その恋心、忘れませんか?

@asanokuro

第1話

 これでよかったのか、なんてまだわからない。

もしかしたら取り返しのつかないような間違いで、いつかこの時を後悔するのかもしれない。

 だけど、もう苦しまないためにはこうするしかないから。



「ねえ颯真君」

 放課後、二人きりの教室。青かった空が茜色へと移ろい、低い角度から差し込んだ光が薄暗い教室を照らす。彼女の頬は夕日のせいか仄かに朱に染まっていた。

 その中でもはっきりと存在を示す彼女の赤い唇が、ゆっくりと開いていく。

「あのさ……」

 俺は何も言わずにただ次の言葉を待つ。ほんの少しの沈黙の間、速くなる鼓動の音がやけに大きく鳴り響く。

「恋喰らいって都市伝説知ってる?」

 青春の代名詞とも呼べるような夕暮れの教室の中で京が言ったのはそんなことだった。今更告白なんてされるとも思ってないが、少し期待した俺の気持ちを返してほしい。

「なんだそれ?」

「最近女子の間で流行ってるの。なんでも、恋心を忘れる代わりにどんな願いでも叶えてくれるんだって」

「胡散くさ……」

 都市伝説ってもうちょっと現実味がある話じゃなかったっけ。ただのファンタジーじゃねえか。

「私もそう思うんだけど実際会った子がいるの。透き通るような銀髪で中学生くらいの女の子らしいよ」

 ますます胡散臭い。銀髪なんてロシア人とのハーフか二次元の産物だ。そんなのが本当にいるとは思えない。

とはいえせっかくの話題を否定するだけ、というのもあまり面白くないので京の話に乗った。

「んで?その会ったやつは願いを叶えてもらったのか?」

「そうそう、その子は辛い片思いをしてたから『愛してくれる優しい彼氏が欲しい』ってお願いしたら二週間後に告白されたって。ほら、隣のクラスの綾坂君」

「ああ、あれか」

 綾坂は顔立ちがよく文武両道、社交的ではないがミステリアスな雰囲気がある。そのためあまり人脈がない俺でも知ってるくらいには有名で、非常に女子におモテになるのだが、彼には今まで浮いた話が一つもなかった。

 しかし先週、そんな綾坂が急に告白したらしくそれなりに話題になったのだが、まさか京の知り合いだったとは。

「あの子片思いで辛そうだったからよかったんだけど……」

 含みのある言い方をしたあと、京は目を伏せた。

「何か思うところでもあるのか?」

「んー、完全に都市伝説を信じたわけじゃないけどさ。結局片思いは叶わなかったけど、ずっとその人のことを好きだって言ってた。だけど今のあの子はそんなことすっかり忘れてるみたいなの。それって本当に幸せって言えるのかなって」

 確かに、願いの対価に恋心を失くして新たな恋を手に入れる、というのは妥協、あるいは偽物であるように感じる。たとえ幸せだと本人が思っていても、きっとそれは得られなかった幸福の代替品でしかないのだろう。

「ねえ颯真君。もしも恋喰らいに会ったらどうする?」

 そう尋ねる京の瞳は、不安そうに揺れていた。

 どんな願いが叶うのだとしても、その対価がこの少女への恋心だと言うならば――。

「渡さないよ。そこまでして叶えたい願いなんて無いしな」

 これは嘘だ。一つだけ、どうしても叶えたい願いはある。だがその代わりにこの想いを失ったなら本末転倒だろう。

「へえ!颯真君好きな人いるんだ?」

 さっきまでの調子とは一転、京は声を弾ませて机の反対側の椅子から身を乗り出した。

「いるよ」

 昔はともかく、今は好きな人がいることを恥ずかしいことだとは思わない。だから俺は照れることもなくきっぱりと告げた。

「誰誰?」

「絶対教えない」

 ここまで楽しそうに聞かれると不安になる。俺が京の好きな人を聞くとき、不安と期待が入り混じって、きっとこんな風には聞けないはずだから。本音を言えばもっと慎重に聞いてきて欲しかった。

