十八年の逢瀬
「いらしていたのですね、常盤さん」
白衣に身を纏う医者は常盤と呼ばれる男性に声をかける。
ほとんどの調度品が白で埋め尽くされる病室で多色の綺麗な花を棚に置く。病室に入ってきた医者を見ると正対し、頭を下げた。
「お世話になっています」
彼の娘、常盤璃乃が遷延性意識障害と診断されてから約十八年の時が過ぎた。あの時と変わらずに猛暑の日で熱中症対策の注意喚起がされている。
変わったことといえば医者と彼の年齢と気温が数度あがった程度だろう。それ以外、なんら変わりはない。
「あれから十八年過ぎましたね」
「…えぇ」
医者が病室の端に置かれていた椅子を持ち出し、元から置かれていた椅子の隣に置く。腰かけると、男性もそれを追うように椅子に座った。
「私は様々な患者を見てきました。それは軽症の方もいれば重症の方も大勢。常盤璃乃さんのように遷延性意識障害と診断した患者さんも含めてです」
医者は男性の方を
「医者の立場である私がこんなことを言ってはいけないと重々承知しています。ですが、もう一度問わせてください」
そうして医者は変わらずの表情で男性に体を向ける。男性も応じるように体を向けた。
「まだ、療養を続けますか」
本来ならそれは怒りを
しかし、男性は目を俯かせるだけだった。
彼は調べ尽くしていた。遷延性意識障害の実態と回復の可能性やそれらに関連する実例を全て。
回復の事例は幾つもある。しかし、十八年以上の時を経て目覚める事例など世界規模で見ても事例は無いのだ。それを踏まえて、目を俯かせた。
「はい、続けます」
悩んでいるかのように思えた男性だったが返答は肯定の意。彼の手で療養を終わらせるなど元より選択に無かった。それが例え
まるでそれを見通していたかのように、医者は小さく頷いた。
「私は、貴方のような人を知っている」
医者は唐突にそう呟いた。
「十八年間――いえ、例え何十年であろうと。最愛の人の為に己の人生を捧げられるような人を。極限に低い可能性を信じて、ずっと待っているような人を」
男性にとってその言葉はまるで心臓を鷲掴みされるような感覚だった。
何を言っているのか分からない。頭の中ではそう思っていても一人の姿が思い浮かぶ。
「——私は、医者として失格かもしれません」
約十八年前。いつも最愛の娘の隣にいた少年を。最愛の娘の為にと拒絶してしまった少年のことを。最愛の娘に悲しんでくれた少年のことを。
男性は知っている。最愛の娘の一番近くにいたのは自分ではない。いつも、あの少年だった。
「貴方の意思に反して、彼に賭けた私をお許し下さい」
ドアのノックが鳴り響く。医者と男性の声と窓から通る風音しか聞こえなかった部屋。そこに突如として現れた最愛の娘が愛した少年。
もう少年とは言えない、渋くなった容姿だが彼の目に映るのは一人の女性であることは変わらない。
「璃乃」
彼は目を覚まさぬ愛そのものに声をかけた。今まで人生で何度も呼んだであろう人の名前。人生で最も幸せにしたであろう人の名前。人生で最も悲しませたであろう人の名前。人生で最も感情を共有しあったであろう人の名前。
人生で最も、愛した人の名前。
彼は約十八年振りに。彼女の手を握った。
「―――――」
ほのかな温かさ。見ず知らずの人は愚か、家族ですら感じなかった温もりを感じて少女はふと目を開いた。
きっと見慣れない光景だろう。見慣れない人だろう。取り巻く環境は変わってしまったし、彼女の隣にいた彼の容姿は老いを感じさせる。あれから十八年が過ぎているのだ。彼女はそれを知る由も無いし、理解できるはずもない。
だが、しかし。
「し…き…?」
彼女は目の前にいる男性が最も愛している人だと理解した。
「うん――」
遷延性意識障害は時として声かけが重要となる。潜在意識に呼びかけることで患者の記憶を引き出し、それが鍵となって意識の回復に繋がることがある。
二人は別々の時を過ごしてきた。全く進んでいないように思える時を過ごす少女と、進んでいるようで進んでいない時を過ごす少年。別の道を進んでいく相違から彼らの心が変わってしまってもおかしくない日々だっただろう。
あれから約十八年。少年だった彼がこの病室にいて呼びかけているということ。その呼びかけで、少女だった彼女が回復したということは。
「——おはよう」
彼らは、十八年間ずっと愛し合っていたということだ。
十八年の逢瀬 紗斗 @ichiru_s_
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