四季彩(しきさい)~短編集~

田久 洋

夏の花

 重い鉄扉てっぴを押し開けると、もわっとした空気が身体にまとわりつく。その暑さに鳥肌が立ち、あやめは小さく息を吐いた。

「何やってるんだろう、自分」

 夜空を見上げて、あやめはつぶやく。

 鬼灯ほおずきのような月が闇の中に浮かんでいた。

 いつもより赤みの強い月に、心がざわつく。暑いはずなのに、手足が金氷かなこおりのよう。

 あやめが深呼吸した時、

「どうしたの?」

 唐突とうとつに話しかけられて、びくりと身体が過剰かじょうに反応した。勢いよく声がした方を向く。

 屋上の手すりに身体を預けたスーツ姿の男性がいた。あやめと同じように、このオフィスビルで働いているのだろう。ジャケットを着たままで暑くないのだろうか、とあやめは頭のすみで思った。

「ちょっと、息抜きを……」

「こんな場所で?」

 素っ気ない口ぶりに、あやめは同意しながら「何をやっているんだろう」ともう一度思った。冷房の効いた職場から逃げ出してきた事実を突きつけられた気がした。

「嫌なことでもあった? 涼森すずもりあやめさん」

 さくから離れてあやめに歩み寄った男性が、首から下げた社員証を見ながらたずねる。

「……ちょっと」

 あやめの脳裏のうりに数時間前の場景じょうけいがよみがえる。


     ◆   ◆   ◆


「みんな、ちょっといいか。嶋崎しまざき課長から話がある」

 月末近くのあわただしい中、フロア内に響く声に、あやめは手を止めて上司の方を見る。五十代の部長の隣に、よく知る男性が立っていた。がっしりとした体格に似合わない、優しそうな顔立ち。

 あやめの直属の上司で、付き合っている男性ひと

私事わたくしごとですが、結婚することになりました」

 仕事中と変わらないおだやかな口調で、嶋崎秀一しゅういちが告げた。

 突然の告白に騒然そうぜんとなった場で、あやめだけがぽつんと取り残される。

 私と付き合っていたはずなのに……。

 くらり、と目眩めまいがした。


     ◆   ◆   ◆


「普段は鍵がかかっているから、ここには入れないんだよ」

 男性の言葉で、あやめは我に返る。

「そうなんですか?! でも……」

 言いかけて、相手の名前を知らないことに気づく。

 あやめは目の前の人物を見ると、眼鏡の奥の聡明そうめいそうな目と合った。秀一とは違い、すっきりと背が高い。

杉本すぎもと宏史ひろし

「杉本さんは、何でこんな場所にいるんですか?」

 あやめが問いかけると、宏史は右腕を持ち上げて時計を見た。

「そろそろかな」

 宏史がそう呟いた直後、空にあざやかな朱色しゅいろが舞った。

「えっ‼」

 あやめは驚いて頭上をあおぐと、轟音ごうおんが腹の底を突き上げる。

 散らばる音とともに、菊の形に広がった光のしずくが消えていく。

「きれい」

「今日、花火大会で、守衛しゅえいに頼んで鍵を開けてもらった」

 いたずらを思いついた少年のような、楽しげな宏史の語調に、あやめの心も軽くなる。

「スーツ着たままで、暑くないですか?」

「慌てて来たから。それに、君の名前を見たら、そうでもなくなった」

 次の花火を待っていたあやめの耳にするりと入り込んだ声にうろたえて、宏史に視線を戻す。

「え?!」

 夜空にぱっと大輪の黄色い花が開く。

「涼しい森の、あやめ」

 宏史の言葉に、鼓動こどうねた。ドオン、と耳をつんざくような音がとどろく。

 あやめの首筋に汗が流れた。

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