あなたはもう還らない
仲咲香里
あなたはもう還らない
「あっ、あれ、夏の大三角! あれ? 四角だったっけ?」
展望台の柵から身を乗り出すようにして夜空を指差す私に、彼が可笑しそうに笑う。
「いや、合ってる。夏は三角形。四角は秋の空」
久しぶりに見る彼の心底楽しそうな姿に、私も嬉しくなって子どもみたいにはしゃいでしまう。
明るく賑やかな街並みは遥か向こう。車のテールランプや、信号機、ネオン、ゴルフ場の投光器やマンションの一室ごとの灯りが幾多の色を添えて、さながら本物の夜空を映した星々のように見える。
夏の一夜。
街から車で一時間半の山の上にあるこの展望台は本当に小さくて、今、私たち以外には誰もいない。
私と彼が付き合い始めて間もなく、彼が教えてくれた秘密の場所。
「えっとー、それで、夏の大三角ってベガと……あと、何だったっけ?」
上目遣いで見上げる私の柵に置かれた手を取って、彼が一緒に夜空に掲げる。
「こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル。ちなみに、ベガが織姫でアルタイルが彦星。覚えた?」
二人で三角を形作った後、彼が優しい顔で私に微笑む。
「ううん。覚えてない……」
だって私が見てたのはあなただから。
大好きなあなたの横顔。
私の答えに、諦めたように笑う彼と視線が絡む。そうなったら私はもう逃げられない。
「好き」
「
流れ星と共に彼がくれた幸福は、急速に私の全身を駆け巡り涙となって溢れ出る。
答えは言葉にしなくても分かるでしょう?
あなたが塞いだ、唇の熱で。
あなたが好きって言ってたフレンチトースト、こっそり週末に特訓してるから、いつか美味しいねって言って欲しい。
栄養バランスも考えてちゃんとサラダとスープも付けるから。
あなたはやっぱり、コーヒーが好きかな。
いつか、そんな毎日が当たり前になるってあなたがくれた言葉で初めて夢見たんだよ?
本当に、こんな幸せがずっと続くって、そう思ってたのよ?
それなのに————。
今、変わり果てたあなたの姿を前に、私は一体何を思えばいい?
涙も出て来ない。どうしてこうなったの?
聞きたいことは沢山あるのに。
私はあなたに、別れの言葉を言うことしかできない。
****
「紗良ーっ、今日も部屋行っていい?」
大学のラウンジで友人の恋愛相談に乗っていた私の所に、いつものように
慧とは学部も違うしそれなりにキャンパスだって広いのに、どうして私の居場所が分かるんだろう。付き合いの長い慧の勘が鋭いのか、それとも私の行動がワンパターンなのか。
……後者でないといいけど。
「またぁ? どうせご飯目当てなんでしょ。私、
「そんなこと言って、ホントは来て欲しいんだろ?」
「何でよ」
「だって、紗良の下っ手くそなフレンチトースト、文句言わず食べるやつ俺以外にいる? しかも夜に」
「いっ、いないけど、そんなこと言うなら食べて貰わなくて結構」
「あっ、嘘うそ! ごめん、紗良。紗良の好きなシュークリーム買ってくし」
「シュー、クリーム……?」
「あー、あと、来週一週間、大学でもどこでも車出すっ。だめ?」
「……しょうがないなー」
「やった! あー、俺、次の講義始まるわ! んじゃ、バイト終わってから行くし、また夜な」
「……ったく、慧のやつー」
走り去る慧の後ろ姿にぶつぶつと文句を言いながら睨む私を、一緒にいた友人がにやにやしながら見てくる。
「……何よ?」
「紗良、愛されてるねー。 再来年の卒業と同時に結婚? あ、学生結婚するなら早く言ってよ。ご祝儀代貯めなきゃだし」
「もーっ、やめてよ! 慧とはただのイトコ同士だってば!」
「はいはい、照れない。あっ、ていうか、私たちも行かないと。次は沖先生の講義だし、テンション上がるよね!」
「ねぇ、聞いてるっ?」
言い逃げてさっさと歩き出す友人の後を私は慌てて追う。
そりゃこの前、突然慧があんなこと言うからびっくりはしたけど……。嬉しかったのも本当で。
でも慧と結婚って……。
私の慣れない手料理を慧が「この前より美味い」って言いながら食べてくれて?
同じ番組見て、同じタイミングで笑って。
誰にも言えないような愚痴とか本音を聞いてもらって。
たまには遠くにドライブ行って夜空を見上げたり。
試験勉強しながら気付いたら朝まで二人とも寝ちゃってたり。
そんな感じ?
