起-10#

 室内同様に仄暗く静まりかえった廊下は、いまだ夜の匂いを引きずってるようで時間の感覚を失わせる。が、エントランスから一歩外に踏み出した途端、突如として1日の始まりを感じさせる空気に曝されて、しばし狐につままれたような感覚に見舞われた。

 前後してホテルから現れたリーマン2人を見て、OL風女子が振り返りつつ通りすぎて行く。矢嶋は足を速め、前を行く吉見の横に並んだ。

「敢えて訊くけど、身体は大丈夫か?」

「細かく言えばいろいろあるけど結論としては問題ない」

「あぁそう、ならいいけど」

 数秒の沈黙のあと、矢嶋はまた質問した。

「で、どうだった?」

「何が」

「セックス」

「──」

「仕事とどっちが気持ち良かったよ?」

 答えはなく、忌々しげな一瞥だけが返ってきた。

 でもつまりその反応は、少なくとも仕事未満ではなかったってことじゃないのか? 思ったが、確認はしないまま駅に辿り着いた。

 通勤客でごった返す構内を縫って改札を抜け、乗客の波に紛れてホームに降りる。尾を引く警笛と轟音を伴って電車が滑り込んできて、どう見たって不可能としか思えない乗車待ちの人数が、排水溝に流れる汚泥のように開いたドアの中へと一斉に吸い込まれていく。

 息詰まるような密度に揉まれて否応なくプレスされ、気づいたときには目の前に吉見が立っていて、矢嶋は一瞬デジャヴに見舞われた。

 ついさっきホテルのドア際で交わした、沈黙の応酬。あの距離と同じ近さで──否、更に至近距離に形の良い唇を見つけた途端、そこに触れなかったことを唐突に後悔した。

 もう一度塞いで舌を奥まで突っ込みたい。嫌というほど絡めて余すところなく舐め回し、仕事モードに切り替わった目を弛緩させて潤ませたい。そんな抑えがたい衝動に駆られて唇から逸らした視線が、思いがけず吉見とぶつかった。

 その瞬間、何を考えていたのか知られた気がすると同時に、吉見も同じことを考えたんじゃないかと感じたのは、果たして欲求がもたらした錯覚なんだろうか。

 いずれにしても速やかに逸れていった目はもう戻らず、モヤモヤと燻る肚の裡を抱えて吉見と密着したまま、目的地までの時間を遣り過ごした。

 その間、鼻先を擽るシャンプーの匂いに昨夜の行為が幾度も蘇り、その都度、腰の後ろに手を回してみようかなんて埒もなく考えた。が結局、実行することもなく会社のビル直結の駅に到着して、2人は大量のリーマンとともに電車から吐き出された。

 混雑に押し流されて一旦見失い、階段の手前でかろうじて捕まえたワーカホリックは、改札を出る頃にはもう完全に別人となっていた。まるでシェイプシフターみたいに中身が摺り替わっていた、と言ってもいい。

 昼どきのヤサグレっぷりが嘘のようにピンと伸びた背筋。一週間の疲れを溜め込んだオッサンたちの間を縫って、颯爽とエスカレータに向かう軽快な足取りは、既に矢嶋の存在を忘れかけてるとしか思えない。

 このまま黙って見送るべきか、それとも最後にひとこと声をかけるべきかと矢嶋が迷ったとき、やたらテンションの高い声が後ろから飛んできた。

「吉見さん、おはようございます!」

 振り返ると、見憶えのある若いリーマンが足早に近づいてきた。メシ時に一緒にいる例の部下だ。ホモ疑惑が囁かれるほどベッタリだという、確か名前は──

「あぁ岡田、おはよう」

 驚くほど真っ当な挨拶を吉見が返し、満面の笑顔の岡田某が再会した飼い主にじゃれつく大型犬みたいな風情で、勢い込んで上司に並んだ。

 身長差は矢嶋と吉見のそれに近いだろうか。確かに、あの懐きっぷりであんなに寄り添っていれば、いくら彼女がいようとホモ疑惑が浮上してしまうのも頷ける。

 納得すると同時に鳩尾のあたりを掠めた苦い何かに、矢嶋は一瞬狼狽えた。

 触れそうなほど近い2人の隙間を引き剥がしたい、そんな思いが走ったのはどういうわけなのか。

「例の件ですけど、俺昨日、吉見さんが帰ったあとに……」

 言いかけて手のひらで遮られた岡田が、そこでようやく見慣れない存在に気づいたようだ。そばに立つ矢嶋を認めて戸惑い気味に会釈してから、吉見に目を戻して控えめな口調で尋ねた。

「どなたですか?」

「緑のヤツ」

「え──」

 言葉に詰まった部下を吉見は気にする風もなく、行くぞ、と促して背を向けた。

 吉見が言った緑というのは、矢嶋が所属する企業のコーポレートカラーだった。もちろんロゴのメインカラーでもあるし、IDカードホルダのストラップも然り。

 対して向こうのそれは赤で、ライバル会社の彼らは互いを色で表現し合う。

 岡田のほうは立ち去る前に一瞥を寄越したが、一夜を共にした男は振り向くこともなく、赤いヤツら専用のゲートを目指して歩いて行った。

 その後ろ姿に、ふとクロゼットの前に立つ全裸が重なった。

 抱いた腰の細さが手のひらに蘇る。押し入った身体の中の、外観にそぐわない熱っぽさ。幻聴のように耳を掠める息遣い。噛み締めた唇をこじ開けると、狂おしいほど激しく舌を絡めて、もどかしげな手つきで背中に縋りついてきた。

 肩胛骨を圧迫する指の力をリアルに感じながら、電車の中で湧き上がった正体不明の未練を、矢嶋は再び胸の裡に繰り返した。

 やっぱり、あのドアを開ける前にキスしておくべきだった──と。

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