黒い鱗粉

亀虫

黒い鱗粉

 部屋の網戸の内側に、蛾が張り付いていた。わずか四、五センチほどの大きさの蛾だ。はねは黒、というよりカラス色で、漆黒の中に虹色の油が混ざり合ったような色をしており、見ようによっては美しく、見ようによってはまたおぞましくも感じられる。蛾は三角形に広げた翅をこちらに向け、静かにたたずんでいた。


 私は蛾が嫌いだ。いくら翅が美しかろうが、いかに愛らしい姿をしていようが、蛾は蛾で、私の部屋を侵す不快な異物に違いない。


 だから、排除しなければならない。


 私は殺虫剤のスプレーを手に取り、静止している蛾に向けてそれを噴射した。蛾は驚いたように飛び上がり、近くにあるカーテンまで避難した。まだ効果は表れず、何事もなかったかのようにカーテンにしがみついていた。


 殺虫剤を見舞ってからおよそ一分、蛾の様子に変化が表れ始める。蛾は突如力を緩め、ポトリと床に落下した。落ちてすぐに翅をバタつかせ、飛ぼうとする。でも、上手く飛び上がれない。抵抗むなしく、虫はあわれにも下へ引き戻される。再び翅をはばたかせる。そしてまた落ちる。人はこれを無駄な努力と呼ぶのだが、虫の言葉では、一体これを何と呼ぶのだろうか。


 さらに一分が経過した。蛾は床の上で仰向けになっていた。気持ちの悪い腹を見せながらもぞもぞと脚を動かし、苦しみあえぐ。まだ死にたくない、と言っているような気がした。力を振り絞って身体を起こし、三度みたび飛び上がろうと翅をバタつかせる。精一杯バタつかせる。甲斐あって、少しだけ飛び上がる。でも、わずか数センチほど飛ぶのが限界だった。それ以上飛ぶことはできず、蛾は重力に従った。


 それからさらに一分。蛾は翅が飾り物になってもなお、また飛び上がることを夢見た。しかし、綺麗なだけが取り柄の飾り物で飛ぶことはできない。夢は叶わず、蛾は必然的に飛ぶことをやめた。翅を失った虫けらは無様に床を六本の脚で這いつくばり、なんとか歩き回り、壁を見つけ、そこによじ登ろうとした。もうそんな力も残っていないはずなのに、死んでも蛾であり続けようとでも思ったのだろうか。


 また一分が過ぎた。蛾は当然壁を登ることができず、まっすぐ歩くことすら既に困難だった。貧弱な脚では身体を支えきれず、また仰向けにひっくり返った。それでも生きるための無駄な努力を続けようとする。力いっぱい翅を動かそうとする。足を動かそうとする。身体を捩ろうとする。だが、その努力は実らない。もう身体はほとんど動かなかった。ただピクピクという脚の痙攣を繰り返すのみ。やがてわずかな痙攣すら止まり、蛾は二度と起き上がることはなかった。


 あとに残されたものは醜い亡骸なきがらと、黒い鱗粉りんぷんだけだった。


 私は虫の動きが完全に止まったのを確認した後、それをちり紙に包んで捨てた。鱗粉は雑巾で綺麗に拭き取った。黒い異物は消え去った。私の部屋は五分前と何ら変わりはない。

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黒い鱗粉 亀虫 @kame_mushi

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