歯科

安良巻祐介

 

 最近歯が痛いので、近所の歯科に行った。

 診てもらうのはしばらくぶりである。多少の緊張を覚えながら、医院の少しくすんだガラス戸を押すと、からからと乾いたベルの音がした。

 受付に誰もいない。時計を見ると、ちょうど予約した時間だ。少々訝しく思いながら、椅子にかけ、本など読んでいたら、五分ほどして受付の向こうの扉が開き、先生がぼうと青白い顔を出した。そしてこちらの姿を認めると、慌てて受付をやってから、また奥へ引っ込んだ。いつも助手がやるのに、妙な事だと思った。

 それから数分して、名前が呼ばれた。

 診察室にも、助手はいなかった。診療台がずらりと並ぶ部屋の中には、口を開けて横たわる自分と先生だけだった。結局、診察はおろか、やはり普通は数人の助手がやる機器の操作やその後の会計まで、先生が一人でやった。


 次の診察の日時を記したカードを受け取り、医院を出てから、家までの暇な帰途の上で、ちょっと考えてみた。何で今日に限って、助手が一人もいなかったのだろう。

 あれこれと勝手な想像が膨らむ。先生が実は猟奇殺人鬼で、自分が横たわっていた診療台の右手、閉じた扉の向こうには実は、ふとした事で箍の外れた狂気によって喉笛を次々切り裂かれ、ベレニスよろしく綺麗な歯を根こそぎにされた、助手の女達が折り重なっていて――。

 診察してもらっておいて失礼にも程があるが、白衣のポケットに手を差し入れ、メスにこびりついた血の感触を楽しむ先生の顔を思い浮かべていると、くすくすと笑いが漏れてくる。無責任な想像というのは、結構楽しいものだ。……


 次の週、カードに記された日時に、また歯科に行った。

 少々の期待を込めてガラス戸を開けたが、今度はちゃんと受付に、見覚えのある助手の女がいた。妄想が破れ、不謹慎だが、ちょっとつまらなく思う。

 先生は相変わらずぼうとした青白い顔でこちらの口を覗き込み、ぼそぼそと診察をした。助手は受付にいた一人だけで、診察の時も、先生の周りをてきぱきと動き回った。見ているにどうも、自分の歯の治療は、長丁場になるようだった。


 さらに次の週も、痛む歯を抱えて出かけていった。

 助手はやはりちゃんと居た。今度は受付に一人とさらにもう一人がいて、先日抱いた失礼な妄想の入り込む余地は最早なさそうだった。先生はメスを振り回すこともなく、ぼそぼそと的確に助手へ指示を出していた。自分の歯の治療はやっぱりまだ長引きそうだった。

 

 さらに次の週。

 助手は四人になっていた。受付側と診察室側と二人ずつの万全な体制で、交代仕事をしていた。カルテを取る先生を見上げながら、あんな失礼な想像をしたことなど忘れたかのように、他愛のない世間話をする。歯の治療はまだ半分も終らないようだった。


 次の週。

 助手は八人にまで増えていた。もう全く、仕事に滞りはなさそうだった。診療台を四人が取り囲んで先生の手伝いをし、もう四人が少し窮屈そうに受付へ座って交代に事務をやる。しかし、まだ歯の治療は終らないようだった。


 次の週。

 助手は十人以上になっていた。診療台の周りにずらりと何人も並んでいる。先生は助手の手をかいくぐるようにドリルや鏡を動かした。受付の後ろでは、大量の椅子を何とか持ち込んで七、八人の助手が仕事をしていた。そして、まだ歯の治療は終らないようだった。

 

 次の週。

 驚いたことに助手はさらに増えていた。診療台に横たわっても、助手に押し合いへし合いされて先生の顔が見えにくい。受付の後ろの助手達はもう座ることはできず、皆、立って仕事をしている。まだ、歯の治療は終らない。

 

 次の週。

 助手はさらに増えていた。診療台に寝るのが困難になってきた。いやそれより、先生はどこにいるのだろう。そして、どうやったらあんな狭い受付にあれだけの人間が入れるのだろう。

 

 歯の治療はひたすらに長引いた。

 だからとにかく、歯科に通い続けた。

 そのまた次の週も、その次の週も、さらにその次の週も、歯科に足を運んだ。


 あれから半年ほど経った。自分は未だに歯科に通っている。

 ただし、もう医院に入ることはできない。

 痛む歯を抑えて、医院の前に立つと、くすんだガラス戸ごしに、助手の女たちが隙間なくぎっしりと詰まっているのが見える。女たちは仕事をしようとひしめき合って、全体で一つの肉塊のようになっている。蠢く女たちの合い間から、歯科の先生の顔だけが覗いて、こちらをぼうと見ている。つまるところ、歯の治療はまだ終らないらしい。

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歯科 安良巻祐介 @aramaki88

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