承-4

 互いに何杯目を干した頃だったろうか。

 途中、ビアダイニングに置いてきた彼女からメッセージが着信した。

『仕事はどうなったの? 大丈夫だった? 近くで飲んでるから終わりそうなら来ない?』

 ──とっくに移動して別のヤツと呑んでるなんて、勿論言えるわけはない。

 遅くなりそうだから今日は無理だと謝罪の方便を返信してスマホを置くと、正面の男がチラリと目を寄越した。

「女か」

「え?」

「女の誘いでも断ったってツラしてる」

 まるで興味なさげな口ぶりながらも、口角には微かな笑みの切れ端が見える。多分、酔いが回り始めてるんだろう。

 前回もそうだった。勤務時間外だという現実をアルコールが薄めるらしく、酔っ払うにつれて面構えも口調も幾分リラックスする特異体質──もはや変態の域──だ。

「へぇ。そんな顔が見分けられるのか、あんたでも?」

 揶揄うように笑い返す傍ら、矢嶋の視線はグラスに触れる男の唇を性懲りもなく追っていた。

 と同時にふわりと蘇る、洒落た店内で向き合っていた彼女の口紅の色。

 華やかさの中にも艶めいた落ち着きを孕むピンク系の色合いは、決して嫌いじゃなかった。それどころか塞いで舐め取ることを何気なく想像もしたし、遅からず今夜はそうなるはずだった。

 彼女の後ろに、ガラス越しの不景気面を見つけるまでは──

「アイツが、よくそういう顔するからな」

 吉見の声で我に返った。

 一瞬、何が? と思ってから、自分の問いに対する返事かと気づく。

「アイツって?」

「だから、岡田」

「──」

 尋ねたのは確か、女の誘いを断ったときの顔ってのがわかるのかどうか、だ。

 つまり今の答えでいくと、コイツの話にやたら登場する部下が「よく」上司の前で女の、おそらく付き合ってる彼女とやらの誘いを断ってることになる。

 矢嶋はそのシチュエーションを想像しかけて押し遣り、適当なコメントを返そうとして思いつかず、結局は鼻先の笑いひとつで受け流した。

 が、認める。

 弁当を手作りしてまで上司を矢嶋に合わせたくないという部下も、ソイツが恋人より上司を優先してるらしい事実も、正直言って何から何まで不愉快の一語に尽きた。

 ついでに、今夜抱くはずだった女の人工的な彩りよりも飾り気のない吉見の唇に数倍昂る神経も、もはやゴマかしようのない現実だった。

 だから帰り際、自然とこんなセリフが漏れたことに矢嶋は驚かなかった。

「なぁ、あんた。どうせ会社から遠く離れた自宅に帰ったって、憂鬱な土日をひたすら寝て過ごすだけなんだろ? だったらウチに来ねぇ?」

 一方で、吉見の「行かない」という即答も予想通りではあった。

 それでも一応、訊き返した。

「なんで?」

「行く理由なんかないし、週明けの出勤準備もできねぇ」

「それってさ」

 さっさと歩き出した男に矢嶋も並ぶ。

「週末中、ずっといる前提で答えた?」

「あんた、そういう言い方しなかったか?」

「俺はどっちだっていいんだけど。でも少なくともライバル会社勤務の、よく知りもしない男の家に行くのが嫌だってわけじゃないってことだよな?」

「どこの社員だろうが関係ない」

 鬱陶しげな返事はしかし、都合よく解釈するなら、嫌なわけじゃないって部分を否定してはいない。

「だったら試しに、距離的にちょっとでも会社に近い俺んちに来てみろって。この週末は俺もちょうど何も予定ねぇし」

「つまり、あんたがやることなくて退屈ってわけか」

「タイミングがいいって話だろ?」

 言いながら、矢嶋は車道のタクシーを目で追い始めた。

 今日はまだ終電まで時間がある。でも、いちいち電車に乗るよりクルマのほうがむしろ早い距離だし、駅の雑踏に触れた途端に吉見の気が変わっちまわないとも限らない。

「清瀬が恋しくなったら好きなときに帰ればいいし、週末中ずっといたって、ちゃんと洗濯機もアイロンもあるから安心しろよ」

 屋根に提灯を載せた数台の中に空車を見つけて手を挙げても、隣に立つ男はもう何も言わなかった。



 マンションのそばのコンビニ前でタクシーを降りて、まずはアルコールだの食い物だの諸々を調達した。

 仕入れた荷物に含まれていた必要な物資──棚から無造作に取り上げた下着のパッケージを吉見がカゴに放るとき、平素と変わらない横顔が全く気にならなかったと言えば嘘になる。

