承-5
吉見の寝床となる濃紺のソファベッドは、座面を展開すればダブル並みのサイズになる。ラブホで同じくらいのベッドに文句を垂れてたワーカホリックも、ひとりで寝る分には文句ないだろう。
シートの下に収納してある寝具を今のうちに出しておくか──
灰皿に灰を落としながら考えて、ふと気づいた。あの男、泊まる前提で誘ったってのに寝る場所があるのかどうかも訊かなかった。
そんなことに気が回るメンタリティじゃなかったのか、本当は泊まる気なんかなかったのか、それとも寝床がひとつでも構わなかったのか。
結局、ちっとも頭に入ってこないバラエティ番組を眺めつつビールを呷っているうちに、寝具を出す間もなく吉見が戻ってきてしまった。
ドアが開く気配に顔を向けた矢嶋は、ひとつ煙を吐いてそのまま沈黙した。
「──」
貸したTシャツとスウェットは、上下とも若干のルーズ感。頭から被ったホテル仕様のバスタオルと無造作に落ちかかる濡れた前髪が、もともと小振りの顔を余計に小さく見せている。
仕立てのよさげなスーツに身を包んだシャープな外観から一転、想像以上の変貌ぶりに数秒、思考が停止した。
とはいえ、矢嶋が知る姿の9割は人生のドン底みたいな目で身なりを台無しにしてるワーカホリックだから、これまでの認識と大差ない話ではある。
「ドライヤーあっただろ?」
矢嶋は意識して視線を引き剥がすと、放るように言ってビールを傾けた。そうでもしなけりゃ、不審なほど凝視し続けそうだった。
「……面倒くせぇ」
ギリギリ聞こえる音量で返事を寄越した男は、バスタオルを被って立ち尽くしたまま動かない。貴重なバッテリー残量を入浴という大仕事で使い果たして、いよいよカラータイマーが点滅を始めてるのかもしれない。
矢嶋は立ち上がってキッチンに向かった。
「とにかく座ってろよ、立ってるだけでもエネルギーを消費するだろ? 俺もシャワー浴びてくるから、アルコールでも飲んでダラダラしてりゃいい」
氷を入れたロックグラスを持って引き返し、ついでに吉見の背中を押してソファに追い遣る。魂が抜けた人形みたいな身体に触れたとき、手のひらに伝わる感触と風呂上がりの体温に何かが込み上げそうになった。
「あ、えっと──もう寝るなら、先にあんたの寝るとこ用意しとくけど」
「あとでいい」
「そうか? じゃあ適当にやっといて」
矢嶋は言い置いてリビングをあとにした。
半ば逃げるような思いだったのが、我ながら情けない。
バスルームから戻ったとき、来客はダラけた姿勢でソファに雪崩れていた。
空洞みたいな目がテレビに向けられてはいるものの、内容がわかってるかどうかは甚だ怪しい。
濡れたままの頭はクッションを無造作に覆うバスタオルの上。もちろんバスタオルも湿ってるから家主的には気にならなくもないが、諦めることにする。
テーブルにはキャップが開いたままの黒霧島。隣に置かれたグラスを8分目まで満たす透明の液体は、氷が溶けたものか、なみなみ注いじまったのか。
グラスの脇で几帳面に並ぶ煙草の箱とライターは、どちらも矢嶋のものだ。灰皿の中の吸殻は、風呂に入る前より明らかに本数が増えていた。
「あんた、また俺の煙草吸ってたのか」
吉見の目だけが動いて、こちらを見た。もはや眼球を動かすくらいが精一杯なんだろう。
「紙がいいなら持ち歩けばいいんじゃねぇ?」
「あぁ?」
「だから、煙草だよ」
「──」
「好みでもねぇのに都合がいいからって電子吸ってんだろ?」
「電子じゃねぇ……」
「加熱式だっけ? 葉っぱを紙で巻いてねぇなら何だって大差ねぇし、せめて周りに気ィ遣う必要がないときぐらい好きなモン吸えるように持ち歩いたらどうだよ? ただでさえあんた、楽しみが何もねぇんだから」
「楽しみならある」
「どうせ仕事だろ」
「紙の煙草は目の前になきゃ吸わねぇ」
「俺が持ってるのが悪ィのか?」
吉見は問いには答えず、満面に鬱陶しさを掃くと持ち主に断るでもなく箱を引き寄せて1本抜いた。一体、今の会話を何だと思ってるのか。
これで平日の昼間は年齢不相応な肩書きを背負って、部下を心酔させるほどバリバリ仕事をこなしてるらしいんだから、ワーカホリックのベクトルってのは不可解極まりない。
気怠い風情でフィルタを咥える唇とライターを擦る指の形に気を取られそうになって目を逸らし、矢嶋は冷蔵庫からビールを出してきた。ソファを占領する野郎の脚を押し遣って割り込んでから、煙草とライターを取り返すついでに開けっぱなしだった黒霧島のキャップを閉める。
「もっといい酒のほうが、あんたには似合うと思うんだけどな」
漏れた言葉に深い意味はなかったし、返事があるとも期待してなかった。
が、たっぷり15秒を過ぎた頃、エリートビジネスマンにあるまじき鈍重な声音が短く返った。
「例えば?」
「例えば……いや今、急には思いつかないけど」
「あぁそう」
「2分くれたら考える」
「酒なんか何だっていい」
「酒の好みぐらいあってもいいんじゃねぇ? さっきの煙草の話の続きになるけど、仕事以外の楽しみを作れよ」
「──」
億劫そうな半眼が、ひどくゆっくりと瞬いた。
「何の関係があるんだ?」
「何が?」
「酒や煙草の好みと、仕事以外の楽しみってヤツが」
「酒も煙草も嗜好品だろ? 嗜好なんて言葉、あんたのライフスタイルには縁がなさそうだけど意味ぐらいは知ってるよな?」
言いながら自分のスマホを取って、これ見よがしにググってやる。
「いいか? 嗜好品とは、栄養を摂取する目的ではなく心身の高揚感を得るためや味覚や嗅覚で楽しむために嗜む、それぞれの人の好みの食品、飲料、喫煙物である……心身の高揚感だってよ。あんた、酒や煙草でそんなもの感じてるか?」
「そんなもの必要か?」
「それを言うなら、そもそも酒や煙草を摂取する必要あるか?」
吉見は無言になったが、ますます重くなった眼差しが言わんとするところはわかった。十中八九、こういう意思表示だと思われる──嗜好品の摂取について、お前にとやかく言われる必要あるか? と。
週のうち最も機能不全を来すに違いない金曜の夜のワーカホリックは、ノロノロと身体を起こしてテーブルのグラスを引き寄せた。恐ろしく不景気な仏頂面の中でも、とりわけ眉間の鬱感が酷い。
「イケメンが台無しだな」
矢嶋は笑って、ひと息に空いたグラスを吉見の手から取り上げた。
イケメンという言葉に当人が無反応なのは、否定する気がないというより耳を素通りしてるように見える。アルコールの力を借りても、底を突いたバイタリティの回復は不可能らしい。
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