なんだ、今と全然変わりないじゃん。
そんなことを考えて、私は思わずくすくすと笑ってしまう。
「あっ、今、想像したでしょ?」
「し、してないよっ。絶っっ対っ、してないから!」
同い年のイトコの慧とは、家が近いこともあって小さい頃からしょっ中一緒に遊んでた。そのせいか、今では何でも分かり合える仲で、幼馴染でもあり、きょうだいでもあり、親友でもあるみたいなそんな感覚。
こうやって大学までずっと同じ学校に通ってるくらいね。
大学に入って一人暮らしすることになった時、慧とは同じマンションで部屋は別々の階を借りて住み始めた。親同士は冗談で、どうせなら一緒に住んじゃえばって言ってたけど、さすがにそれは無いでしょ。いや、その方が経済的に助かるって言ってた時の目は本気だったかもしれない。
実際、今もかなりの頻度でお互いの部屋を行き来してるから、確かに一人暮らし感はないかも。慧はバイトで遅くなる日は作るの面倒とか言って必ずうちに夜ご飯食べに来るし。
そんな時は私はお返しに、オチもない、ただ聞いて欲しいだけの話を延々してやるんだから。慧はいつもそれを、うんうんって笑いながら聞き流してるけど。
うん、きっと慧は、私にとって誰よりも一番大切な存在だ。
たぶん、慧にとっても、かな?
****
まだ、七月に入ったばかりだというのに、連日うだるような暑さが続いたその夜。激しい雷雨の中、シャベルを使い、懸命に土をすくう男がいた。
すくっては、それを穴へと放る。そうしてどの位の時間が経ったのだろう。時々閃めく稲光でも男の顔を判別するのは困難な程、辺りは暗く、木々が鬱蒼と茂っている。
「違う……。悪いのは、全部この男だ……。こいつが、こいつがいきなり飛び出してさえ来なきゃ!」
男は忌々しく叫ぶと、足元にあった小さな箱を人一人入れる程度の穴へと蹴り落とす。
中から二個の歪な球体が飛び出て、先に横たわっていた何者かの微かに動く手の上へと辿り着いた。
「やっと、やっとうまくいきそうだったのに。地位も、名誉も、子どもだって生まれて……何もかもっ」
男はあの直前、眼下で横たわる人物の顔を見た。子犬のように、くりくりとした目を持つ若い男だった。
今、その目は固く閉じられているように思う。確かめるのは怖い。
その横たわる彼の手が、転がってきた二つの物体に触れた時、ピクリと大きく反応したような気がしたが、彼自身はっきりとそう認識していたかどうか定かではない。
ただ、顔を打つ大粒の雨と、耳に轟く雷鳴が彼を現世に繋ぎ止めようとしているかのように感じていた。
何故だか身体が思うように動かせない。
辛うじて残る意識の中で彼が思い出すのは、愛する彼女の姿だけ。
——紗良。俺、紗良のこと、ずっと前から愛し……。
彼の上へ、容赦なく土が降り注ぐ。
何度も、幾重にも。雨音も、雷鳴も、人の声も完全に遮断されるまで。
それきり、彼の想いは甘いシュークリームと共に地中奥深くへと閉じ込められ、彼女の元へ届くことはなかった。
****
「紗良、大丈夫?」
「えっ? あ、うん。ごめん、何だっけ?」
気分転換にと友人に連れて来られていたカフェテラスで急に声を掛けられて、私ははっとして顔を上げた。
相当、酷い顔をしてたのかな……。友人が心配そうに私の顔を覗き込む。
「捜索願い、出してるんでしょ?」
「うん……」
シュークリームを持って行く。そう約束した夜、慧は結局、部屋へは来なかった。私の部屋だけじゃなく、大学にもどこにも。
大学が夏休みに入っても慧の消息は不明のままだった。
「もう一ヶ月か……。慧くん、何処に行っちゃったんだろうね」
友人の言葉に、私は大げさにビクリと反応する。
「あっ、ごめっ。大丈夫だよ。あの慧くんだよ? またいつもみたいに「紗良ー」って突然帰って来るって! 今日は私、紗良のとこ泊まるから。慧くんの好きなフレンチトースト、明日の朝食べさせてよ。ね?」
違う。
そうだけど、今、私は……。
「あ、そ、そういえば、知ってる? なんか沖先生も最近連絡取れないとかって噂がSNSで……」
友人の声が遠くに聞こえる。
私は来る日も来る日も、逢えなくなったあなたのことばかり考えてる。
『紗良、愛してる』
あの日、あなたがくれた言葉を思い出しながら。
逢いたい。
私を置いて、あなたは何処に行っちゃったの?