 だからこそ矢嶋は意識して何食わぬ顔を作り、自宅のドアを開けて男を招き入れた。

 3階建ての2階、南西角部屋。入ってすぐ右手にトイレとバスルーム、左に6帖のベッドルーム。正面のドアを隔てた約10帖のLDKは南に面した横長のレイアウトで、そのためベランダも広い。

 築30年を超えてはいるものの、バブル期に建ったせいかそれなりに余裕のある間取りとなっていて、立地のわりにリーズナブルな物件だった。

「散らかってて悪いな」

 実際にはそれほどじゃなくとも挨拶程度にそう言ったら、放るような答えが返ってきた。

「だったら何だ?」

 おかげで来客に対する社交辞令は一瞬で所在を失くした。しかし勤務時間外、それも金曜の夜のワーカホリックに世間一般の反応を期待するだけ無駄ってもんだろう。

 矢島はコンビニ袋をリビングのロウテーブルに置き、ベッドルームのクロゼットから出してきたハンガーを吉見に渡してやった。

「カーテンのとこにでも掛けといていいから」

 言い置いて再び隣室に引っ込み、着替えるかどうかをちょっと迷う。

 コンビニで下着を仕入れたとは言え、帰ると言い出す可能性もまだゼロじゃない。なら、猶予を残すためにも部屋着を貸すのは待ったほうがいいかもしれないし、かと言って部屋の主だけがリラックスした格好では客も落ち着かないんじゃないか。

 ──が。

 リビングに戻ると、カーテンレールに引っ掛けたハンガーに几帳面な手つきでスーツの上着を吊るしているパンイチの後ろ姿があった。

「──」

 濃紺のローライズボクサー、バランスよく引き締まった細い腰、小さな尻から伸びる両脚のライン。

 デジャヴだ──背中の陰影を無言で眺めて矢嶋は思った。下着の色も、全てがぶら下がるハンガーも、いつか見た光景そのままだ。違っていたのは、振り向いた男からさりげなく視線を逸らした矢島の反応だけだろうか。

 ……いや、脱ぐか普通?

 自分を強引に抱いた相手の部屋で、こんなに無防備に。

 それともコイツの中じゃ、あの行為はなかったことにでもなってんのか──?

 当のパンイチ野郎は矢嶋の視線を気にする素振りも見せず、相変わらずの面構えで億劫そうにこう要求した。

「風呂を貸してくれ」

 一体、何なんだコイツは──

「あと、できれば着替えも」

「できればって、貸さなかったらどうするつもりなんだ?」

「帰る」

 矢嶋は首を振って息を吐いた。

「貸すけど、そういうことは脱ぐ前に言ったほうがいいんじゃねぇ?」

 すると吉見は、言われて初めて気づいたような顔で、あぁ……と小さく口を開けた。全く、仕事クスリが切れた中毒患者ってヤツは危なっかしくてしょうがない。

「今すぐならシャワーになるけど、いいか」

「別にいい。動けるうちに入りたい」

「動けなくなるのか?」

「徐々にな」

 きっと金曜の夜から月曜の朝までのスパンで、メンタルやバイタルが摺鉢状のベクトルでも描くんだろう。

 ただ、風呂と着替えさえ貸せば泊まるつもりでいることは、これでわかった。少なくとも今夜については肚を決めたようだ。

「今穿いてるソレは」

 矢嶋は言って、濃紺のローライズを目で示した。

「洗濯機に放り込んどいてくれ、あとで回すから」

 吉見をバスルームに追い遣ったあと、適当な着替えと下着のパッケージ、タオル一式を脱衣スペースに置いてきた。

 漏れ聞こえる水音に気を取られないうちにリビングへと引き返し、コンビニ袋の中身を整理する。紙パックの黒霧島──言うまでもなく吉見用だ──と缶ビール数本、乾き物と缶つま数種類。ビールを1本開けて煙草を咥え、残りの缶は冷蔵庫へ。

 テレビをオンにしてからソファに座って穂先に火を点けると、ザワつく腹の裡を猥雑な音声が有耶無耶にしてくれるような気がした。

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