承-3
ドリンクと一緒にやってきた漬物の盛り合わせに箸を伸ばし、鮮やかな黄色の沢庵をつまんで口に放った。
思ったよりも歯ごたえのある食感を噛み砕きながら、矢嶋は隣の椅子の背に引っ掛けてあった上着のポケットから煙草のパッケージを取り出した。
1本抜いて咥え、箱を対岸に向ける。
「吸う?」
尋ねると、吉見は飛び出したフィルタを無言で引き抜いた。
「あんたは相変わらず電子吸ってんの? 普段」
「電子じゃねぇ、加熱式だ」
「紙で巻いてない煙草なんかどれも同じだよな」
「──」
差し出した炎が焦がす穂先を伏し目がちに見つめる、重たい目元。そこに前触れもなく滲んだ色っぽさに気を取られて、矢嶋は危うくライターを引っ込めるのを忘れかけた。
週明けまで大好きな仕事と引き離されちまう金曜の夜の無気力感は、昼メシ時に見ていた不景気な面構えと何ら変わらない。なのに別の顔を知ったせいなのか。鈍い気怠さが与える印象は、ひと月前までとは明らかに違っていた。
矢嶋は立て続けに煙を吐いてから、意識して唇の端に笑みを作った。
「こんなところ、会社のヤツに見られたら何か言われるんだろうな」
「何かって?」
「だから、そりゃ……やっぱ一応、警戒するだろ?」
別にライバル会社同士だからと言って、社員たちが見境なく反目し合ってるわけじゃない。
それでも、連れ立って居酒屋にしけ込むような付き合いをしてるヤツらは少ないと思う。同じビルに居を構える同業種ではあっても──否、だからこそ──エントランスは全く別の場所にあるし、個人的に知り合う機会はそうそうない。
あるとすれば昼メシ時くらいか。矢嶋がこの男を知ったように?
「別に、そうでもねぇけど」
「そうか? あんただって、最初に俺が自己紹介したとき微妙な顔しただろ?」
「憶えてない」
「憶えてなくてもしたんだよ。まぁでもあんたの場合、仕事命のワーカホリックなんだから敵陣の登場にピリつくのは尚更だよな」
「だから別にしてねぇって」
「けど……」
言いかけて我ながらクドイと感じた矢嶋は、一旦飲み込んでから突っ込む方向を変えた。
「ほら、あの、あんたに懐いてる後輩だか部下だかってのにも何か言われたんじゃねぇ?」
数秒、妙な沈黙があった。
が、やがて吉見はさっきと同じ反応を淡々と返した。
「何かって?」
「だからさ。あんたと2人で出勤したとき会っただろ? 適当にゴマかしゃいいのに、あんた馬鹿正直に俺の正体をバラしちまうから戸惑ってたよな、あの彼」
「──」
再び生まれた空白をやっぱり不自然に感じたとき、吉見が短く言った。
「名前」
「え?」
「何だっけ、あんたの名前」
「まだ思い出せねぇの? 矢嶋だよ。や、じ、ま。今度こそ名刺渡そうか」
「いらねぇ」
そもそも思い出せないどころか記憶すらしなかったに違いない野郎は、今だって聞いてるんだかどうだか怪しい風情で煙を吐いてる。
「あんたの名前──」
灰皿に灰を落として、吉見は鬱陶しげに指先で目頭を揉んだ。
「いっぺんアイツに訊かれて、でもわかんねぇっつったら何でか知らないけどすげぇ怒られて。で、もう会うなって迫られた」
「え? 会うなって誰と? 俺?」
「今の話の流れで他にいねぇよな」
ひょっとして、それが昼メシ時に出くわさなくなった原因だっていうのか?
後輩だか部下だかって男に、会うなって言われたから……?
見かけるたび、このワーカホリックに貼り付いて人懐っこい大型犬みたいに尻尾を振りたくってるヤツだった。仏頂面で目も合わせないような吉見の態度も意に介さず、下にも置かない扱いで──そりゃ、上司相手なんだから当然なのかもしれないけど──いつも機嫌よくニコニコ笑ってたツレの男。
ソイツが、「すげぇ怒った」? で、もう会うなって迫った?
