第2話

見知った顔とまた付き合うのが煩わしくて、大学は無駄に県外の私大を受けた。仲の良かった間宮が意外なほどあっさりとそれを受け入れたのが、少しだけ寂しかった。

まだ自分の将来なんて分からない。たかだか18歳の子供なんだか大人なんだか分からないような人間に、この先何十年も縛りつけられるかもしれない職業を選べといったところで無理だ。

私は大学に入っても、心を忘れたままなようだった。それでも多少は働く頭があるのだろうか、特に熱意もないけれど何かのつっかえ棒のために教職課程だけは落とさず取ることに決めた。

それでもたまに何かが私に囁く。

鍵崎の怒りで黒く膨れた顔がよみがえってくる。

愛が分からない。


誰のことも好きになれないお前に、何を教えることができる。



大学生になってもあまり人の頭の中身は変わらないようで、男と女がいれば誰がくっつくくっつかないと煩かった。

私はあまり熱意の持てない教員になるための講義をセコく受けていた。なんとなく、同じような日常の繰り返しで薄皮が剥がれ落ちていくように何かが削り取られていくような気がした。

それはもしかすると人間らしさかもしれない、と気がついてから私はそれまで皆勤だった講義をサボるようになった。

特に何をするわけでもない。1日寝ていることもあれば、大学には行くものの目当ての講義だけ歯抜けのようにして受けて帰ることもあった。そんな時は図書館の隅に隠れて、できるだけ誰も手に取らないような変な本ばかりぱらぱらとめくった

どれもこれも、つまらない。

味気ない、食パンみたいだな。

「でも、一番つまんないのは私よね」

静かな図書館に意外なほど声が響いて、重い書棚の向こうから顔が不意に動いた。

「あれ、講義受けないの?」

私は一瞬相手が誰なのか分からなかった。

「あ、馴れ馴れしくしてごめんなさい。教職で一緒だったから、つい」

声と表情で次第に記憶の糸が解されていった。

「…転部してきた子よね?ごめん、名前覚えてなかった」

後期から、転部してきた女の子がいることを聞いた覚えがあった。

「うん、いいの。人数多いもんね…麻里子っていうの。松本麻里子」

「そう…」

「何してたの?調べもの?…本当は講義受けてなきゃでしょう?」

それはあなたもでしょ、と心の中で思ってから私は素直に答える。

「別に何も、ただサボってるだけ」

「その割に分厚い本読んでるのね」

「めくってるだけ。活字が身体をすり抜けていくのって、窓を開けて空気を入れ替えるみたいで心地いいの」

「ふふ、素敵なこと言うのね。変わってるって言われない?」

「さぁ」

私はふと手元の本に目を落とした。人類が最も手に取った本。

「Bibleって、聖書のことでしょ?クリスチャンなの?」

「まさか、ただの暇つぶし」

私は目を落とす。

人はパンのみで生きるのではない。

同じように、浮かれるような愛のみで生きるのではないと言ってくれたら少しは楽になるのだろうか。

私は麻里子と目を合わせた。

「どうして、転部してきたの?」

「…やっぱり先生になりたかったから」

「へぇ」

それなのに、サボるのかと思わず思って麻里子を見ると、見透かしたように笑う。

「志しだけは真面目なの。言行の不一致ってやつ」

私は思わず笑った。

「麻里子のほうがよっぽど変だわ。でも、基本的に真面目なのはよく分かる」

するりと名前が舌から転げ落ちてくる。今まで口にしてきたどの名前よりも軽くて馴染みやすい感触だった。


あ、薄いリトマス紙。


私は別の私が呟くのを聞いた。

私は心を忘れて来たのだろうか。それともまだ眠りこけているだけなのだろうか。

目の前の麻里子はいつの間にか私の隣で、珍しそうに聖書の薄いページをめくっていた。



もしも神が人間を造ったのだとしたら、随分捻くれた風に造ってくれたと思う。

麻里子と私は最初は友達として、ごく自然な距離感を保っていた。講義を一緒に受け、そのままご飯を一緒に食べた。打ち解けてくると、麻里子はごく軽い調子でバイセクシュアルであることを私に告げた。

「その人自身を好きになるから、性別ってあくまで付属品なの。変だと思う?」

「…さぁ、分からない」

愛を全く感じられない私のような人間もいれば、性別も何も関係なくそれを惜しみなく注げる人間も同じ世界に存在している。

「私ね、昔からあんまりこだわりがないの」

それは良い意味で、と麻里子はつけ加える。

私はどこかでこだわり過ぎているのだろうか。

「ねぇ、男の子と付き合ったことはある?」

真正面から聞かれて、私は少しだけ考える。何の感情も動かされなかったけれど、あれも一応付き合ったことになるのだろうか。

「…うん、まあね」

「ふうん、同性とは?」

あぁ、この外堀を埋めてくる感じ。

「高校生の時とか…思春期にはよくあるじゃない?同性に憧れたり、好きになったりとか…」

「そういうのは、なかったかな」

麻里子は少しがっかりしたような目つきをした。

その分かりやすさがおかしくて、私はつけ加えた。

「でも、別に性別は気にしない」

だって、誰のことも好きにならない、なれない方が病んでるように思えるもの。

麻里子には言わず、私は私に向かって静かに思った。

誰かを好きになる感情が、分からない。それを真正面から受け止めることができるほど、まだ私の奥は強くない。

誰もかれもが、人を好きになって当たり前な、平気な顔をしている。私だけが、心を忘れて来たみたいだ。病人みたいだ。欠落しているみたいだ。

「…ねぇ、もしも私がマーコのこと、好きだって言ったらどうする?」

私は薄いリトマス紙を思い浮かべた。今度こそ色はちゃんと浮かんで来るのだろうか。

「付き合いたいなら、それでいいよ」

麻里子はちょっと納得できないような顔をした。けれど何かを飲み込んだような笑顔をすぐにつくった。

それはなぜか無性に寂しげで、黄昏時に1人で家路につく子供の暗い瞳を思わせた。



麻里子に鍵崎のような性急さはなかった。一応恋人同士ということだけれど、女友達のそれと過ごす時間はあまり変わらなかった。

それでも、やっぱりその時はやって来た。

麻里子は少しずつ、外堀を埋めようとしてきた。さりげなく肩に乗せられる頭や、できるだけ熱っぽさを排した手の繋ぎ。私はそのどれもを避けた。

どうしても、「ここから先」は無理だった。人肌と、その体温が私を拒ませた。

かつての鍵崎のような荒っぽさはないものの、麻里子は有無を言わさず私をきつく抱きしめた。そのまま首筋に吸い付かれて、私は鳥肌が立った。

麻里子が女だからではないことに気がつく。唇の潤いと、舌先の熱さから逃れられない愛情がとぐろを巻いているのが分かる。

この人は私を愛している。

あぁ、だから無理なんだ。

私は麻里子を力いっぱい押しやった。麻里子は傷ついた顔を隠そうともせずに言った。

「私のこと、好きじゃないの?」

あぁ、どうして駄目なんだろう。

リトマス紙は染まらない。

心はどこかに忘れて来てしまったようだ。

「…麻里子と同じ意味では、好きじゃない、好きになれない。どうしても」

そこから先、ここから先にはいけそうにない。

麻里子はずっと低く喘ぎながら泣き続けた。それが私と麻里子が一緒にいた最後の時だった。

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