 きっと京は俺の好意になど微塵も気づいていないのだろう。

 いや、多分好意には気付いている。ただそれが友情によるものであることを疑っていないのだ。

 俺も京から好かれているという感覚はある。だが、それが友情なのか愛情なのか、ずっと迷い続けている。

「つれないなぁ」

 京がそう言った直後、校舎中に最終下校の時間を告げるチャイムが響いた。

「もうこんな時間か」

 俺は中身の少ない鞄を持って立ち上がった。

「やっぱり颯真君といると時間が経つのが早いよ」

 京も同じように立ち上がってさりげなく俺の隣に並んだ。

「じゃあ帰ろっか」

「だな」

 いつからこうやって、ときどき放課後に一緒に残って勉強を教えたり、雑談をしたりするようになったのだったか。もう覚えていない。

 この想いもいつから抱いていたのかはっきりとは思い出せない。日々、京と過ごす中で古い思い出の上に新しい思い出が重なり、そしていつしか埋もれていく。

 今日あったこともきっと、いつか忘れてしまうのだろう。そう考えると怖ろしくはある。だけど今の上に幸せな日々が積み重なるのなら、それも悪くはないように思えた。



×××

「由香、広橋君と付き合ったんだって?おめでと」

「もう聞いたの!?早すぎだって」

 図書委員会の当番を終えて教室に帰って来ると女子生徒が二人、話をしていた。一人は京でもう一人は確か片桐という京とかなり仲のいい友達だ。

 女子二人が恋バナをしている途中で教室に入るのも気まずく、中から見えないように扉の横の壁にもたれかかった。

「ほらほら、私に隠し事は無しだよ。いつから?」

「えー、じゃあその代わり京の話も聞かせて」

「私?いいけど私の話聞いても面白くないよ?」

「またまた、どうせ矢達君といろいろあったんでしょ。二人が付き合ってるって噂になってたよ」

 俺の名前が出て鼓動が早くなった。もしかしたらずっと知りたかった答えが聞けるかもしれない。

このまま話を盗み聞きすることはよくない事だとわかっている。それが京との信頼関係を踏みにじる行為だと理解している。それでも、俺はここから動かなかった。

 良心に従っていればよかった。せめて耳を塞ぐなりしていればよかった。

そうすれば、たとえそれが意味のない先延ばしだとしても、まだ逃げることができたんだから。 

「あー、よく勘違いされるけど私が好きな人矢達君じゃないよ」

 その京の一言が鋭利な刃物となって、深々と胸に突き刺さる。

この場にいることが耐えられず、鞄を置いたまま教室の前から逃げ出した。何も考えずただ闇雲に走った。前を見ず、振り返りもせず、走り続けた。京から少しでも離れられたくて。部活中の生徒や掃除をしている事務員の横を駆け抜けた。

校舎から出て二つ目の角を曲がったところでようやく動かし続けていた足を止めた。それで少し落ち着いて余裕ができたからか、さっきのことを思い出してしまう。

希望は一切の悪の中でも最悪のものである。これは誰の言葉だったか。今ならその言葉の意味がわかるような気がする。

京からの好意はきっと異性としてのものだと、心のどこかでそう思い込んでいた。ほんの少しの勇気を出せばきっと明るい未来があるのだと、そう信じていた。

だがそんな淡く、儚い希望はたやすく壊れてしまった。

ふと、左肩あたりを見つめる。そこには何もない。わかっているのだけど、どうしても見てしまう。

そこはいつも京の頭があった場所。歩くたびに揺れる頭を見つめていると、少し首をかしげて『どうしたの?』とほほ笑みながら聞くのだ。そして俺は『なんでもない』と言って顔を逸らす。