「って、紗良、泣かないでよー! ごめんってー」
それからさらに一週間程経ったある日、毎日を抜け殻のように生活していた私の元に、夜中、最悪の報せが届いた。
慧が、見つかったと。
慧のお母さんの悲痛な声が、嗚咽と共に電話越しから聞こえてきた。私はそれを、何処か他人事のように聞いていた。
その夜、私は一睡も出来ずに朝を迎えた。
震える手で、それでも実家に帰る準備をしているとスマホが振動する。ビクリとして液晶を見ると友人からだった。
昨日から思考回路の殆どが停止したままの私は、ただ機械的に応答の操作をする。
「紗良、見つかったよ! 慧くん! 今っ、テレビ! ニュース、観て!」
興奮した友人の声。
それならもう知ってるのに。
ああ、そうか。彼女にはまだ言ってなかったんだと思いつつ、私は言われるがまま一ヶ月半振りにテレビのリモコンを押した。
慧のことがニュースになってるんだ。
こんな、こんな悲しいことで……っ。
でも、そこで観たのはさらに最悪の現実だった。
「繰り返しお伝えします。
その後、実家と慧の家から何度も着信があったけれど、私はスマホの充電が切れるまで応じることはなかった。心配した両親が迎えに来るまで、自分がどうしていたのか、私にはその間の記憶がない。
あなたは今まで、何処にいたの?
答えの返らない問いが、ただ浮かんでは消えていくばかりで。
****
どこか冷んやりとした空気の漂う拘置所の面会室に、私は一人で腰掛ける。やがて、透明なアクリル板の壁を隔ててずっと待ち望んでいたあなたが入って来た。
あなたは私の顔を見るなり、アクリル板に張り付くようにして訴えかける。
「紗良、違うんだ! 悪いのは僕じゃなくて、内野がっ、あいつが突然……だからっ」
「聞いたよ……」
あなたの興奮した声とは対照的に、私はどこか冷めたように語りかける。
ううん、まさしく冷めていた。
何もかも。
「じゃあっ」
「教授に、推薦されてたってことも」
「そう、そうなんだ! 僕……」
「あなたには、奥さんもいて、三人目の子が生まれたばかりだったってことも」
「そっ、れは……。でも、僕は本気で、紗良のことをっ」
「お酒飲んで、車運転して、慧を……っ。慧ね? あなたの為に練習してたフレンチトースト、いつも嬉しそうに食べてくれてた……。あの日も私、慧のこと、あなたのことを考えながら待ってたのに……っ」
「だから、あいつが急にっ」
「飛び出してない。あなたも聞いたでしょう? 慧は、青信号の横断歩道を渡ってたって。防犯カメラに、映ってたって……っ。せめてっ、その場で救急車っ、呼んでくれてれば、慧は……っ」
例えそのまま、あなたが逃げていたとしても。
「紗良、紗良、僕は、紗良の為に……っ」
慧に秘密を打ち明けた日のことを思い出す。
『紗良、俺、ずっと紗良のこと好きだった。ただのイトコ同士なんて思ったこと一度もない。結婚してもいいとさえ思ってる』
『ごめん、慧、でも私は……』
『今すぐじゃなくていい! 紗良が良い返事くれるまで、俺はいつまでも待ってるから。ずっと待ってるから。それまでは、今までどおりただのイトコ同士でいよう』
私はそれからも慧の言葉に甘えてた。
慧といると楽しくて、何でも言い合えて、親や友だちには言えない本音も何故か慧には素直に言えた。その存在を失くすことなんて考えたこともなかった。
だから、沖とのことも、プロポーズのことも、慧にだけ打ち明けた。まさかその後に、慧からそんな告白されるとは思いもせずに。
慧は、否定も肯定もせずに私の話を聞いてくれて、ただ、ずっと待ってるとだけ伝えてくれた。本当は自分の為に作られたんじゃないフレンチトーストを、変わらず食べたいって言ってくれた。
事故のあったあの夜は、酷い雷雨の日だった。
慧は、自分を轢いて埋めた相手が沖だって知っていたんだろうか。
埋められた場所が、私と沖の秘密の場所だったってことを知っていただろうか。
だとすれば、どんなに、どんなに苦しかっただろう……っ。
今もまだ、慧は苦しんでいるのかもしれない。
もっと早く、私が慧の気持ちに気付いていたら。慧の想いに応えられていたら、こんな
私は慧の葬儀にも、お墓にさえ未だに行けていない。
だって私は慧に何て言えばいいの?
謝罪も、憐れみも、追悼さえも、私には許されない気がする。
でも、今目の前にいるあなたに言う言葉は一つしかない。
あの夏の夜とは見る影もない程にげっそりと痩せ細り、すっかり人相の変わったあなた。逃げ惑う日々は、慧の受けた苦しみの対価には到底なり得なかっただろうけれども。
せめて、今尚、自分を正当化しようとするその姿勢が、一生をかけてでも改められるといい。
「さよなら」
夜空に、秋の四辺形が煌めく季節。私はあなたに、別れの言葉しか言わない。
あなたはもう還らない 仲咲香里 @naka_saki
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