私を愛さないで

三津凛

第1話

私は心を忘れて来たのかもしれない。

間宮に貸してもらった文庫本の最後の1ページを閉じる。こうして呆気なく世界の扉は閉まるんだ、と柄にもなく感傷的になってみようとする。

漫画化された後は映画化もされるというその文庫本は、私とそう歳も変わらない高校生の男女が回りくどい恋をするものだった。

「ねぇ、どうだった?」

私が読み終わったことを間宮に言いながら文庫本を返すと、期待に膨らんだ頰を向けられる。

この子には暗いものがない。

私は少しだけ考えて正直に言った。

「すっごくつまらなかった」

「えー、どうして?」

間宮は全く堪えていないようだった。私はこの子のこういうところが好きだ。仲が良くなるほど、距離の近くなるほど相手をぞんざいに扱う人種がいる。私たちはそんな人種だった。

「一文一文が長ったらしくて、自意識過剰でうざったい。この男の子の主人公って、もろ作者の自己投影が入ってるみたいでうっとうしいんだよ」

「そうかなぁ?…でも図書館とかでお互いの本を読み合いっこするとこなんて素敵じゃなかった?」

「別に、それも自分の読書量を誇りたいだけみたいで…あんまり」

「厳しいなぁ」

間宮はちょっと困ったように笑う。私はあんまり正直に言いすぎたことを後悔した。誰だって、自分の好きなものを目の前で面罵されれば良い気はしない。そんな当たり前のことに鈍くなっている自分が怖くなった。

「…合う合わないはあるからね。でも、私も一つだけ拍子抜けしたところはあるの」

「どこ?」

私は顔をあげる。

間宮は文庫本を手に持って、誰かの背を撫でるように表紙を撫でた。

「主人公、肝臓病だったのに結局肝臓病では死ななかったじゃない?最期通り魔に刺されて死んじゃうの?って…ふふふ、そこはどう思ったの?」

自然と頰が緩む。

「私もね、おんなじこと思ってた。あそこが一番白けたもん。通り魔を悲劇だと思ってるなんて、単純だなぁって」

「マーコだったら、どう書くの?」

思いがけない返しに、私は戸惑う。

散々こき下ろした文庫本の表紙がこちらを向いている。

お前たちって、こういう淡いふわふわした、それでいて本を読んだ気になれるようなものが好きだろう?

なんて言われているようで私はこの先2度とこの本は読まないだろうと思った。何がここまで自分を苛立たせるのだろう。

多分私を苛立たせるものは、自意識過剰な文章でも、ベタすぎるストーリーでもない。

「私は余計な小細工はせずに、そのまま肝臓病で殺すかな」

「殺すって…もう」

間宮は私が冗談を言ったと思ったのか、軽く身体を揺すって笑う。

「マーコの感想聞く方が、なんか面白いみたい…ねぇ、今度はお笑い芸人が書いたやつ渡すから読んでみてよ」

「えー…いいけど」

間宮はよく本は買っているみたいだけれど、実際にそれをめくっているところはあまり見なかった。1人で本と向き合うよりも、こんな風に誰かを挟んで本があることの方が多かった。

自分から閉じこもる私とは全然違う。それなのに、私たちはこんなにも遠慮がなく仲が良い。

間宮は見知った顔を教室の入口に見つけて駆け出していく。

それに嫉妬も気遣いも何もない。手枷も足枷もない人間関係が一番尊いと、私はその背中を見て思った。

そして、1人になるとようやくさっきまでの苛立ちの正体が分かったのだ。


当たり前のように、男と女が恋をする。それに共感して、感動する。

お前たちって、こんなもので泣けるだろう?


あぁ、これだ。

恋に落ちて当たり前。男と女は惹かれ合う。

馬鹿みたい。私は薄ら寒い自意識の溢れた文章を思い出して、頬杖をついた。

でも、間宮もその他の多くの人だって…そう、私よりもずっと歳上の大人たちだってあれに感動していたのだ。私には誰かを好きになるという感情が分からない。

誰とも、そんな関係にはなりたくない。誰の感触も、体温も感じたくはなかった。友情は欲しい、でも愛情はいらない、誰とだって。

私は明るい間宮の横顔を眺めた。この教室にいる人間は皆いつか巣立っていく。よく似た雰囲気の誰かと、もしかすると思いもよらない誰かと、いずれはくっついて子どもの1人や2人作ってあくせく働くようになるのだ。

私には分からない。友達ではなくなるその先が。

誰もそんなこと、教えてはくれない。誰だって、人を好きになるのは当たり前だと笑う。

だから、私はこう思うようにしたのだ。

私は心を忘れて来てしまったのかもしれない。



「ねぇ、マーコは好きな人とかいないの?」

私はついうんざりした顔を向けそうになる。

「別に、いないよ」

「嘘だあ」

同級たちはまるで恋をしなければ死んでしまう病気にでも罹ってるようだと思った。腹立たしいことに、間宮までもが一緒になって囃し立てる。

「意外とマーコはモテてんのよ、試しに付き合ってみれば?」

「は?」

この手の話には目がない同級生たちは私を見下ろす。自分がローマのコロッセウムに放り込まれた哀れな奴隷になってしまったような気分になる。

残酷なローマ市民を楽しませるためだけに、奴隷は殺されていくのだ。

そんな私の心なんてまるで気づく様子もなく同級生たちは気楽に笑っている。

「鍵崎って、マーコのことが好きなんだよ」

お節介な1人がそっと耳打ちする。そう仲も良くない鍵崎がどうして私のことを好きなのか理解ができなかった。

「でも、気をつけなね」

「…どうして?」

「間宮も鍵崎のこと好きだから」

私は思わず目を見開いた。つい鍵崎の方を振り向く。なんてことはない、面白みも魅力もないもっさい顔の鍵崎がこちらを向けていた。怒りの入り混じった嫌悪感がせり上がって来て、つい大声で怒鳴りたくなる。


勝手に好きになってんじゃねぇ!