ただそれだけのことが幸せだった。一緒にいて、たわいもないことを話して笑いあう。それだけでよかったはずなのに……。

いつからそれ以上のことを望むようになったのだろうか。

どうしてそんなことを望んだのだろうか。

欲張らなければこんなに苦しむことはなかったのに。

もしもそれがこの想いのせいだというのなら――

「その想い、忘れたい?」

 どこからともなく声が聞こえてきた。その声は鈴の音のように静かで、水面に広がる波紋のようにあたりに響いた。

驚いて顔を上げると目の前に一人の少女が立っていた。

その陶器のように白い肌と異常なまでに整った顔立ちはまるで人形のようで、眩い夕日に照らされた透き通るような銀髪も相まって彼女の佇む姿は一枚の絵画のようだった。

「忘れたいのなら私が喰らう」

 それは昨日、京から聞いた話だった。銀髪で中学生くらいの女の子。

「お前は?」

 恋を喰らい、願いを叶える彼女の名は――

「私はノノ。人間には『恋喰らい』と呼ばれているらしい」

 そんなものいないと思っていても、この異質な少女が嘘を言っているようには見えなかった。

 いや、多分俺は信じたいのだろう。幻想でも空想でも縋りつきたいのだ。

この苦しみから逃れる術を探しているのだ。

「この想いを忘れさせてくれるのか?」

 これさえなければきっと、もう苦しむことはない。

 これさえなければきっと、もう一度彼女の隣で笑える。

「あなたが望むなら」

 だったら俺は――。


×××

「ただいま」

 家に帰ると、ちょうど母さんが玄関の前にいた

「おかえ……って手ぶら?鞄は?」

「置いてきた」

「置いてきたって、弁当どうするのよ」

「コンビニで買ってく。弁当箱も明日洗うから」

「まあいいけど。ごはんもうすぐできるわよ」

「今日はいらない」

 流石にこんな気分でご飯が喉を通るとは思えない。

「何かあったの?」

「……何もないよ」

 何もなかった。そうでなくちゃいけない。

俺は京のことなんて初めから好きじゃなかった。ずっとただの友達だった。

それでいい。

 母さんの次の言葉を待たず自分の部屋に行って、着替えもせずにベッドに寝転がった。

 もう今日は何も考えたくない。電気を消そうとするとスマホの通知音が聞こえた。画面を見ると京からLINEだった。

『カバン置いてあるけどまだ学校居るの?』

 メッセージだけ確認してスマホを放り投げた。

明日からはいつも通りにするから。だからせめて今日だけは許してくれ。

改めてベッドに寝転がって目を閉じる。

意識も、心も、暗闇に溶けていくようだった。


×××

「ねえ、颯真君ってば!」

 放課後、二人で机を挟んで話しているといきなり京が大きな声を上げた。

「ん?どうした?」

「ん?じゃないよ。何回も呼んだのにずっと反応ないから無視されたのかと思った」

「ああ、悪い」

「今日の颯真君なんか変だよ?具合悪いの?」

「いや大丈夫だ」

「ならいいんだけど」

 そう、大丈夫だ。

 昨日、ノノと名乗った少女は確かに俺の恋心を喰った。

この胸の中に身を焦がすような想いはもうありはしない。これで俺はいつも通りに振る舞える。

 放課後に二人で残って、二人で話して、二人で帰る。

 たわいもないことを笑いあう。ただ一緒にいられることが幸せ。そんな日々を送れるはずなのだ。

なのに、この胸の中が空洞になったような途方もない虚無感はなんなのだろう。

「もう今日は帰ろっか」

 いつもと違う俺を心配してか、最終下校まではもう少し時間があるのに京はいそいそと自分の荷物を片づけた。俺も特に反対せずそれに倣った。

 先に支度を終えた京はずっとせわしなく手を動かす俺の方を見ていた。

「どうかしたか?」

「なんでもないよ」

「なんだそれ。準備できたし行くか」

 俺が席を立つと京がその隣に並ぶ。大丈夫、いつも通りだ。

 校舎の中を歩いているとまばらに人の声が聞こえてくる。できるだけ見られないように人通りが少ないところを通って校門に向かった。

「そういえば昨日由香から聞いたんだけど」

 少し遠回りしたおかげか周りに人は誰もおらず静寂が漂う中、その声はやけに大きく聞こえた。 

「私たち付き合ってるって噂されてるらしいよ」

「へえ」

 そりゃよく二人で一緒にいればそんな噂も立つだろう。むしろ今まで何も言われていなかったのが不思議なくらいだ。

 なんて考えているときょとんとした顔でこちらを見つめる京と目が合った。

「どうした?」

「颯真君なら絶対うろたえると思ってたのに意外と冷静だったから…」

 確かに以前、というか昨日までの俺ならきっとみっともなく動揺して苦し紛れに返答していただろう。だが今は、そんな噂一つに惑わされる心はもう持っていない

「もしかして迷惑……だった?その、噂されるの」

 俺がぶっきらぼうに言ったせいか、京は不安げに聞いてきた。

 当然俺は迷惑ではない。だけど京はどうなのだろう。他に好きな人がいるのに俺と噂されてもいいのだろうか。

「まさか、俺は気にしないよ。京は?」

「私も颯真君となら噂されてもいいよ」

 いつもこんな言葉を言われて勘違いしてきた。それが友情だと知らずに、ずっと期待していた。

