しみわたるみずのように
有澤いつき
Like a broken cup
何故こんな感情を抱いてしまったのか。
今思うのは後悔、自戒、嫌悪――負の側面が俺を苦しめる。いつ、どこで、俺は間違ったのか。道を誤らず進むことはできたのか。そも、俺の選んだ道は過ちだったのか。
結論から言えば、選択肢に正解も不正解もなく、きっと感情が俺を狂わせているのだろう。選んだ時に後悔などなかった、そう言えれば良いのだが――俺は何故こうなってしまったのか、今でもよくわかっていない。けれど、社会的に間違った感情を抱いている、それだけはわかっていた。
俺は平凡で、倫理や社会の目は気にするだけの理性は残っていると思っていたが、どうやらそんなものは慢心でしかなかったらしい。
俺は日本において、ごく平凡な男子高校生だ。
特別な力をもっているわけでも、代々政治家の家系でも、実は裏の世界に片足を突っ込んでいるわけでもない。中流階級、両親は健在。だから「普通」という一般的な社会認識から考えれば、俺は普通と言ってさしつかえない人間だろう。頭脳、容姿、運動神経と言ったスペックに個体差はあるとしても、それは人間としての個性だ。別に突出したものはない。
まあ唯一、特記事項があるとすれば、俺には双子の姉がいるということだ。
「理央。りーおー? 聞いてる?」
男子高校生の個室というのは、いわば魔窟だ。思春期まっただなか、青春を謳歌し恋や性というものにも目覚め始める。ティーンエイジャーのきょうだいなんて精神的にも肉体的にも大人への成長途中なわけだし、自然と疎遠になっていくものだと思っていた。だが、この姉――名前は
何故か? どうやら姉貴は、俺に世話を焼きたくてたまらないらしい。
「……人の部屋にノックもなしに入るなよ」
「あたしはいいのよ。お姉ちゃんだもの」
文句を言おうものならすぐこれだ。俺と姉貴は、性別の異なる双子とはいえ顔の作りがよく似ている。どちらかと言えば、俺が女顔なのだ。微塵も嬉しくないが。
姉貴は平均的な女性に比べて小柄だ。かといって子供っぽいわけでもない。それでも身長にコンプレックスを抱いているのか、やたらと「お姉さん」ぶってくるのだ。
「横暴だ」
「なんとでも言いなさい」
「俺が姉貴の部屋に無断で入ったら?」
「殺す」
「理不尽だ」
嘆息することにも慣れっこだ。姉貴のことをすべて知っているわけではないが、お姉さんぶりたいのはわかっているのでその欲求に応えるようにしていた。どうしても入ってほしくないときは内鍵をかければ、さすがの姉貴も入って来ない。鍵を開けるときは、姉貴が来ても困らないときだ。
さて、そんな俺の姉貴なのだが。俺が悩まされているこの感情も、この姉貴が原因だ。そう言って差し支えないだろう。
「理央ってさあ、今度の日曜日ヒマ?」
夕食を食べ終わったダイニングテーブルで、姉貴はファッション誌をめくりながらそう問いかける。
「日曜? 別に何もないけど」
「そっか。じゃあ付き合ってよ」
「どこに?」
告げられた店名は、男の俺にはピンと来ない名前だった。フランス語にも英語にも聞こえる、横文字の洒落た名前だ。一応念のためだが、俺と姉貴が並んで歩くと恋人に見られないわけでもない。もっとも顔が似ているのですぐに双子だと分かるが……変に高校の近くに出没して姉貴の顔が割れるのは避けたかった(姉貴は別の高校だ)。もっと言えば、「休日に双子で仲良く買い物をしている」とクラスメイトにバレるのが嫌だった。
姉貴は返事をする代わりに、ずいとファッション誌を差し出す。姉貴が見ていたページが開かれている。そのページを見て――俺は眉間に皺を寄せた。
「嫌だ」
「何でよ」
「こういうのは母さんと行けよ」
何で男の俺と行くんだよ、と呟く。不快感は隠しきれなかった。
「お母さん、その日は仕事だって。それにこういうのは男子からの感想を聞きたいって言うか」
「彼氏でも作れば?」
「いないからあんたに頼んでるんでしょ」
むくれてみせる姉だが、今回は俺も譲れなかった。何故って……姉貴が行こうと提案したその店は、下着販売店だからだ。
「見せる相手もいないなら、尚更俺が行く意味ないだろ」
