彼女
小雪杏
第1話
夢の中で彼女と会う――。
小さな喫茶店の人気のない窓際の席。いつもそこで彼女と会う。
笑った顔も。怒った顔も。泣いている顔も。どれも鮮明に映る。
――だが、この場からは動けない。
席を立とうと腰を上げると夢から覚める。彼女に触れようと手を伸ばしても、話が途切れ、少しの退屈も感じても夢から覚めてしまう。
でも、必ず夢の中で逢う。
これで何回目だろうか……。
どんなに悲しい事が在っても、どれほど憎たらしい事があっても、夢の中で逢う
――いつもと同じ映像で。
――彼女はいつも笑っている。
――彼女はいつも泣いている。
今日は――カフェオレだった。
瞼から光が漏れ、朝が来たのかと目を開ける。
――だが、まだ夢の世界。
――彼女は泣いている。
――彼女は笑っている。
いつもと同じ会話は途中から始まる。彼女は笑いあたかも自分が返事をしたかのように会話を成立させる。
あぁ、いつまで続くんだ。いつになったらこのループから解き放たれるのだ。
――今日は憂鬱。
――昨日はくもり。
――明日は?
今日はアイスコーヒーだった。
『明日は?』
明日なんてない、あるのは今と過去だけ。目覚めても染み付いたように残る彼女の仕草と紅く焦がす陽光の香り――鼻を衝くコーヒー豆の匂い。
自分だけが取り残されている。
彼女だけが立ち止まっている。
目の前に彼女がいた。靨をくぼませ、にっこりと微笑む姿は実に愛らしい。
そんな自分にとって女神のような存在の彼女は、白いワンピースを翻らせこう言う。
「今日の一押しポイントはこれ!」
そういって見せたのが、去年僕が彼女の誕生日にとプレゼントした腕時計だった。約束もしていないのに身に着けてきてくれた。彼女のこういった部分が好きだ。
今日は付き合って二周年を祝うデート。
彼女はオメカシをしている。彼女は僕がファッションなどにも口を挟まずとも、僕の趣味を理解してくれている。彼女のこういった部分が好きだ。
今日のデートは一年前と全く同じ。同じデパートの同じ店で同じ商品を買い、同じ道を通り同じ喫茶店へと訪れる。
――そういう予定だった。
――はずだった。
何もかも上手くいくはずだった。
彼女と喧嘩をしてしまった。
喧嘩と言っても、おそらくどのカップルも通るような簡単な話のはずだった。
彼女はむくれ面をしながら速足で前をいく。
彼女は怒るとすぐに顔と行動に出る。彼女のこういった部分が嫌いだ。
彼女は前が見えていないのか、周囲の店を見渡す家族連れにぶつかりそうになる。
僕はとっさに彼女の腕を掴み、引き寄せ、衝突を避ける。
だが、彼女はありがとうの一つも言わずに、僕の顔を見るなりそっぽを向いてまた、速足で歩きだした。
彼女を怒らせてしまったことは幾度かある。その度にどういった言葉で彼女を沈めていたのか深く思い返す。――思い返す。
考える
深く
深く
赤信号に気づかなかった。車の通りの多いこの場所は、絶えずして車の行きかう騒音が響いていた。
「赤信号だよ」――彼女の声だった。僕の腕を掴んで、歩道からはみ出さないようにしていてくれていた。彼女は怒っているときにでも、僕の事を気にかけてくれている。
彼女のこういった部分が好きだ。大好きだ。
彼女は少し俯いていたが、僕の腕を離さないでいてくれていた。彼女は僕とは反対の方を向きながら「ごめんね」と言った。
僕もつられて言う。
「ごめん――」
――――――――何故だか体は仰向けになっていた。
――――――――何故だか周りには人がたくさんいた。
――――――――何故だか車の騒音は聞こえなかった。
――辺りは夕暮れ色に染まっていた。
どうして? 太陽はまだ高い位置にあるのに。
――彼女は横たわっていた。赤いワンピースを着て。
どうして? ワンピースは白色だったのに。
どうして?
どうして?
どうして?
上手くいくはずだった。ちょっと喧嘩しちゃったけど。去年と同じ、あの喫茶店で一緒に駄弁るためだけの道のり。
もっと一緒に居たかったのに。好きだったのに。大好きだったのに。ごめんって言えなかったのに。
もっと彼女と話したい。もっと一緒に居たい。
そう思った時、あの喫茶店にいた。――彼女がいた。――笑っていた。
やっと会えた。満足だった。――でも、彼女は――。
二人を挟むテーブルに紅茶が二つおかれていた。――そう、去年二人で注文したもの。
そう、ここで喋っていた。――いつも。
――あれ
『データがありません』
映像が消えた。真っ暗になった。――彼女との思い出が少なかった。愛していたのに。好きだったのに。
僕はバグとエラーを起こし続けていた。何度も。何度も。
紅く焦がす陽光の香り――鼻を衝くコーヒー豆の匂い。
――彼女は今日も泣いていた。
僕は眠っていた。彼女は泣いていた。病院の一室で――。
彼女 小雪杏 @koyuki-anzu
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