それじゃ茜、また明日ねー」

「うん、バイバーイ」

私達はいつもの分かれ道でそれぞれの家路についた。…優真君は鈴の家に行くらしいが。三人の姿が道の先に消える。よし、帰ってアイス食ーべよ!小遣いをバッグから取り出す。

私の家は緩やかな坂の上にあり、その道の途中に小さな駄菓子屋があるのだ。意気揚々と足を踏み出す。

『おい』

頭の中に、いやな声が木霊する。ああもう、邪魔しないで。声を振り払うように早足になる。

『いてもいなくても同じだから、幽霊』

幽霊が窓の外に興味を持つだろうか?手に力が入る。今、私の手の中にあるのは、五百円玉。一週間の私の小遣い。

『…悪かったな』

苦虫を噛み潰したような顔。

もう!私は、クーラーガンガンの部屋でアイスを食べるの!

『幽霊屋敷』

誰もいない家ではなかった。

不意に吹いた風が何処からか葉っぱを運んできた。私は駄菓子屋に駆け込む。

「おばちゃん!!」

「あら茜ちゃん、いらっしゃい」

駄菓子屋のおばちゃんは奥の上がりかまちにちょこんと座っていた。

私は隅のアイスケースから水色とオレンジ色のアイスを取り出した。

おばちゃんはゆったりと立ち上がり、それを袋に入れてくれた。

「お腹壊さんようにな」

苦笑いを浮かべるおばちゃんにお金を渡し、

「大丈夫大丈夫!」

と言って家に走った。

ガチャーン!

「ただいま!!遊びに行ってくる!!」

玄関にバッグを放り投げ、アイスの入った袋だけ持ってまた外に出た。

「茜!何処に行くかくらい言いなさい!」

二階の窓からお母さんが顔を出した。私は咄嗟に

「鈴の家に行ってくる!!」

と答え、これ以上何か言われないようにすぐ自転車をこいだ。はやくしないと、アイスが溶けてしまう。あっ!制服着たままだ!誰かに見られたら面倒だなぁ…いいや、背に腹はかえられない。


キキッ

自転車を止める。あいつの家は、昨日と変わらずひっそりとしていて人が住んでいる気配を感じさせなかった。…勢いで来てしまったが、果たしてあいつは居るだろうか。

「そういえば、昨日『屋根の影に隠れてた』とか言ってたよね…」

自転車から降りてブロック塀に近づき、屋根に向かって呼びかけてみる。

「茂士くーん、居ますかー??」

…返答はない。蝉が鳴く声しか聞こえない。…何だか、今更ながら自分の行動が恥ずかしくなってきた。そもそも友達でさえない人の家にいきなり押しかけるなんて

「おい」

心臓が止まるかと思った。

横に、茂士が立っていた。昨日と同じように、頭に葉っぱをつけて。一つ違うところは、彼も制服を着たままというところだった。

「びっくりしたぁ…何で林から出てくるの!?林に住んでるの!?」

「何しに来た」

自分の声とは裏腹に茂士の声は静かだった。それで目的を思い出した私は袋から水色のアイスを取り出して言った。

「…ごめん…なさい」

茂士の目が僅かに見開かれる。

「家を馬鹿にするつもりはなかったの。ただ昨日は、遠くから屋根の上に何かが居るように見えたから…それが何か確かめたかっただけだった。ごめん」

そしてアイスを差し出す。

「…それ、貰っていいのか?」

戸惑ったように茂士が口を開く。

「?それはもちろん」

「まじで!?やった!!」

茂士は私の手からアイスをひったくり、すぐに袋を開けた。

「うわー、ベトベトじゃん」

「うん、だから早く食べて…」

「わー!冷てぇー!うめぇー!」

…これは、許してもらえたということでいいのだろうか。何だか思っていたよりもチョロくて、嬉しいを通り越して後ろめたい。その気持ちを隠すように、私も袋から溶けかけのアイスを取り出して食べた。口の中でシュワリとみかんがはじける。

茂士はそんな私を気にする風でもなく、アイスを口にくわえて目の前のブロック塀をひょひょいと登ってみせた。自分とあまり変わらない茂士の背丈が二倍以上になる。そして彼は私を見て、片手で手招きをした。えっ、私もここを登れって!?

アイスをくわえ、塀に何とか両手をかけるが茂士のような力はなく、体は持ち上がらない。『無理だって!』と目で訴えようとするが、彼は塀の上をスタスタと歩いていく。

慌てて周辺を見回すと、穴の空いたブロックが幾つかあった。そこに足をかけ、何とか塀をよじ登る。しかし塀の幅は思ったより狭く、私は塀に馬乗りになったまま動けなくなる。いや、何であいつはこの上をスタスタ歩けてるの?これはまるで綱渡りならぬ塀渡りだよ…顎を溶けたアイスの汁がつたう。うわぁ、私はアイスを手に持ち替えた。

「何してんだ」

なかなか来ない私に痺れを切らしたのか、茂士が地面を歩くように向こうから戻ってきた。左手にはアイス棒が握られている。

「た、立てない」

「は!?」

立ててるあんたがおかしいんだよ!!

「怖い」

茂士は困ったように頭をかくと、ぶっきらぼうに右手を差し出してきた。

「ほら」

少し躊躇したが、どうしようもない。

「…ありがとう」

茂士の右手に自分の左手をのせる。引っ張ってもらい、立ち上がることができた。そのまま塀の上を慎重に進む。茂士が私のペースに合わせてくれた。

それにしても、どこに連れていくのだろう…。あ、茂士の腕と指はとても白くて細っこい。女の子みたいに綺麗な手だと思った。なのに私より力があるんだな…

「痛い。痛いって」

「あ、ごめん」

指をよく見たいばかりに茂士の腕を不自然にねじってしまっていた。返事の変わりに小さなため息が聴こえた。

そして、右手の方に例えるなら学校の屋上のような場所があった。表からは隠れて見えなかったのだろう。茂士はそこの錆び付いた柵に飛び移り、乗り越えて中に降りた。柵までの距離は僅かだったので、私も茂士を真似した。

「ふぅー疲れた」

やっと一息つけた私はその場に座り込み、アイスの残りをペロリと平らげた。ここは林の影になっていて、コンクリートの地面は冷たかった。木漏れ日がキラキラ落ちて気持ちがいい。

「気持ちいいだろ?」

茂士が側に寝転んで言った。

「うん。夏って感じ。クーラーの効いた部屋の次に気持ちいい」

「…生憎、この家にはクーラーも扇風機も無いんだ。だからここで我慢しろよな」

「えぇ?うっそだぁー」

熱中症が世間で騒がれている今時、そんな家があるだろうか。

「…そういえばお前、自転車で来てたよな」

「?それは、うん」

「昨日俺、お前に色々言ったけど、実はただ自転車に乗ってみたかっただけなんだ。…ちょっと乗らせてくれないか?」

「・・・・・・」

「…ごめん、やっぱいい」

「いや、ぜんっぜん!全然いいよ!!自転車くらい!」


それから私は、習字の帰りに茂士の家に寄るようになった。「父さんが帰ってくるから」と暗くなる前には帰らされた。私も、両親に心配をかけないようにそれには同意だった。

毎回一時間くらいしかなかったが、茂士に自転車の乗り方を教えたり、裏の林をプチ探検したりするのは小学生の頃に戻ったようで楽しかった。ソーダとオレンジの空が徐々に混じり合い、美しい紫に変わる時間は私にとってかけがえのないものとなっていた。

こうして、夏はあっという間に過ぎていった。


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