第7話 ハナさんの笑顔
少しの沈黙のあと、ハナさんが口を開く。
「あぁ、それはね。ほら、この名前って紺ちゃんのものじゃない?」
ハナさんが本の裏表紙に書かれた文字を指差す。
少し擦れているものの、そこには確かに“佐伯紺”と書かれていた。
「本当だ…。でも私、日記なんて…」
書いていない。そう言おうとした。でも、本当に書いていないなんて言い切れるのだろうか。
私にはここに来る前の記憶のほとんどが残っていないというのに。
「すみません、ハナさん。」
「なあに?紺ちゃん。」
「その…私、この本、持って帰っても良いでしょうか?」
「あら、もちろんよ!」
「ありがとうございます。」
そんなやり取りをハナさんとしていると、奥の方から小町の声が聞こえてきた。
「おーい、紺ちゃーん!」
「なーにー?」
「こっちおいでよ!ピアノがあったよ!」
その言葉通り、小町のいる部屋にはグランドピアノが一つと、そばの壁の高い位置に小さな窓が一つ、それから油絵用の道具のようなものが置いてあった。
「紺ちゃん、はじめにあった日にピアノ弾いてたよね?なんか弾いてよ。」
「なんかって…。」
「なんでもいいからー。私、最初に紺ちゃんのピアノ聞いたとき、聞き惚れちゃったんだから。」
「うーん…。じゃあ、ハナさんは、何かリクエストとかあります?」
「えぇ⁉︎わたし?…なんでもいいなら…そうね…“Moon River”とか格好良くて好きだけど…。紺ちゃん、知ってるかしら?」
「あぁ、ヘプバーンのやつですね。確か前に弾いたことあったと思うので、大丈夫ですよ。」
「やったー!紺ちゃんのピアノだー!」
「そんなに喜ばないでも…。というか、小町、最初会ったときよりだいぶ口調砕けてきたよね。」
「そうだね、なんか最初の方はほら、初対面だったじゃない。初対面って、何かと気を使うのよね。でも、なんか話しているうちにだんだん懐かしい…っていうのかな?出会ったばかりじゃないような気がしてきてね。」
「あぁ、確かに、それは私も感じた。」
「でしょ?なんだろうね、私たち、前世で親友だったとかなのかしら?」
「そうかもね。」
「あっ、そうだ。“Moon River”弾いてよ、紺ちゃん。私もこの曲好きなんだ。どこで聞いたのかは覚えてないんだけどね。」
「有名な曲だからね。原曲は『ティファニーで朝食を』っていう映画の劇中歌だよ。」
「ふーん。そうなんだ。でも、たぶん私その映画見たことないと思う。…まあいいや、それじゃあ、お願いしますよ紺さん!」
「了解しましたよ、小町さん。」
鍵盤の蓋を開けて、上に被さっていたフェルトを取り、一応音が出るか一通り確認する。
こんなところに置いてあるから、鼠なんかに中を食い荒らされていないか心配していたが、どうやら無事らしい。
88個、すべての鍵盤から、問題なく音が出た。
「それじゃあ。」
そっと鍵盤に指をのせる。
前回とは違い、一応観客がいるから多少緊張はするが、幼少期に出ていた発表会ほどではない。
頭の中に入っている譜面通りに指を動かすと、次々と、記憶通りのカラフルな音が生まれていく。
記憶はまともにないくせに、こんなことばかり覚えている。
「ムーン・リバー…らーららららー」
「歌えないのかよ。」
せっかく綺麗なのに歌えていない小町につっこみたくなり、つい演奏を中断した。
「紺ちゃん。こういうのはね、ハートで歌うものなのよ、ハートで。」
「そういう問題か…?」
あれ、なんか今のやりとり、とてもデジャブを感じたような。
「よし、もうそろそろ帰ろうか。」
「そうね、もうお昼だわ。」
「だいたいの部屋は散策し尽くしたしね。」
「二人とも、持って帰るものはそれだけで良い?」
「はい!…というか、本当にこれ勝手に持って帰っちゃっても良いんですか?」
「ええ、この塔は持ち主がいなくて、私の家が管理しているから良いのよ。それに、もしそれでこの街に色がない原因が分かるなら、それに越したことはないしね。」
「それなら、お言葉に甘えて…。」
「私も、お言葉に甘えて。」
私は初めに見つけた本の形をした日記帳に、音楽再生機器と、イヤホン。小町はカメラと絵の資料集のようなもの、それから、サンキャッチャーと呼ばれるビーズと宝石のようにカットされたガラス玉を紐に通したものを手に持っていた。
「ふふ、二人とも、すごく個性が出ているわね。」
「そう…ですかね?」
「そうよ。個性があるのは良いことね。」
ハナさんはそう言って微笑んだ。
「…少なくとも、周りに合わせて自分を忘れてしまうよりは、ずっと良い…」
「ん?何か言いましたか?」
「いえ、何でもないわ。それじゃあ、帰りましょうか。」
そう言うハナさんの笑顔には、いつもとは違う、深み、のようなものが含まれていた。そう、私は思った。
少女未睡 −ショウジョミスイ− 時計ウサギ @tokei-rabbit
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