承
承-1
「このあと、どうしよっかぁ」
ヴァイツェングラスのくびれた腰を手に、正面に座る彼女は可愛らしく首を傾げてみせた。
金曜の夜、勤務先のビルの2階に位置するビアダイニングはなかなかの盛況で、予約していたにも関わらず案内された席は雰囲気のあるテラスはおろか、窓際ですらなかった。
とはいえ、厳密に言えばここも窓際と言えなくはない。彼女の背後は一面ガラス張りの腰高窓となっていて、その向こうには1階とオフィスフロアのロビー階である3階を直結する、長いエスカレータが斜めに横切っている。おかげでさっきから、ソイツで行き来する──この時間は圧倒的に下りが多い──リーマンたちの顔を逐一チェックすることができた。
疲れ顔で首を回してるオッサン、スマホを見たまま微動だにしない若いヤツ、これから飲みに行くに違いない男女のグループ。バリエーション豊かな光景から、矢嶋は向かいの席に目を戻した。
「どっか移動する?」
「そうねぇ……ここはあんまり長居するとこじゃないよね」
ざわめく店内を見回して肩を竦める彼女とは、何度か寝たことがある程度の仲だった。
どうやらこの店に来てみたかったらしく、そういえば矢嶋くんの会社がここだった気がしたんだよねぇ、と数ヶ月ぶりに連絡が来たのがつい先日。
最近何かと忙しくて、どの女とも会っていなかった。疲れてるせいなのか、ここのところ自分から誰かを誘おうという気も起きなかったから、向こうから声がかかったのは有り難かった。
矢嶋は、特別自分が遊んでるほうだとも思わないが、真面目に誰かひとりと向き合うような付き合いには向かないタイプだと思っていた。というより、知っていた。
気が合って、好きだと感じて胸の裡を占めるようになり、なのに付き合い出した瞬間からそんな気持ちも右肩下がりの一途を辿って、もってもせいぜい2、3ヶ月。
毎回同じパターンだと20代のうちに悟って以来、ここ数年は特定の彼女というものを作らずにきた。別れというのはいつも面倒で、だったらそんな局面を迎えなくても済むようにしておくほうが得策だからだ。
運命の相手に巡り会うまで同じ愚を繰り返す辛抱強さみたいなものは、残念ながら自分は持ち合わせてないらしい。が、そんな己でも知らないよりは、自覚があるほうがまだマシな気がする。
「この近くで、いいお店ある?」
尋ねる彼女の指先の、綺麗に飾られたネイル。華やかに彩られた唇。それらを見るともなく眺めながら矢嶋は思案した。
どうせ移動するなら自宅に呼ぶか。途中でワインでも仕入れて帰って宅飲みするのもいいし、酔っ払えばベッドはすぐそこって点も便利だ。
「じゃあ、これ飲んだらウチに……」
グラスを手に取りながら言いかけた矢嶋の目は、しかしその瞬間彼女を飛び越え、エスカレータで下って行くガラス越しの横顔に釘付けになった。
あの死に神に取り憑かれたようなツラは他でもない──赤いライバル会社のワーカホリックだ。
「……!!」
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が床に擦れて派手な音を立て、彼女だけじゃなく周辺の客も驚いたように矢嶋を見上げた。
「矢嶋くん?」
「あ、悪い──ホントごめん、ちょっと大事な仕事忘れてて」
「え? 大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない、戻んないとマズイ。今度埋め合わせするから、今日はこれでお開きにさせてもらえる?」
顔の前で手を合わせると、彼女は天井を仰いで首を振った。
「えぇ? 信じらんない、もう! 時間かかるの? 私、待ってられないくらい?」
「多分。ホントにゴメン!」
もしもオーダーしたいものがあれば、あるいは河岸を変えて飲み直すなら、と多めに札を置いて、テーブル下の手荷物収納ボックスから鞄を抜き取るのももどかしく店を飛び出した。
あれ以来、一度も見かけてなかった。
たまたまなのか、それとも矢嶋と顔を合わせるのを避けてるのか。
以前と違い、意識して探してるにも関わらずひと月以上も出くわさないっていうのは、やっぱり後者なのか。
この階にエスカレータはなく、エレベータがやってくるのを待っていられず非常階段を駆け下りる。エントランスから地下鉄の駅へと直結するエスカレータも急ぎ足で下り切ったとき、改札の手前に無気力感を撒き散らす見憶えのある背中を発見した。
「吉見!」
名前は自然と口から出た。思い出す努力なんかなくとも、あれから何度も眺めた名刺の文字列は脳内に貼りついていた。
振り返った不景気面に怪訝な色が浮かび、走って近づく矢嶋を認めて足が止まった。
「あぁ──」
憶えのある、重苦しい眼差しと声。
形のいい唇が続けて何かを言いかけ、一度閉じてからまた開いた。
「あんた……なんて名前だっけ」
「言ったよな? あのとき」
「聞いたかもしんねぇけど、仕事が絡まない相手の名前なんかいちいち憶えらんねぇ」
そりゃ、確かにこちらは名刺も渡してないし、コイツが命くらい大事らしい仕事で絡まない以上しょうがないのかもしれない──ただ。
そう割り切って言えるのは、寝てなければの話だった。
あの夜、この男を抱いた記憶は幻なんかじゃないはずだ。矢嶋の下で、身体の奥まで侵されながらノドを曝し、気迫のこもった目で指を噛んで声を殺し、爪先でシーツを掻き、時折艶すら混じる息を乱して喘いだ。
それでもなお、その程度か?
こっちは毎日のように昼メシ時の地下フロアに不景気面を探し、繰り返し名刺を眺めては記載の番号にかけてやろうかと思い続けてたってのに?
実際、何度か指がその数字を押しかけた。そのたびにやめて仕舞い込む名刺の収納場所は、いつしか名刺入れではなく手帳型スマホケースのカードポケットになっていた。
電車到着のアナウンスが、吹き上げる風に乗って微かに聞こえてくる。改札を抜け、工事中で狭くなってる階段を下りながら、矢嶋は先に行く男の旋毛を眺めた。
「なぁ、まっすぐ帰るのか?」
後ろからかけた声は、ホームに電車が滑り込んで来る轟音に掻き消された。階段を下りきった吉見がチラリと振り返り、何か言ったがやっぱり聞こえない。
列車風に煽られて落ちた髪を鬱陶しげに搔き上げる、その指の形に気を取られている間に、ホームドアと車輌のドアがスライドした。
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