曇り空の果て

藍沢 紗夜

曇り空の果て

 今日の天気は、一日を通して曇り。

 最高気温は、二十七度でしょう。


 夏の曇り空は、憂鬱を固めたようだ。

 俺はエアコンのよく効いた部屋で、窓の外を片目にそんな事を考えていた。


 高校に入ってから初めての、折角の夏休みではあるが、全くそれらしい充実した夏は過ごしていない。部活は肌に合わなくて辞めてしまったし、休日に一緒に遊ぶような暇な友人もいないのだ。

「あんた、夏休み何処も行かないの」

 母親の声がドア越しに聞こえる。

「ん……」

「何よその気の抜けた返事。少しぐらい何処か行けば良いのに」

 まあ私には関係ないけどね、とぼやく声が微かに聞こえる。余計なお世話だが、たしかにこのまま家でひと夏を過ごすのは、少し問題があるかもしれない。

「じゃ、ちょっと出掛けてくるよ」

 CDレンタルショップにでも行ってみるか。チャリでおよそ十五分。そろそろあのバンドの新しいアルバムも、貸し出しされているかもしれない。


 レンタルショップに入ると、心地よい冷風が火照った身体を包み込んだ。今流行りの女性アイドルの歌が、店内で流れている。

 ロックバンドのCDが並べられたラックに赴いて、幾つか手に取って選んでいると、

「あの」

 後ろから若い女の声が聞こえてきて、振り返ると、アルバイトらしい店員が立っていた。

「人違いだったら申し訳ないのですが」

「え、はい」

「……鈴木くん、ですか?」

 不意打ちで名前を呼ばれて、俺は思わずその店員を凝視した。

 小柄な容姿、丸い顔、焦げ茶色の短めのポニーテール。愛嬌のあるくりくりした目。

 記憶を手繰り寄せてみるが、彼女に一致する知り合いは思い浮かばない。

「あの」

「え、あ」

 声を掛けられて我に返ると、彼女は頭を垂れていた。

「人違いでした、すみません」

 彼女がそのまま去ろうとするので、袖の裾を慌てて掴んだ。

「いえ、、俺、鈴木です」

「……え?」

「だから、鈴木ですってば」

 彼女は明らかに困惑したように眉を顰めた。

「……鈴木、蒼汰くん?」

「うん、鈴木蒼汰。君は?」

 俺が名乗ると、彼女はほっとしたように表情を和らげた。

「瀬名、梓です。小三の時、同じクラスだった」

 せなあずさ。聞き覚えはあるような気がするが。

「ごめん、あんまり覚えてないんだ」

「謝ることないよ、小学生の頃のクラスメイトなんて覚えてなくて当たり前だもの」

 その時、大学生くらいの若い男の店員が「瀬名さんー」と彼女を大声で呼んだ。

「ごめん、バイトもうすぐ終わるから、下のバーガーショップで待ってて貰っても良いかな? なんだか色々喋りたくて」

 分かった、と俺が頷くと、「ありがとう」と彼女は去っていった。


 CDを数枚借りてから、バーガーショップに入った。

 フィッシュバーガーとポテト、それからコーラのセットを注文して、ニ人席を探す。生憎この日は混んでいたので、カウンター席をニ席取っておいた。

 窓からは、空が少し覗いて見えている。どんよりした灰色。曇り空。


 思い出せるようで思い出せない。小学生の頃、俺はどんな子供だっただろうか。

 今でもそうだが、あまり目立たない子だったように思う。でも、あの頃、世界は輝いて見えていた。見るもの全てが面白くて、将来は科学者になりたいなんて言ってたっけ。

 結局、文系に行く事にした。

 中学生の頃から少しずつ苦手になっていった数学は、高校に入ると最早理解不能になり、化学や物理は小学校の理科のような魅力を失っていた。


 どこから変わっていったのだろうか。

 何が変わってしまったのだろう。


 しばらく経って、瀬名梓がやって来た。バイトの服から高校のブレザーに着替えている。

 彼女はシェイクとSサイズのポテトをカウンターに置いて、隣に座った。

「急に話しかけちゃってごめんね、なんだか懐かしくなっちゃって」

「いや、どうせ暇だったから、いいよ」

 そっか、と彼女ははにかんで笑った。笑った顔、なかなかかわいい。

「鈴木くん、どこ高校?」

「A高。そっちは?」

「B高だよ、そっか、鈴木くんA高なんだ、すごいね」

「いや全然、中の下くらいだし、受かったのも半分奇跡だな」

 彼女が笑う。

「小学校の頃から頭良かったもんねー」

 そう見えていたのだろうか。

「小学校の頃って、小三だろ」

 頭が良いも何も無いだろうに。

「ううん、勉強もそうだけど、もっと根本的なこと。鈴木くんは、……賢い子だったよ、なんだか大人びてた」

「……そっか。瀬名さんは、なんで俺のこと、覚えてるの」

「なんで、って、言われてもなぁ。私、記憶力良いから」

 彼女は悪戯っぽく笑った。でもどこか寂しげにも見えて、少し胸が締め付けられる。

「でもまあ、鈴木くんじゃなくても、私のことは覚えてないと思うな」