 だけどそれが愛情によるものでないことはもう知っている。

「なんてね!」

 京は少し早足に俺の前を進んでいく。俺はその後ろ姿を少しのあいだ追いかけることが出来なかった。

 俺が立ち止まったままなことに気付いて京が振り返った。

「どうしたの?」

「なんでもない」

 そう言われてようやく彼女を追いかけた。拭いきれない違和感を抱えながら。


×××

 京への想いを失くしてからもう一月が過ぎた。

 時間が経てば消えていくと思っていた違和感は、むしろ日に日に増してゆく。

 それに俺と京の関係も少しずつ、けれど確かに変わり始めていた。

 というより俺が変わったのだろう。

京への恋心が消えた時に、関心も一緒に消えてしまったのかもしれない。

 あるいは、初めから京に友情なんて抱いていなかった。だから俺と京を繋いでいた感情が無くなって、徐々に壊れていっている。

 いづれにせよ、俺と京が一緒にいることは以前よりも明らかに少なくなった。

 あの想いが無ければ元に戻れる、なんて思っておきながらその結果がこれだ。

 自分勝手な自分が嫌になる。

だけどこうするしかなかった。

そう自分に言い聞かせていた。


×××

 放課後、遊びの予定を立てたり、部活に行く生徒によって喧騒に包まれる中、人の隙間から京が誰かと話しているのが見えた。

 俺は彼を知らない。どうやらうちのクラスではないようだ。

 彼と話す京の表情は、長い時間を共に過ごした俺でも一度も見たことないようなものばかりだった。

きっと彼がそうなんだろう。

 そう思うと空虚な感覚が少しずつ消えていった。

 それは決して『満たされた』のでなく、言うならば『何か』を入れる器そのものがなくなったような、そんな感覚だった。

それはどこか諦めに似ていた。


その後、俺と京は机を挟んで向かい合っていた。

いつもの、と言うには頻度が落ちた行為。慣れ親しんだと言うには違和感がある光景だった。

もう終わらせるべきかもしれない。これ以上は互いのためにならないから。もう傷つけあうことしかできないから。それならばいっそ――。

最終下校の時間を告げるチャイムが響いた。

「帰ろっか」

「だな」

 夕暮れの教室で二人、隣に並んだ。ただそれだけだった。それ以上の感情も、望みもない。

 俺が願ったのはこんなことだったのだろうか。

 きっと、本当は違うのだろう。

 逃げて、諦めて、自分に嘘を吐いて、自分が傷つかないようにした結果がこれなのだ。

 こんな関係は間違っている。

 だからもう終わらせよう。

「なあ京」

「どうしたの?」

 京が後ろにいる俺の方を振り返って少し首を傾げた。

 放課後、二人きりの教室。青かった空が茜色へと移ろい、低い角度から差し込んだ光が薄暗い教室を照らす。

 これから言うのが愛の言葉だったなら、どれほどよかったことか。

 だが俺は別離の言葉を告げた。

「もうこういうの止めないか?」

 京は訝し気に聞き返した。

「こういうのって?」

「放課後に二人で勉強して、一緒に帰って。そういうの」

 京の表情には驚きと悲しみと、なによりも困惑があった。

「……何で?」

「好きな人がいる。だから噂されたら困る」

 ひどい嘘だ。だけど京に全てを話すことなどできるわけもなく、これしか方法がなかった。

 やはり京は俺に好きな人がいることよりも、拒絶されたことに動揺していた。全部俺の勘違いということが無くて本当によかった。

「前はされてもいいって言った」

「状況が変わったんだよ」

 状況など何も変わってはいない。変わったのは俺の心だ。

「そんなの嫌だよ……。颯真君と――」 

京が言い終わる前に、俺は京に背を向けて教室を出た。

その言葉を聞くべき人は俺じゃないから。


後ろの扉が開かれる音は聞こえなかった。



これが正しかったなんて思わない。けれどこのまま関わっていてもきっと互いに傷つけあうことしかできなくて。

 だから、これでよかったんだ。



×××

俺は日が落ちた暗闇の街を一人で歩いていた。

部活動の生徒もとっくに帰っていて、このあたりに人は全くいない。

きっと、彼女を除いては。

「ノノ、いるか?」

 名前を呼ぶと少女はいきなり目の前に現れた。驚いて後ずさる俺を気にも留めずに、少女は小さな口を開いた。

「何か用?」

「そういえば願い事してなかったなって」

 俺はあの日、京への想いを忘れるためにノノを頼った。もう願ってまで欲しいものなど何もなかったので結局何も言わなかったのだ。

「まだ間に合うか?」

「いいよ。聞いてあげる」

「京と……名前は知らないけど京が好きな人が付き合うようにしてほしい」

 ノノは表情一つ変えなかったが、俺の言葉が意外だったように見えた。

「いいの?」

「いいよ。多分これでいい」

 そう言った時、俺の視界に写るのはアスファルトだけだった。

 顔を上げると何かをこらえきれなくなってしまいそうで、俺はそのまま元来た道を引き返した。




どうか君の行く末に、幸福があることを願って。

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