「でも、意外とマーコと鍵崎ってお似合いかもね」

なんてことを言うんだ、こいつは、と私は心中毒づく。

視線を感じて顔をあげると、間宮が私を見下ろしていた。純粋に構って欲しそうな視線で、私の中の怒りや嫌悪感に勘づいた素振りもない。

「…間宮は誰か好きな人いるの?」

無理やり笑顔を作って私は聞く。

「うん、あのね…」

その先は聞かなくても分かっていた。

こんな話をするのは苦痛なだけだった。

「鍵崎のことが好きなんだよね、マーコはどう思う?」

皆は楽しそうに頷いたり、騒いだりしている。私は1人取り残される。

あぁ、私には心がない。

心をどこかに忘れて来たみたいだ。



誰のことも好きになれそうにない、友達から先の接触はできそうにない。

それを思い切って言ってみると、大抵は笑って流される。


本当に好きになった人がいないからだよ。


「その好きって感情が余計に感じるというか…苦痛なんだけどね」

思わず呟く。

隣に座った鍵崎が少し鼻を膨らませてこちらを向く。それはなんだか滑稽で、気をぬくと笑いそうになる。

「どうかした?」

「ううん、別に」

私は抑揚を抑えて小さく言った。鍵崎は不思議そうな顔をして、スクリーンに視線を戻した。

鍵崎から週末に映画を観にいかないかといきなり誘われた。私は思わず「間宮を誘えば?」と言いかけてやめた。

自分に好意を持っているだろう相手と、試しに付き合ってみる。

そんなことをしてみると、伝染病が感染るように私も心を取り戻せるかもしれない。そう思って、誘われるがまま鍵崎について行った。

映画はマリー・アントワネットの生涯を描いたものだった。贅沢で軽薄なオーストリア女。

フランス市民から、オーストリアの娼婦とまで言われた女の生涯はどこまでも華美でどこまでも孤独なように思えた。鍵崎がなぜこんな映画に誘ったのか分からなかったけれど、夫の訪れを待つ初夜の硬い表情が不思議と瞼に残った。

「…フランス革命前のフランス宮廷って、皆が皆恋愛することに血眼になってたのよね」

「へぇ、そうなの?よく知ってるね」

鍵崎が相変わらずもっさい声で合わせる。あまり興味なさそうなのが透けて見えて、私も鍵崎自身にはそれほど興味がないことに気づく。

明らかに鍵崎は私と距離を詰めようとしていた。

この人はリトマス紙だ、と私は思った。私の中に、心がちゃんとあるのかを確かめるための薄いリトマス紙なのだ。

「俺、お前のことが好きだ」

ぼんやりしている間に告白をされて、手を握られた。

マリー・アントワネットが軽薄に踊っている横で、鍵崎は私の返事を待っている。ふわふわと翻るドレスの端が酷薄だけれど、美しい。

私は握られた手を振りほどいた。ねちっこい篭るような体温に、吐き気が込み上げて来る。相手が鍵崎だからなのか、男の子だからなのかは分からなかった。

それでも、私は鍵崎に目を向けて自分に言い聞かせた。


この人は薄いリトマス紙。


私は心を忘れて来たのだろうか。

もしそうであるのなら、私はどうやって生きていこう。

「うん、付き合いたいなら、いいよ」

感情はなかった。

ただ、知りたかった。私の心がちゃんとあるのか、どこにあるのか。

鍵崎はめげずに手を握ってきた。

スクリーンに目を戻すと、マリー・アントワネットはまだ踊っていた。

私はもう一度、握られた手を振り解いた。



鍵崎とはそれから3ヶ月ほど付き合った。別れる直前に私は鍵崎の部屋に誘われた。テスト勉強を見て欲しいなんてそれらしいことを言っていたけれど、いざ行ってみるとノートを広げることもせずに鍵崎は馬鹿に真面目な顔をして責めるように言った。

「なぁ、お前って本当に俺のこと好きなのか?」

「正直に言うと、好きじゃない」

私は目をそらさずに言った。鍵崎はそこで初めて怒ったような目の色をした。いつものもっさい色は消えて、黒く膨れていく夏の夕方の積乱雲のように怒りが広がっていくのが分かった。

鍵崎は叩くようにして、自分の唇を私の唇に重ねた。

鳥肌が立って、憎しみに似た感情が背骨を駆け上がる。鍵崎はもさくてもやっぱり男だった。硬い樹木を思わせる身体の重さをそのままかけられて押し倒される。直感だけれど、最初からこのために自分の部屋にしつこく誘ったのだと思った。

薄いリトマス紙。

私は心を探している。

色が変わるのを待っていた。

でも期待したことは何もなかった。私はあの後で鍵崎に別れを告げた。

私の中に残ったのは後悔と嫌悪感だけだった。

汗の匂いと荒い動きの中で、私は壊れたテープが同じ言葉を繰り返すようにひとつの言葉を頭の中で反芻した。


痛い、心が抉れる。


やっぱり私は心を忘れて来たのだろうか。

鍵崎とはそれから卒業するまで口をきくことも、目を合わせることもしなかった。

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