「俺がウチの社員だから?」
「さぁな」
「理由も聞かずに部下の横暴を呑んだのか?」
「あんたに会うのを止められることの何が横暴なんだ?」
怪訝そうな問い返しは、言われてみればその通りだった。
「けど、結局こうして会ってるよな。あんただってホントは理由のわからない押し付けに納得したわけじゃねぇんだろ?」
たとえ今夜は、矢嶋の強引な誘いを断るのが面倒なだけだったとしても、だ。
「というか一応確認するけど、まさかセックスしたなんてことまで部下に白状してないよな?」
言った途端、手のひらに頬を預けた億劫げな眼差しが掬い上げるように流れてきた。この話題は地雷だったかもしれない。
そりゃそうだよな──と矢嶋は己の迂闊さに舌打ちし、薄く開いた吉見の唇が「帰る」の一語を吐き出さないうちに素早く軌道を曲げた。
「なぁ。あんた最近、昼メシどうしてんの?」
「昼メシ……?」
幸い、吉見は帰るとは言い出さず、緩慢な仕種でグラスに口を付けながら目を寄越した。
「前はちょいちょい昼メシんときに地下で見かけてたけど、ここんとこ全然いなくねぇ?」
「あぁ──岡田が外行こうっつーから……ここ何日かは、アイツが弁当作って来てるから社外に出てねぇけど」
「え?」
弁当?
「まさか、ソイツの手作り弁当?」
「らしいな」
「ソイツの彼女が作ってるとかじゃなくて?」
「知らねぇけど、同棲とかはしてねぇはずだし」
「じゃあ、あんたの部下が、あんたの弁当まで作って来てんの?」
「だったら何だ?」
「いや……」
確かに目の前の男は、ひとりで放っておいたらメシも食わないような野郎に違いない。けど、たとえ盲目的にリスペクトしてる上司だとしても、部下がそこまで世話を焼くってのは度を越してないか。
「あんたの昼メシは部下の言いなりなのか?」
「昼メシなんかなんだっていい。どうせいつもアイツの食いてぇモンに付き合ってるだけだ」
「でも、ソイツが来たのって去年だか一昨年だかって言ってたよな? それまではどうしてたんだよ、昼メシ」
「食ってない」
「全然?」
「あぁ」
「毎日?」
「全然っつったら毎日に決まってんだろ。あんた、なんでそんなに質問責めなんだ」
迷惑げな素振りを隠しもせず、吉見は干したグラスをテーブルに置いてメニューに目を落とした。
文字通り、落ちたという表現がピッタリの鈍重な眼差し。
が。
唇を濡らす雫を舐め取った一瞬の艶めかしさは、ベッドで乱れる姿を知ったからこその錯覚だ──とは、もはや思えなかった。
本人にそのつもりはなくても間違いなく滲んでる。
駅で捕まえてからここに至るまでの間に、ふとした瞬間、それも幾度となく匂い立った色香のような気配を、もしかして岡田ってヤツも感じてるんじゃないだろうか? 否、それほど毎日ベッタリ一緒なんだったら、むしろ気づかないほうがおかしい。
矢嶋の目は、吉見が舌を這わせた唇に否応なく吸い寄せられていた。
何度見ても感心するほど綺麗なアウトラインは、ストイックに整ってるくせに何故かやたらと欲求をそそる。いっそ挑発的なくらいに。
立ち上がってテーブル越しに胸倉を引っ掴んで、そこに触れたい。
隙間に挟まるフィルタの代わりに指を突っ込んでこじ開けて、細い顎を掴んで舌で押し入って、嫌と言うほど奥まで掻き回してやりたい──
腹の底に生まれた乱暴な熱を遣り過ごそうと、矢嶋は目を逸らしてフードメニューを引き寄せた。
「何食う?」
「いらない」
「2日も会社に行けないからってフテ腐れて食わねぇとか、よくねぇよ。大好きな仕事を万全なコンディションで続けていくにも身体が資本だろ?」
ワーカホリックは数秒黙ったあと、心底どうでもよさげな顔と声で、任せる、と短く呟いた。十中八九、反論するのが面倒だっただけに決まってる。
「飲むモンは? 何にすんの?」
「同じでいい」
吉見は答えて、指先でゆっくりとグラスの縁を辿り始めた。
相変わらず綺麗な指だ、と思った。
女みたいに繊細な柔らかさは決してない。が、関節の太さや配置のバランスも、丁寧に切り揃えられた爪も、箸やグラスを持つときの五指の形状も、まるで何もかもが計算され尽くしたような造形美だ。
「オーダーしねぇのか」
放り投げるような声がして我に返った。
矢嶋が動かないからだろう、吉見が手を伸ばして呼び出しボタンを押していた。
「──何だ?」
眉間に不可解を刻んだ目が対岸から飛んでくる。
どうやら、知らずニヤついていたようだ。
「いや。ボタンならデカい声を出す必要がないから、無気力モードのワーカホリックでも店員を呼び出せて便利だなって思っただけ」
前回の焼き鳥屋で代わりに店員を呼んでやったことなんて、この男は憶えちゃいないだろうけど。
良かったな、と投げかけた矢嶋の笑顔は、見事なまでにスルーされた。
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