エピローグ

少年と少女

 エルボニン半島から両軍が撤退していく。

 帝国軍の隊列は陸路で帰った。兵隊たちは荷馬車からウォッカをくすねながら、地平線の向こうに待つ家族の唄を歌った。

 同盟軍の船団は海路で帰った。彼らも樽にわらしべを突っ込み、ラム酒を吸い上げながら、無事に帰れることを喜んだ。

 戦争は終わった。

 だが、シャルロットの戦いはまだ終わっていなかった。

「私にできることはまだたくさんあるもの!」

 負傷者でてんてこ舞いの病院船では彼女にできることがまだまだたくさんあった。

 ミクローシュの戦いも終わっていなかった。

「大急ぎで帰らなきゃ! 全世界の読者が僕の記事を待っている! テオドール! アデルバート! シャルロット! あと熊一頭! 残念だけどお別れだ。でも寂しがらないでくれたまえよ。『トゥルー・サイト』の第一面を読んでくれれば、いつでも僕に再会できるからね!」

 ミクローシュは一番速い快速汽船に乗り、新聞社へすっ飛んでいった。

 アデルバードとペイトンの戦いはこれからが本番だった。

「うっぷ!」

「坊ちゃん、ベッドに吐いちゃだめですよ! はい、洗面器持ってきました」

「あ、ありがと、ペイトン……うっ、おえええっ!」

 テオドールの戦いは小休止に入ったところだった。

「少し夜風にあたって参ります」

 テオドールは席を中座して、甲板へ登った。すっかり酔ったシンメルフェニッヒ将軍が豪快に笑う。

「おや? もういかんかね? やっとられんぞ、きみ!」

 宮廷汽船の晩餐会は午前四時を回っても終わりそうにない。

 同盟軍の君主と将軍、そしてテオドールのような名家の士官が招かれての戦勝祝賀も兼ねているせいだ。みな戦争が終わって、心から安堵しているようだ。ならば、なぜ戦争など始めたのだときかれれば、戦争というものはそういうものなのかもしれない。とにかく複雑で、不条理で、理不尽だ。

 帝国から和平の印として送られたキャビアは共和国人のコックの手で調理され、王国式の飾りつけをされたフロアに並んで、公国の最高級ワインとともに将軍たちの胃袋へ流し込まれる。

 テオドールは大慌ての給仕やシャンパングラスのお城、酩酊した将軍たちを避け、昇降口を上った。

 そこは船首を覗う艦橋前通路だった。

 鏡のように磨かれた甲板が春の星座を映している。

 船縁では船医助手が釣り糸の流し、五分もしないうちに小さな魚を釣り上げた。艦隊はイワシの群れの上を走っているらしい。

 テオドールは長椅子に座り、もうすぐ明けそうな東の空を眺めた。

 だが、夜明けのそのときまで起きていることは叶いそうにない。

 彼は温い潮風にまどろんでいた。

 船首に二人の人影が見えた。

 二人とも老人のようだ。一人は女性だった。

 二人は渦巻きと呼ばれる船乗りのダンスを軽く踊る。

 女性のほうがリードしていて、男のほうはやや戸惑い気味だ。

 潮風の中から二人の声が聞こえてきた。

「昔を思い出すわ、アーサー」

「陛下。臣下の礼がございます。どうかサマーフォードとお呼びください」

「まあ、分別くさいこと。六十年前、私を城から連れ出してくれた冒険好きの少年はどこへ行ってしまったんでしょうね」

「六十年前のあのときに残してきてございます」

 沈黙。そして、ため息。

「アーサー、今だけは六十年前に帰ったつもりでいさせてもらいます。それにしても、なんて素敵なんでしょう」

「もうじききれいな夜明けをご覧に入れられましょう、陛下」

「いいえ、アーサー。夜明けのことではありません。あの少年と少女のことを考えていたのです。いつの時代にも冒険を夢見る女の子がいて、連れ出してくれる男の子がいる。まさに素敵なことでなくて?」


空と海。

夜を払いきれていない青い世界が広がっていた。

水平線からあんず色の空がにじみ始める。

剣のように鋭い光が海から空へ突き出された。

それが太陽だと気づく。

光はますます大きくなり、空を桃色に、海を黄金色に、世界は輝きと命に満ちていく。


                         (了)

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アデルバートの冒険 実茂 譲 @013043

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