「何よ、お姉ちゃんの言うことは絶対なのよ?」
苛立った様子で姉貴は唇に爪を立てる。昔からの姉の癖だ。赤い舌が忌々しそうに覗く。桃色の唇よりも濃い色をしていたのが意外だった。
「別に、俺は姉貴の奴隷じゃないし」
「そんな風に思ってるわけじゃないって。あんたにしか頼めないから言ってるの」
姉の声色が急に優しくなる。お姉さんぶっていた高圧的な物言いから、媚びる女のそれに変わる。そんな姉貴は、あまり見ない。
耳貸して、と姉貴はダイニングテーブルに身を乗り出す。内密な話ならそれこそ自室ですればいいのに、面倒くさがりな姉はここで所用を済ませることにしたらしい。なかば引っ張られるような形で俺は耳を寄せる。熱い姉の吐息に背筋がぞわりとした。
「他の人に言うの……恥ずかしいから。お願い」
……本当、そこで頼るのがどうして俺なんだ。今度の日曜日の予定は埋まった。
感情が狂っていくのは、いつからなんてわからない。ただ、この日の俺の決断が電車のレールを切り替えたのは確かだった。
姉貴にあんな頼みごとをされたのは初めてだった。普段から俺にだけはお姉さんぶっている。本来の性格は人当たりも良く優しい子とか、明るく笑顔が印象的な子とか、そんな評価をされるのかもしれない。だが俺には違う。愚痴を吐くことはあっても媚びることはしない。第一、高校二年生の今になってどうしてあんなことを頼んだのか。よりによって思春期に。
姉貴は、知っているのだろうか。その意味が何なのかを。
「……爪、伸びてたな」
一人前にファッションやメイクに金をかけるようになった姉貴は、髪や指先の手入れも怠らない。それでも苛立ったとき、思うようにいかないときのクセ――唇に爪を立てることは、やめられないようだった。
恐らくはマニキュアを塗るために伸ばし、先が鋭くなっていた爪が……厚い唇に突き刺さっていた。薄い唇の皮膚を破き、赤い血が滲む。姉貴の、クセ。
「…………」
俺はクローゼットに手を伸ばした。開くと、ドアの内側に鏡が仕込んである。飾り気のない姿見だ。俺はそこまで服に頓着する人間ではないから、正直頻繁に世話になることは無いのだが。鏡の向こうには無表情の俺がいる。黒いパンツ、無地のパーカー、女子とはかけ離れた骨格。けれど顔は――姉貴に似ている。
「ぁ……」
鏡の先にいる唇に、手を伸ばした。変な声が出る。冷たい。そりゃそうだ。だって鏡だ、鏡なんだ。そこにいるのは無表情の俺で、男だ。似た顔をしていても、姉貴じゃない。
いや違う。そもそもどうして、俺は鏡の唇に触ろうなんて思ったんだろう。
「……クソ」
もう寝よう。今日は気分が悪い。鏡の中でかさついた唇をした俺が、憎々しげにそう吐き捨てた。
***
姉貴に案内された下着店は、自宅から電車で五駅ほど乗った距離にあった。高校とは反対方向でひとまず安堵する。
俺と姉貴がふたりだけで買い物をすることは、最近ではめっきり減っていた。それこそ小学生の頃ははじめてのおつかいよろしく、二人であっちこっち母親の買い物をしたものだ。しかし中学に入ってからはお互い部活もあり、休みの日に出かけるとしても家族で、ということが多かった。双子だけで、ということはほぼない。
久方ぶりの双子水入らず(なんて言葉があるのか)。それが女性用の下着店でなければ、もう少し穏やかな気持ちで同行できたのかもしれない。
「理央、着いたよ。……なんて顔してるの」
ピンク色の甘い色合いが、一層俺の拒否反応を強くさせた。女性向けのおしゃれなカフェとはわけが違う。やっぱりあの日断っておけば良かったと、俺は激しく後悔する。しかし今逃げ出したところで何かが変わることもない。最早腹を括るしかなかった。
「一応聞いておくけど、俺が店先で待つのは」
「ないわ」
「ですよね」
逃げ道はあっさり塞がれた。俺は深呼吸をひとつして、姉貴に続いて店内に入る。カランコロンと、可愛らしい鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませぇ」
間延びした店員の声がより甘ったるくて吐きそうだ。明らかに場違いな俺。ざっと店内を見回してみたが、透明なマネキンに飾られた上下の下着があちこちに。視界のどこにもブラジャーかパンツが存在する世界に、これは何の拷問かと思う。
