46. 「どうすりゃいいってんだよ……!」

 ローマの街並みに溶け込むクリーニング屋の中、経営者である一家が暮らしている居住スペースに足を踏み入れたクレインとコウキは今回の依頼主であるアリアンナ・ファンファーニに出迎えられた。

「あぁ、いらっしゃいクレインさん。わざわざありがとうございます」

「いえ、これが仕事ですから」

 顔を見合わせて早々に深く頭を下げるクリーニング屋の奥方に、クレインは掌を向けて言った。ちらりとコウキに送った視線は、言葉のない指示だ。コウキはそれを正確に受け取り、クレインが持ってきた鞄から聖油を取り出した。

「こちらの建物に、儀式の下準備をさせていただきます」

「あら、コウキくん。今日はあなたも来てくれたのね」

「はい」

「本日の儀式はこいつが執り行います。準備から本番まで全てやらせますので、どうかお構いなく」

 クレインのその言葉に、アリアンナの顔が曇った。それは、明らかな不安の表情だ。果たして、まだ年端も行かないこの少年が悪魔祓いを行えるのだろうか。そういった考えがありありと顔に出ている。彼女の顔にそういった感情を見つけたコウキは、俯きながら小さく頭を下げた。嫌なことから目を背けてしまうのはいつもの事だ。

 そのままコウキは聖油を少々指に取り、部屋の壁に小さな十字架を描き始めた。聖堂のように神聖ではない場所で行う儀式は、まずこのような下準備から始めなければならない。彼が書いている聖油の十字は悪魔を誘き出すための罠であり結界だ。それを建物中に張り巡らせれば、簡易だが儀式を執り行うには充分な場所の確保が完了する。さらに、部屋のありとあらゆる窓や扉に向けて聖水を振りかける。本来ならば朗々と声を張り上げて聖句を唱えながら行う手筈なのだが、心の底から神を信仰しているわけではないコウキは抵抗があるのかただ口の中でもごもごと文言を転がすだけだ。クレインはそれに対して眉をひそめたが、コウキはその視線を見て見ぬふりでかわす。

「――……父と子と精霊の御名によって、かくあれかし」

 最後の準備が終わり、コウキは小さく胸の前で十字を切った。信仰の薄いコウキにとってはどれもくだらないポーズに違いないが、それでも正教会の信者と神父長の前では滅多なことができないと思ったのか形だけはしっかりと整えた。

「終わったか」

 クレインの言葉に、コウキは彼の方を向く。頷こうとしたコウキの目に入ってきたのは、優雅に紅茶を飲んでいる神父長の姿だった。アリアンナが用意したもののようで、小さなテーブルの上にはコウキに出されたと思われるカップも置かれている。

「お前、何呑気に茶ぁしばいてんだよ。儀式だから真面目にやれって言ったのお前だろ、クレイン」

「今回のメインはお前だからな。それに、せっかく出してもらったお茶を無駄にするわけにはいかない」

「そういう融通の利かないところホント嫌いだわ」

 ため息をこぼしたコウキがさらに文句を重ねようとしたその時、階上から大きな物音が聞こえてきた。何かが倒れたような重たい音だ。ハッとして天井を見上げれば、ちょうど真上の部屋で誰かが暴れているような気配がする。部屋の隅でコウキとクレインのやり取りを見守っていたアリアンナが、両手で口を覆い小声で呟いた。

「ファビオ……!」

「例の息子、部屋にいるんだな」

「そのようだ。アリアンナ、ファビオの部屋に立ち入ってもよろしいかな」

「は、はい……」

 必死に首を縦に振るアリアンナを確認して、コウキとクレインは互いに目を見合わせて頷いた。そのまま急ぎ足で細い階段を上っていく。

 今回の依頼の悪魔憑きであるファビオ・ファンファーニの部屋は、母であるアリアンナに聞くまでもなくどこか分かった。二階にある部屋の扉のうち、一つだけが固く閉ざされていたからだ。他者の進入を拒むように立ちはだかる扉は、大した厚みもないはずなのに異様な威圧感を醸し出していた。

 その扉に、コウキは躊躇いなく拳を打ち付ける。遠慮の欠片も感じられないそれは、ノックというよりも面倒くささが滲んだ八つ当たりじみたものだった。威嚇と思われても仕方ない力加減で叩かれた扉は、その薄さも相まって大きな音をまき散らす。ドアノブをガチャガチャとひねっても、内側から施錠されているようで開く気配はなかった。

「おい、ファビオ・ファンファーニ、あんたそこにいるんだろ! 開けてくれ!」

 何度も扉を叩きながら、コウキはイタリア語で中にいる人物に声を掛ける。だが、僅かに期待していた返事すら扉の向こうからは聞こえてこない。ただ誰かが中で暴れて叫んでいる声だけがくぐもって聞こえてくる程度だ。

「くそっ、こっちの話を聞きやしねえ」

「アリアンナ、この部屋の鍵は?」

「一応外からも開けられますが、その、バリケードを作っているみたいで扉そのものが開かないんです」

 眉を下げ、半分泣きそうな顔でアリアンナが扉を見る。コウキは舌打ちをしてアリアンナに手を伸ばした。

「鍵、ください。バリケードはこじ開けます」

「で、でも……」

「コウキに任せましょう。彼もサンタ・ヴィオラ教会のクラージマンです、問題はありません。何かあれば私が責任を取ります」

 援護するようにクレインが言葉を重ねる。視線をコウキとクレイン、そして息子が引きこもっている部屋の扉の間で往復させた彼女は、やがて意を決したようにポケットから小さな鍵を取り出した。シンプルな造りの鍵で、錠と同じ鉄製のようだ。

 コウキはそれを無言で受け取ると、そのまま躊躇いなく鍵穴に差し込んだ。がちゃり、とやけに重い音を立てて中のシリンダーが揃いロックを解除する。コウキは鍵を刺しっぱなしにしたままノブを回して扉を押した。

 アリアンナの言葉通り、中で何かがつっかえているようで扉は微動だにしない。何度か両手で強く扉を押し込んでみるが、ほんの小さな隙間ができただけで中の様子を窺い知ることはできない。

「っ、おい! いるんだろファビオ! 中のこれ何とかしてくれ!」

 やはり返事はない。それどころか、ずっと響いていた少年の叫び声すら聞こえなくなった。静まり返った部屋からは人の気配こそ感じられるが、とても意思疎通が図れるような状況ではなさそうだ。

「こんなの、どうすりゃいいってんだよ……!」

 思わず日本語で悪態をつく。その意味が理解できなかったのか、クレインが目をすがめた。だが、その時。

「……日本語」

 しわがれた声が扉の隙間から聞こえてきた。

 ハッと顔をあげたコウキは次の瞬間、隙間からぎょろりと覗く一対の目玉と視線がかち合った。

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祈らない聖職者コウキの悪魔祓い奮闘記 逆立ちパスタ @sakadachi-pasta

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