起-9
完全に遮蔽された窓のせいで朝も夜もない部屋の中、スマホのアラームで目覚めた矢嶋は一瞬、自分がどこにいるのかがわからなくて戸惑った。
ただ、自宅以外の場所で朝を迎えるというのは特段珍しいことでもない。おかげですぐにそうだと思い至って記憶を探り、しかし蘇った経緯の真偽をさすがに疑ったとき、折しもバスルームから出てきた野郎の姿に数秒絶句した。
いくら寸前に思い出したとはいえ、昼メシ時に見かける不景気面が腰タオル1枚で目の前に現れたとくれば、寝起きの光景としてはちょっと、いやかなり強烈すぎる。
それにしても──衝撃を喰らった頭の隅で矢嶋はぼんやり思った。
そのツラが昼や夜より随分マシに見えるのは、これから大好きな仕事が始まるっていう出勤直前だからなんだろうか?
「やっと起きたのか」
「だってあんた……寝たの何時だったよ?」
「知らねぇし、誰のせいだ?」
批難の色が滲む声も同じく、やっぱり昨夜と比べ──アドレナリン全開の行為の最中は別として──遥かにマシだった。レスポンスも不自然じゃないし、滑舌だって多少カッたるくはあるものの、まぁ普通の範疇と言える。
「しかもお前、中に出しやがるとか信じらんねぇ」
「俺はゴム取ろうとしたのに、あんたが離さなかったんだろ?」
「誰が……」
反論しかけた吉見は、沈黙してクロゼットの前でくるりと背を向けた。
「タイミングが悪かったんだ」
吐き捨ててタオルを剥ぎ取り、下着を穿く。昨夜も同じ場所で臆面もなく服を脱ぎ去ってバスルームに消えた男は、それでもあのとき、ソイツだけは穿いていた。
今だって風呂からパンイチで出てくることができたはずだ。なのにそうしなかったのは、矢嶋が寝ていたから油断しただけなのか、それともケツの中まで知られたってのに今さら何を隠すものがある? とでもいう無意識の気安さなのか。
深夜確かに腕に抱いた、背中から尻にかけての端然とした佇まいを眺め、その奥に潜む粘膜の熱さと狭さを反芻した矢嶋は、訪れた何かに一瞬目を伏せてから煙草の箱を引き寄せた。
「仕事中じゃなくても興奮しただろ?」
「──」
吉見はそれには答えず、シャツを羽織ってチラリと目をくれた。
「吸うのは後にしてくれねぇか、髪についた匂い落としたとこだから。俺が出てった後ならいくらでも吸えばいい」
「え、先に行くつもりか? おんなじビルに出勤すんのに?」
「同じビルに出勤するから何だってんだ?」
「一緒に行こうぜ」
「ガキじゃあるまいし」
「でも入口のアレって、精算しないと鍵開かないヤツじゃねぇか? 別々に出るためにいちいちフロントに連絡するとか面倒くさいよな?」
実際どういうシステムなのかは知らなかったが適当に言ってみると、この手のホテルに馴染みがないらしい吉見は疑いもせずに舌打ちしただけだった。
「じゃあ早く準備しろよ」
「了解」
ベッドを降りてバスルームに入った矢嶋は、シャワーを使うかどうか迷ってやめた。あんまり待たせると置いて行かれかねない。
別に1人じゃホテルを出られないわけでもないし、本当は吉見が先に行こうが行くまいが勝手だ。ただ、あの仕事中毒が職場を目の前にしてどんなふうに変貌するのか見てみたい、という気持ちはあった。
顔を洗って歯を磨いて髭を剃り、寝癖を直してバスルームを出たときには、吉見はもうほぼ準備を終えていた。鏡に向かってネクタイを整える背筋や面構えは明らかに一段と引き締まっていて、早くも漲り始めている何かが全身に纏わり付いて見える。
この男が、昼にもなれば奈落の底みたいなツラでメシ屋のテーブルに突っ伏しそうになってんだから──呆れて首を振った矢嶋は、鏡越しに目で急かされて着替えを手に取った。
それから大急ぎで身だしなみを整え、入口の精算機でバカみたいに機械的な女の声に従って割り勘で支払った。
矢嶋としてはケツに突っ込んだ立場上、自分が全額持つのが自然な気はしたが、男にホテル代を奢られるなんて冗談じゃないと吉見が頑として譲らなかった。
まぁ、その言い分はよくわかる。セックスから支払いまで何もかも女扱いじゃ、そりゃあ野郎としてのプライドが許さないのは当然だ。特にアグレッシブな仕事モードに入りつつある今なら尚更だろう。
精算が済んだ直後、解錠される音が小さく響くのを聞いて矢嶋は吉見を見た。
「ほらな?」
「何が」
「精算しねぇと鍵開かなかっただろ?」
「だったら何だ、ラブホ慣れしてる自慢か?」
素っ気なく言い捨ててドアノブに伸ばした吉見の手を、咄嗟に掴んだのは何故なのか。
怪訝そうに振り返った目線を、案外低いな、と思った。今さら認識した事実を意外なことのように感じながら、矢嶋はその身体をドアに押し付けていた。
高低差はおそらく、せいぜい4、5センチ。長さにすれば大したことはなくとも、間近で覗き込むと案外な角度になる。
「何だ?」
直線で返して寄越す眼差しは、つけ麺屋のテーブルや焼き鳥屋のカウンターで出くわした死にそうな目とは、もはやまるで別モノだった。シャープなラインの眼窩に嵌っているのは、今や凛として佇む意志の塊だ。
触れそうなほど近づいたまま、しばし無言で互いを見つめ合った。
あと少しだけ動けば簡単に唇が重なる。
なのに、深夜には身体を繋げて呆れるほど貪り合ったはずのそこは、今は硬く引き結ばれて一分の隙もない。
「──仕事に遅れる」
やがて吉見が低く言い、矢嶋の肩を押し返して今度こそドアを開けた。
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