「いいか。俺はあくまで付き添いだからな」
「わかってるって」
変な誤解をされたくないので、わざとらしく言葉に出しておく。周囲の女性客の目から逃れるためだ。それも被害妄想と言えばそれまでだが、どう足掻いてもアウェー感は否めない。むしろホームだったらとんだ災難だ。
姉は終始上機嫌だった。様々な下着をとっかえひっかえしては、どうかなと俺に意見を求めてくる。俺はあくまで付き添いで、下着の好みなんぞわからないと言ったばかりなのに。でも、姉貴は無邪気な笑顔でショッピングを楽しんでいるようで、それなら振り回されるのも悪くは無いかな、なんて考える。
既にその思考が姉貴に毒されているような気もするが、ほんの少しの平穏と言う意味なら別にシスコンでも何でもないだろう。
「理央。これなんかどう? オシャレじゃない?」
嬉々とした表情で姉貴が俺に差し出したのは、黒いレースの下着だ。今まではピンクとか水色とか、ああパステルカラーが可愛らしいですねと当たり障りのない感想を言えた。
だが、今回のは明らかに傾向が違う。一瞬思考が追いつかなかった俺は、提案されたそれを手にしていた。――D。
「……姉貴って意外と胸でかかったんだな」
「それ今更言う?」
さっきから散々見せてきたじゃん、と、何だかよくわからないことを言う。Dか、ともう一度納得させるように呟くと、いいから感想をよこせと小突かれた。
「感想、と言われても」
「可愛いねーとか、色っぽいねーとか。さっきまでフツーに言ってたでしょ?」
どうだったか、よく思い出せない。何しろ早々にここから立ち去りたい一心で現実逃避していたんだ。姉貴からの提案には適当な言葉を返していた。だから姉貴が提案した下着を受け取り、まじまじと見つめるのは……正直これが初めてになる。
黒い下着。普段着がだぼっとしたものばかりの姉だから、あまり身体のラインというものを意識したことがなかった。小柄だし、どっちかと言えば細いし。こんな、……爆弾を隠し持っていたとは微塵も考えず。色気の欠片も無い、灰色のスウェットとかを着ている姉貴が、その服の下にこんなのを着てるって? おいおいまじかよふざけんな。
「理央?」
怪訝そうな姉の声で我に返る。――何を馬鹿なことを考えているんだ、俺は。
「別にいいと思うけど……黒って透けないか」
「やっぱりそこかー。夏服の日とか絶対着れないよね」
案外冷静な返事ができたような気がしないでもない。結局その日姉貴は黒い下着を買わず、代わりに薄い色合いのセットをいくつか買っていた。
***
おかしい。
俺の思考は徐々に侵されていた。できるだけ考えるのをやめようとしても、どうしても立ち戻ってしまう。俺は姿見の前に立つことが多くなっていた。
「ち……」
舌打ちをしても、鏡の中の男はそれを器用に返すだけ。甘い微笑みを向けることはない。だってそこにいるのは姉貴じゃないんだから。全身を見ればわかる。身長も、骨格も、声だって違う。頭ではわかっているんだ。
だけど、顔は。
「……あね、き」
鏡の向こうで、どこかうっとりとした顔の輪郭をなぞる。冷たい。
――触れたい。もっと、姉貴に触れたい。
おかしくなっていたんだ。いつから? どこから? どうしてこうなった。そんなの俺にもわからない。俺は平凡で、普通で、双子の姉がいるだけの、ただの男子高校生だ。決して禁欲的な人間じゃないし、……人を好きになったりもする。初恋と呼べるものも、ファーストキスと呼べるものも、幼稚園のうちに済ませているが。逆に言えばそれ以来、恋らしい恋なんて知らなかった。
そう、俺は人を好きになったらどうすればいいのかがわからない。
「姉貴、……姉貴」
鏡の口があねき、と呟く。とろりと溶けた目は、よく見れば睫毛が長い。そう、姉貴の目は溶けたチョコみたいに甘そうだなと、今思った。
姿見の前に座り込んで、鏡に顔を突き合わせる。紅潮した頬が愛らしい。姉貴はいつも俺には勝気だけど、頼みごとをするときはとびきり可愛くなる。姉貴はよくメイクをするけれど、チークなんていらないくらいだ。だって俺の前にいる姉貴は、俺を求めて愛に飢える。
