承-2

「何て言ったんだ?」

 車内に入ってから尋ねると、吉見が気怠い目で見返してきた。

「さっき、何か言っただろ?」

「あぁ……」

 声とも息ともつかない相槌が漏れたところで発車メロディがけたたましく鳴り響き、続きを聞くことができたのは電車がホームを離れてからだった。

「その前に、あんたが何か言ったよな」

「え? あぁ、だから──まっすぐ帰るのかって訊いたんだけど、俺は」

「あ、そう……それが聞こえなかったから訊き返しただけだ」

「なんだ。で?」

 問いかけには、眉間に皺を刻んだ怪訝なツラが返った。喋るのが面倒だからって、いちいち目線で訊き返しやがる。

 矢嶋は仕方なく繰り返した。

「まっすぐ帰んの?」

「帰る」

「用事ないなら飲んでかねぇ?」

「行かねぇ」

 答えの前に一瞬の躊躇があったように感じたのは気のせいだろうか。

 目の前に立つ野郎の斜めに逸れた横顔を、矢嶋はしばし無言で眺めた。

 ラッシュの時間帯を過ぎているせいか、車内はさほど混んではいない。どこからともなく聴こえてくる、リーマン同士らしき低い会話が数組。年寄りの咳払い。それ以外にはこれといって話し声もない中、電車の走行音に紛れるように吉見の重たい滑舌が零れた。

「あんた、もう飲んでんだろ」

「足りねぇんだよ、途中で抜けて来たから」

「抜けてきたって、用事があるからじゃねぇのか」

「いや、ちょっと……その、つまんない飲み会でさ」

 胸の裡で手を合わせて、さっきまで一緒だった彼女に方便を謝罪した。

 女と過ごす時間特有の甘ったるい退屈さはあっても、それは決して「つまらない」と同義じゃない。が、ここでそんな事実を明かす必要はないし、ましてや「あんたを見かけたから抜けて来た」なんて馬鹿正直に白状して引かれても困る。

「で、まぁとにかく半端だったから、あんたが付き合ってくれんならどっかで飲み直してぇなぁとか」

「ひとりで行けよ」

「どうせ清瀬に帰ったって、1人で膝抱えて悶々としてるだけなんだろ?」

「膝なんか抱えない」

「比喩じゃねぇか。なぁ? 金曜なんだから、明後日の夜まではどっぷりローテンションだよな? だったら、ちょっとでも気が紛れたほうがあんただっていいだろ?」

「──」

 答えない不景気面が仕事から離れた気鬱のせいなのか、それとも迷いのためなのかは判断がつかない。

「聞こえてる?」

「聞こえてる」

「なぁおい、勤務時間外は頭の回転まで鈍るのか? 自分で決められねぇんだったら連れてくぞ」

「あんた、なんでそんなに……」

 眉間に微かな皺を刻んで言いかけた吉見の顔が、ふと疑問の色を孕んだ。

「──清瀬って、なんで知ってんだ?」

「何言ってんだ、こないだ飲んだとき自分で言ったよな?」

 数秒の沈黙のあとに、憶えてねぇ……という呟き。

「憶えてなくても言ったから。そんで清瀬行きのバスをググって、走れば間に合いそうだったのにさっさと諦めたよな?」

 そんであんた、ホテルに泊まるって言い出したんじゃねぇか? ──喉までせり上がった問いかけを寸前で呑み込む。ここで余計なことを言って逃げられては元も子もない。

 吉見は溜め息を吐いただけでそれきり口を閉ざした。もはや喋るのも億劫ってところだろうか。

 何にせよ、この場で下手にゴリ押するのは得策じゃない。そう思ったから余計な言葉を重ねることはせず、同じ乗り換え駅で電車を降りるまで互いに無言の時間を過ごした。



 そんな慎ましい戦略が功を奏したのかどうかは知らないが、改札を抜けてコンコースに踏み出した吉見の腕を引いて再び飲みに誘うと、野郎は気乗りしない溜め息とともに足を止めた。

 ひどく面倒くさげな表情ではあるものの、掴んだ腕を振り解くでもなく、電車の中でそうしたように「行かない」と一蹴するでもない。つまり少なくとも、拒んではいないという事実には違いなかった。

 だから気が変わらないうちに半ば強引に駅から連れ出し、手近なチェーン居酒屋の半個室で生を2つオーダーしかけたら、吉見が意に介する風もなく声を被せてきた。

「黒霧島をロックで」

 これから自殺しようってヤツが今生最後の酒を所望するかのような暗い声を、店員はどう思っただろうか。ひょっとしたら、悩めるリーマンと相談に乗る同僚──なんて構図にでも見えたかもしれない。

「じゃあ生とクロキリのロック、あと……」

 訂正しながら正面の男にメニューを向ける。

「なぁ、なんか食いたいものは?」

「別にない」

 予想通りの返事が返ってきたから、とりあえず早出しの品を適当に注文した。

 女子大生のバイトらしき店員が去ると、吉見はこれ以上あり得ないほど重苦しい溜め息を吐いて緩慢な仕種で頬杖を突いた。

「興味本位で訊くけど、その溜め息は1週間の疲れを吐き出してるわけじゃないよな?」

「──」

 仕事から引き離された哀れなワーカホリックは、手のひらに頬を預けたまま目だけを動かして寄越した。

 が──その気怠い上目遣いとぶつかった瞬間、腹の底の何かが微かに、しかし確かに刺激されるのを矢嶋は感じた。

 眼差しの鈍重さと鋭利な切れ長、相反する要素が醸し出す独特の風情。双眸の間から真っ直ぐ伸びる鼻筋の下に端然と佇む形の良い唇。几帳面に成形されたパーツ全てがシャープな輪郭に内包され、極めてバランス良く配置された造作。

 こんなにまともに顔を眺めるのは案外初めてかもしれないな、と、ふと思った。

 前回、焼き鳥屋のカウンターではほぼ横顔だったし、ホテルではあらゆるアングルから見たはずなのに不思議と記憶が薄い。

 蘇ってくるのはひたすら、苦痛と快感に歪んだ艶めかしい表情。反らした首筋と喉仏の陰影。濡れた睫毛の隙間に覗く、昼メシ時の姿からは想像もつかない瞳の熱っぽさ。

 殺しきれない喘ぎに解けた唇は、取り澄ましたアウトラインの内側に隠した淫靡な粘膜で、まるで性行為そのものみたいなキスを──

「何見てんだ?」

 無意識にガン見してたらしい。

 ハッと我に返ると、つい今しがた矢嶋の脳内で乱れていた当人が眉間の辺りに不審を掃いて胡散臭げに矢嶋を見ていた。

「いや……」

 ベッドの中のあんたを思い出してた──なんて言えるわけない。

 ごまかすように言葉を濁して灰皿を引き寄せたとき、

「お待たせしましたぁ!」

 威勢のいい声とともに、ジョッキやグラスをぎっしり載せたトレイを掲げてタイミングよく店員が登場した。

 こちらも学生バイトと思しき兄さんは、暗褐色のテーブルの上で手早く注文の品をサーヴすると、泳ぐように他の卓へと移動していった。

 矢嶋はジョッキを取り上げ、黒霧島のグラスに軽く尻を当てた。

「1週間お疲れ、やっと週末だな」

 にこやかに投げた声に、テーブルの対岸でヤサグレていた男がグラスに指先を絡めながら恨みがましく目を眇めた。

「嫌味か……?」

「いや、別に?」

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