うなぎ屋殺人事件
亀虫
うなぎ屋殺人事件
身体中粘液まみれになる奇病が発見されたのはつい先日のことだ。
とあるうなぎ屋の主人が、ぬるぬるとした謎の粘液に包まれて倒れているところを彼の妻である美代子さん(仮名)が発見したのが最初だった。被害にあったのは
警察は当初それを何者かによって殺されたのだと考えた。高級なうなぎ店であったため、金銭を狙っての犯行もありえないことではない。また、彼だけに当てはまる話でもないが、
殺害道具として使われたのがこの謎の粘液で、犯人はこれを義弘さんの頭の上から大量にかぶせたて殺したのだと推測された。粘液なので粘り気があり、一度口を覆うとなかなかそれを取り除くことができず、粘液が口に詰まってしまい、彼はそのまま窒息死した。打撲痕は犯人に粘液をかけられる際にもみ合いになってできたものだろうと考えられた。
いずれにせよ、不審な状態で死亡していたのは事実だ。この事件のために調査チームが編成され、かくしてうなぎ屋事件は殺人事件として捜査が始まったのである。
しかし、この説は早い段階で否定されることとなる。
まず、現場を調査したところ、金銭や高級品が盗まれた形跡も見当たらなかった。この時間に店に出入りしている人を見た者はひとりもおらず、荒らされた様子もない。義弘さんの財布の中の現金もキャッシュカードも盗られていない。金銭目的の犯行である可能性は低い。
また、書類や聞き込みなどの調査の結果、彼を殺害する動機もとくに見当たらなかった。彼は非常に温厚な性格で、人の恨みを買うような性質ではない、と聞き込みをした全ての人がそう答えたのだ。
夫婦仲は良好で、激しくもめたことは一度もなく、特に不満に思うこともないと妻の美代子さんは語っていた。友人関係もとくに問題はなく、これといったトラブルもなかったようだ。反社会的な組織との繋がりもなく、そちらから恨まれたとも考えにくい。薬物乱用など違法な行為に手を染めた様子もなく、その痕跡も一切見つからなかった。近所からの評判も良く、町内会の仕事も積極的にやっていたという。特別大きな借金の記録もなく、店や自宅の家賃を滞納したなどという事実も全くない。
そして、殺害に使用されたと考えられた粘液について疑問も残っていた。犯人は一体なぜこのようなものを用いて殺害に及んだのか。
この粘液の成分も調査チームによって詳しく調べ上げられた。「ムチン」というぬめりの成分が含まれており、うなぎのそれに近いものだった。この店ではうなぎの鮮度を保つため調理直前まで
しかし、詳細な検死結果が出てから捜査の方向性は一変した。これは他殺ではなく、病死である。
件の粘液は外部からかけられたものだと最初は考えられていた。だが、実際は体内で分泌された液体なのだとわかったのである。
この謎の液体は、店の主人の唾液腺から出ていた。そこからとめどなくそれが分泌され、口をぬるぬるで満たし、彼を呼吸困難に陥れたのだ。唾液腺だけではない。汗腺、涙腺、皮脂腺など、ありとあらゆる外分泌腺からそれが分泌されていた。ぬるぬるは吹き出し続け、彼の身体中を包み込み、さながら水揚げされたばかりのうなぎのような粘液の塊へと仕立て上げた。うなぎ屋の主人はしたたる粘液によって滑りまともに立つことができなかっただろう。粘液に足を取られて転倒し、のたうち回り、その際にどこかに身体をぶつけて打撲痕ができたのだと推測される。
本来ありえないところから大量の粘液が分泌されているとなると、もはや身体の異常に他ならない。つまりは病である。しかし、粘液まみれになる病気など未だかつて聞いたことがない。これには捜査関係者のみならず、医者や学者たちをも困らせることとなった。症状自体も不気味だが、何より原因がわからない。もしこれが新種のウィルスや細菌による感染症だとしたら、大変なことになる。医者や学者は顔を青くし、慌てふためき急ピッチで調査が進められることとなった。