「……かわいい」
可愛い。可愛くて、色っぽくて、女らしいと思っていた。家の中にいるときはスウェットを着ていても、その下にトンデモナイ下着を着てるとか。それが俺にバレて恥ずかしそうにしてる姿とか。鏡の向こうの姉貴は、いつも見せない顔を俺に見せてくれる。
好き。きっとこれが恋なんだ。
笑顔。容姿。性格。紅潮。表情。年月。――なんてことなかったものが、ある日を境に違って見える。俺は姉貴に、恋をしていた。
「は……」
潤んだ瞳で、姉貴が続きを懇願する。もっと、理央に触れたいと。毒に侵されていくように、じわりと水がしみていくように、俺の知らないうちに肥大化した感情は、もう歯止めがきかなくなっていた。姉貴の、……実央の言動そのすべてが、俺を魅了する。
「み、お」
「――理央?」
刹那、俺は現実に引き戻された。姉貴……本物の、姉貴。
「あ、な、待っ……」
動揺していた。変に上擦った声とか、バタンとクローゼットを乱暴に閉める音とか、俺が何をしていたか知られてしまうような。こんな――変態みたいなこと、姉貴に知られるわけにはいかない。
幸い、鍵は閉めていたから姉貴が部屋に入ってくることはなかったけど、俺の方は気が動転していた。それを不審がっているようだ。
「どうしたの?」
「姉貴には、関係ないだろ」
「理央」
「なんだよ。いいからさっさと」
「あたしのこと、好きなの?」
そのとき、俺はどんな顔をしていたのか――後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。ああ、もしカミサマなんてものがいるなら、今だけ眩暈を覚えて気絶してしまいたい。
おずおずと鍵を開け、姉貴を部屋に招き入れる。姉貴の顔は見れなかった、当然だ。己のプライベートな部分を、よりによって一番知られてはならない人間に知られてしまったのだから。思いを寄せる人間と膝を突き合わせて、己の性癖について暴露しなければならない。これは何の拷問か、それとも報いとでも言いたいのか。
「……幻滅したか」
姉貴の返事は聞かなかった。他人に傷を抉られるくらいなら、自分で抉った方が数百倍マシだ。
「散々言っておいて、姉貴に欲情してたって言ったら、引くか」
「そんなことは」
「おかしいんだ」
姉貴の言葉は聞きたくない。俺は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「狂ってるんだ。こんなこと、今までなかったのに。姉貴といると自分がおかしくなる。抱いてはいけない感情だって、わかってはいるのに」
「おかしくないよ」
「おかしいだろ!」
声を荒げる。姉貴に同情なんかしてほしくなかった。このとき俺は、初めて姉貴の顔を見た。姉貴の顔は真剣そのものだった。
「実の姉が好きとか、狂ってるだろ……」
「好きっていう気持ちでしょう? 何も狂ってないじゃない」
「相手が悪い。――姉貴だって、意味わかるだろ」
俺と姉貴には血の繋がりがある。顔も似ている。紛うことなき双子。けれどその繋がりが、何より俺と姉貴を隔たらせる。
「家族」というのは、奇妙な仕組みだと思う。俺と姉貴は「きょうだい」という繋がりを与えられ生まれた。生まれた以上、「夫婦」になることは叶わない。そういう国なのだ、それがルールなんだ。
「なら、理央があたしを狂わせてよ」
「は」
「理央とあたしが同じ気持ちなら、何もおかしくないでしょう?」
それは、つまり。「惚れさせられるもんならやってみろ」的なニュアンスでいいのか? 時折この姉は俺の想像の範疇を超えることをする。でもまあ、さすが我が姉と言うか、「ずっと前から、私も――」という少女漫画的ご都合主義にならないのが「らしい」。これには失笑するしかなかった。
「笑わないでよ」
「いや。……俺、本気にするけどいいの?」
姉貴は不敵に微笑する。ならばと、俺はひとつ先手を打つことにした。
「わかった。あと、俺は黒い下着、姉貴に似合うと思うよ」
慈悲の無い平手が俺の膝を叩いた。
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