空蝉

倉橋くらはしさん」

 ゆったりと呼びかけられたのは、八月の一週目の朝。

 油照あぶらでりの中、倉橋まいは駅へと向かっていた。駅近くを流れる小川のわきの整備された遊歩道を歩いていると、八月には不似合いな涼風りょうふうが通り抜けた。

 さらり、と川沿いのやなぎの枝がそよぐ。汗ばんだ身体に心地よい。

『倉橋さん』

 ウォークマンの隙間すきまに届いた声が心の琴線きんせんに触れて、舞はがたなで後ろを見た。

 せみの声がさかんに降りしきる中、同年代の男子がたたずんでいた。ひょろりとした長身に、物静かそうな容貌ようぼう

 ふと胸臆きょうおくなつかしさが込み上がるが、何を言えばいいのか言葉が浮かばない。

「久しぶり、倉橋さん」

 彼の言葉に、舞の心が「本当に」と賛同を示した。

「うん、久しぶりだね」

「今日はどこかに出かけるの?」

「うん。美由紀みゆきと映画見に行くんだ」

はやしさんと……じゃあ、大丈夫だね」

 あっけらかんとした男子の語調に「何がじゃあなのよ」と舞が胸の内で突っ込んだ途端とたん喜色きしょくが浮かんでいた彼の瞳がかげった。

 ダメ。直感が舞の言葉をとどめる。

 真夏に似合わない色白いろじろの肌。達観たっかんしてしまったように遠くをながめる双眸そうぼう

「蝉の命って、一ヶ月くらいらしいね。何年も土の中にいたのに、短いよね」

 ジリジリジリジリ。

 共鳴するかのようなせわしない蝉たちの合唱が、気怠けだるげな声にしかかる。

「……」

 彼の名前がのどにつかえて、言葉が出てこない。小骨が刺さったままみたいに、喉の奥に違和感が居座いすわる。

 ざわざわ、と胸懐きょうかいが波立つ。小川を渡った空気に身体の熱を奪われ、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。

 ゆっくりと足下に落ちた相手の目線にられて、舞の目が背の低い植木へと移る。細い枝につかまる蝉の脱け殻が視界に入った。

空蝉うつせみだね」

 そっとささやく彼のやや高めの声に、舞の目の奥がうるむ。

 久しぶりに会った彼に言いたいことがあるのに、言葉にならない。

 彼と舞の間にある柳の葉がたゆたう。


 いつも、教室で静かに小説を読んでいた。ふらりと姿がなくなったかと思えば、気づくと舞の隣の席に座っていた。

 とりとめのない舞の話を聞いては、突き放し気味な受け答えをした同級生。

 右上がりの、少しくせのある字。

 そして、ぽっかりとからになった隣の席。

 一年前の光景が走馬灯そうまとうのように脳裏のうりに浮かぶ。


「……岩瀬いわせくん」

 舞が眼前がんぜんの人物――岩瀬慎也しんやの名を声に出した瞬間、慎也は嬉しそうにんだ。

 勇気をしぼって名前を呼んだことをさとっているかのような、ぬくもりのある顔つき。

「倉橋さん」

 以前と変わらない一本調子いっぽんちょうしの声音に、懐かしさとは違う焦燥感しょうそうかんき起こる。

一生懸命いっしょうけんめい生きていたら、短いとか長いとか関係ないんじゃないかな」

「……倉橋さんは、相変わらず倉橋さんのままだね」

 みつくような勢いで言った舞に、慎也は破顔一笑はがんいっしょうした。

 清涼せいりょうな風が吹き、さらさらと枝垂しだれた葉がらぐ。

「そろそろ、時間だよ」

 静かに告げる慎也に、舞は「待ってよ」と強く思った。言いたかったことを、何も伝えていない。

 一年前、自分の話ばかりじゃなく、彼の話を聞けばよかったと後悔こうかいした。

 伝えてしまえば、もう会えなくなるかも知れない。それでも、言わないままでまたいたくはない、と舞は意を決して口を開く。

「あのね、岩瀬くん。私の話を聞いてくれて、ありがとう。岩瀬くんの私を呼ぶ声が好きだったよ。右上がりの字も好きだったよ」

「そう。こちらこそ、ありがとう。付き合ってくれて」

 まくし立てるように言葉を発した舞に、慎也は彼女の瞳を見つめ返して呟く。熱のない目を閉じて、「じゃあね、倉橋さん」と慎也は感情のこもらない声で続ける。

「絶対、振り返らないで。柳の木は、あの世とこの世の境界だから」

「……うん」

 慎也の言葉に背中を押されるように、舞は駅へと歩き始める。


 時雨しぐれのように蝉の声が降りそそぐ中、彼はそこにいた。

 久しぶりの邂逅かいこうに舞の胸がめつけられ、唐突とうとつにいなくなってしまった彼への気持ちがこぼれる。

 あふれてほほを伝う涙もそのままに、舞は癖毛くせげね上げながら走り出した。

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四季彩(しきさい)~短編集~ 田久 洋 @Takyu

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