だが、感染症である可能性が示されてから間もなく恐れていたことが現実になる。うなぎ屋の主人の妻が同様の症状で倒れたとの報が入った。続いて、同店の従業員の何名かもまた粘液に包まれる症状に苦しめられているとのことだ。調査チームは一刻も早くこの現象を明らかにしなければならず、巣に殺虫剤を撒かれた直後の蟻のように必死に動き回ることとなった。
彼らの尽力の末、少しずつ
この症状が出た全員に共通することは、生のうなぎを触っていたという点だ。店の主人である義弘さんはもちろんのこと、妻の美代子さんも調理補助として参加していたため、よくうなぎに触れていた。病に
うなぎの血液には「イクチオトキシン」という毒が含まれていることで知られているが、発見された毒は、それとはまた別物のようである。そもそもイクチオトキシンとは症状が全く異なり、これは下痢、嘔吐などの中毒症状や、目や傷口に入れば炎症を引き起こすが、過剰な粘液の分泌を促す作用はない。このような作用をもたらす毒はこれまでになく、全くの未知のものである。調査班はこの毒に、うなぎから発見されたことにちなんで「イールトキシン」という名前を与えた。
幸い、イールトキシンはイクチオトキシン同様、火を通せば毒性を失うことが判明した。そのためか、うなぎを食べた客の被害報告は一件もなかった。
この店のうなぎの流通ルートははっきりとしており、日本某所で採れた天然の二ホンウナギだった。現在はイールトキシンの存在が発表され、世間に広く知れ渡ることになり、この場所で採れるうなぎの流通はストップしている。他の場所で獲れたうなぎからはイールトキシンは検出されておらず、これ以上この奇病が蔓延する可能性は低かった。しかし、流通こそ途絶えていないが、万が一このうなぎにも毒があったら……という不安のためか日本各地でうなぎの買い控えが起こっており、ぱったりと売れなくなってしまったようだ。うなぎ屋は次々と廃業し、スーパーなどでもうなぎの取り扱いを止めるところが増えた。加熱すれば消毒されるため調理されたものを食べるぶんには問題ないはずだが、未知の事象への恐怖を拭い去ることができないためか、消費者間でも必要以上に恐れられているようである。
毒の存在が明らかになった今でも、なぜうなぎが急に猛毒を分泌するようになったのか、理由は明らかになっていない。環境汚染が原因で毒を取り込み作られるようになったのか、はたまた突然変異により発生した二ホンウナギに極めて近い新種なのか。まだまだ謎が多く、調査チームはこれからも調査を続けていく必要があるだろう。
ある土用丑の日、とある生物学者のSNSでの書き込みが一部で話題となっていた。うなぎについての話だった。
「ニホンウナギの個体数が減少し、今や絶滅危惧種であると叫ばれて久しい。にもかかわらず、過剰に獲られ、過剰に消費される状況にほとんど変わりはなかった。しかし、イールトキシンの登場により、その状況が変わりつつある。旬でもない時期に人間によって無駄に獲られ、着々と数を減らし続けていたが、毒のため今やだれもうなぎを買わない。これはもしかしたら、うなぎから人類に向けたメッセージなのかもしれない。これ以上むやみに獲ってはいけない、さもなければ大変なことになるぞ、と。さながら派手な体色で有毒アピールをする毒虫のように。続ければきっと手痛いしっぺ返しを食らうことになる。だから、今こそ我々は意識を変えるのだ。人間の都合だけを考えた過剰な漁獲をやめよう。自然を支配しようとするのではなく、尊重し、お互い共存する道を選ぶべきなのだ。地球という同じ場所を共有している以上、そうしていく義務が我々にはあるのだと私は思っている」
うなぎ屋殺人事件 亀虫 @kame_mushi
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