第3話
心のない、愛情の分からない人間が何を教えることができる。
そんな囁きも、毎日の雑音の中に紛れ込んでしまった。私は特に熱意も志もなく中学校の国語教諭になった。
スタートを切ってから、私はなんて道を選んでしまったのだろうと、後悔した。
何の熱意もない人間がやるには重すぎる。そして、割に合わない。
それでも私は今さら別の道を歩むこともできずに惰性で教員を続けた。この世界に本当に聖職なんて職業はあるのだろうか。
最初の1年はあっという間だった。気がつくと朝が来て夜になり、月が変わって年をまたいでいた。まだ先生なんて呼ばれるには早すぎるほど歪で未熟なのに、幼さの残る生徒たちは従順にそう呼ぶ。
麻里子と別れてからも、人を好きになることはなかった。友達なら、まだ赦せる。まだとどまっていられる。
ここから先、そこから先だけはどうしても無理だった。
人肌はいらない、体温はいらなかった。それなのにお節介な人たちは愛だの恋だのを担いでくる。私が女だから、当たり前のように男を探そうとする。
私の方もリトマス紙を探そうとした。でもある時から虚しくなって全てやめてしまった。いっそのこと死ぬまで独りきりでいると決めてしまえば、少しは楽になれた。
私が悲愴に決めつけた頃に、偶然間宮に出会った。
間宮は会社帰りで、私は学校帰りの途中だった。お互いどこかで見たことある顔だと、何秒か間を開けて声をかけた。
「マーコじゃない?」
「間宮だよね」
また何秒間か間があった。
間宮とは高校を卒業して会っていなかった。
やっぱり大人びた顔をしている。
「久しぶり」
やだな、こんな風に笑う子だっただろうか。
「うん、久しぶり」
私はどんな顔をしていいのか分からずに、渇いた声を出した。
「マーコは今何してるの?私は普通の会社員してる」
「私は中学校の先生。おかしいでしょ」
間宮は私の言葉に目を細めた。暗いところのない表情だった。
「ううん、真面目なマーコらしいじゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
間宮は勝手に納得して笑った。
私はふと思い立って自分から聞いてみた。また間宮と会うことなんて、もしかするとないかもしれない。私は鍵崎の存在していた頃の人間たちの中にはもう行きたくなかった。
「間宮は今付き合ってる人とかいるの?」
「わあ、珍しいね。マーコの方からそんな話振ってくるなんて。昔は避けてたくせに」
「え、そうだったかな」
私はわざととぼける。間宮はそれにはあまり表情を動かさずに、からりと言い放つ。
「大学生2年の時から付き合ってる人がいるの。もしかすると結婚しちゃうかも」
「へぇ、よかったね」
私はそこで目を逸らした。
寂しいとか、哀しいとか、思うことはなかった。
ただ何も感じていないはずなのに、忘れて来たはずの心が痛むような気がした。
「それで、マーコの方はどうなの?」
私は間宮の方は見ずに言った。
「私ね、恋愛感情がないみたいなの。無性愛っていうのか…とにかく駄目なの」
「…どういうこと?」
間宮はいきなり外国語でまくし立てられた人が見せるのと同じような戸惑いを浮かべた。
「友達とかなら、大丈夫みたいなんだけど、男でも女でもそれ以上になると無理なの。私、恋愛感情がないの。好きって気持ちを相手に持てないの」
初めて嘘偽りなく私を晒した。
どうしてこんなことを言おうと思ったのかは分からない。
間宮はしばらく黙り込んでから、口を開いた。
「マーコにとって、それが自然ならそのままでいいんじゃないの」
「え?」
間宮は一つずつ言葉を選んでいるようだった。
「一目見た時に、こんな風に笑う人だったっけって、思ったの。マーコ、仮面かぶってるみたいよ。でも、なんとなくわかった。誰だって、他の誰かを好きになって当たり前って中で生きていくんだもの。それが自然じゃなかったら…人は本気では笑えなくなるわ」
私は間宮の声が斬り込んでくるのを感じた。
「どうして気づけなかったのかな、私」
間宮は自分の中の時計の針を巻き戻しているみたいだった。
この人は優しい。
こういう人だったら、私は少しは愛を持てるのだろうか。
あ、リトマス紙。
何かが囁く。
私は静かに考えた。
生身の人間を、リトマス紙にしてしまう。忘れて来た心を探すためのつるはしにしてしまう。
私は鍵崎や麻里子の顔を思い浮かべた。
「私には心がないみたい」
「そんなことないよ」
間宮がためらいがちに微笑む。
「…ねぇマーコ、連絡先交換しない?」
間宮と目が合う。
あぁ、この子は愛されてるんだろうなと私は思った。
「…うん」
私は連絡先を教えて、間宮と別れた。間宮はまだ何か言いたそうに、何度か唇を開きかけていた。それでも何かを飲み込んで我慢したようだった。
また会えるだろうから、話せるだろうからと思ったのかもしれない。
私はあるはずのない連絡先を教えた。間宮とはもう多分会えなかった。会わない方がいい。
私は心を忘れて来たようだった。
過去に出会った2枚のリトマス紙は染まらなかった。当たり前だ、生身の人間なのだから。
自分のことが憎かった。
鍵崎と麻里子の瞳がよみがえる。
私を知る人とは、もう会わないことを誓った。
これからは私のことを知っている人は誰もいない。この孤独は罰だった。
私は誰の隣にも行かず、誰かが隣に来ることも許さなかった。
私を愛さないで。
私も愛さないから、愛せないから。
疲れた日には、頭に薄い紙片が思い浮かぶ。色が浮かぶ、色に染まる。
薄い薄い、リトマス紙だった。
私を愛さないで 三津凛 @mitsurin12
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