「え、瀬名さんって結構社交的じゃない」

「……昔っからこうなわけじゃないよ」

 彼女は不意に目を伏せた。それを見た瞬間、曖昧な記憶の断片たちが一つに繋がっていくような感覚に襲われて、頭を殴られたような衝撃とともに、ある風景が浮かび上がった。

「……梓って、もしかして」

「思い出した?」

 ああ、思い出した。彼女は、 ……


 小三のとき、一日だけ学校をサボったことがある。

 特に深い意味があったわけじゃない。

 ただ単に、反抗期だっただけ。

 俺はその日、学校を早退して近所の公園へ足を運んだ。ちょっと不良っぽいこと、としてその頃の俺が思いつく精一杯だった。

 そして、そこで偶然出会ったのが、当時不登校だった梓だった。


 彼女は、別段学校でいじめだとか無視だとかハブかれてるとかではなかったし、かと言って病弱なわけでもなかった。ただ、少し繊細な子だった。

 梓は、独りブランコで揺れていた。楽しそうにはとても見えなかったので、気になって俺は彼女に声を掛けた。


 最初は突然声を掛けられて怯えていたようだったが、夕方までには梓は無邪気な笑顔を見せてくれるようになった。

 色々と話をした。どうでもいいような話ばかりだった。空の色の話や、ノートの落書きの話のような。それでも、彼女は楽しんでくれたようで、自然と俺も笑顔になれた。

「ねえ、また話したいな」

 彼女がそう言ったので、俺は大きく頷いて、またね、と言った。

 その次の日から、彼女は学校に来るようになり、でも結局再び話すことなくクラス替えになって、しばらくして彼女は転校してしまった。


 忘れてしまっていた、そんな些細な思い出。まさか覚えていてくれるなんて思わなかった。なんだか、自分が情けないな。


「梓」

「なに、蒼汰」

 零れだしたその名前に、梓は穏やかに呼び返す。

「……ごめん、忘れてて」

「いいんだよ、忘れてくれて」

 私なんて、と彼女が心の中で言ったのが分かって、何かを言おうとする前に、梓は口を開いた。

「私ね、ずっと蒼汰に憧れてたんだよ。

あの時、蒼汰が頷いてくれたから、私は学校に行こうって思えたんだよ。

 私は、あの時蒼汰がしてくれたみたいに、誰かに手を差し伸べられる人になろうって、思ったんだ」

 そんな風に、思われていたなんて。

「その本人が、こんなんでごめん」

「むしろそんなんでもいいんじゃないかな、それがきっと君だから。代替不可能な、たった一人の君だから。少なくとも、私はそんな君に救われたんだよ」

 凛とした、真剣な声だった。

「……救われたって、そんな大げさな」

「大げさに聞こえるかもしれないけど。あの頃の私には、すごく大きな事だったんだよ。だからほら、バイト中なのに話しかけちゃったりとかね」

 ははっ、と彼女は明快に笑った。

 俺は、あの時反抗期で良かったかもしれない、なんてぼんやり思った。


「ねえ、蒼汰は進路、決めてるの」

「……ああ、文系にしたよ」

「そっか。A高は進学校だから、やっぱり蒼汰も大学行くの」

「うん、まあそうかな」

「そっか。……私、行きたい大学があるの。私立だから、家計的に厳しくて、でもどうしても行きたいから、今からバイトして、お金貯めて、頑張る」

 彼女の真っ直ぐな眼差しが、眩しい。

「俺はまだ、何にも考えられない。大学も、将来の事も。とりあえず文系にしたけど、やりたい事も見つかってるわけじゃないし」

「それでも、大丈夫だよ」

 俯いてしまっていた顔を上げると、梓は窓の外の空を見つめていた。

「The sky beyond the clouds azure sky.って、さ」

「何それ、空が何」

「曇り空の果てには青空がある、だよ。

 まだ何にも見えなくても大丈夫。いつか絶対に晴れるから」

 彼女は、晴れた日の青空みたいな、今日一番の笑顔をこちらに向けた。

「いま私すごいいい事言ったでしょ」

「折角感動してたのに。今の一言で全てが台無しだよ」

「えーウソー」


 それから俺たちは他愛ない話を少しして、連絡先も交換せず、再会の約束もしないままに別れた。でも、またこんな風に会えるような、そんな気がする。


 曇り空の果てには青空がある。

 帰り道の自転車の上、蝉時雨の中で一人呟いた。

 青空の先には、まだ知らない宇宙が広がっている。

 そうだ、目の前が見えないのは当然のことなのだ。

 少しだけ、顔が綻んだ。

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曇り空の果て 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda

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