後.
家に帰ってお母さんにポスターを見せた。「え! すごい! 御影くんと映美ちゃんのサインだ!」とはしゃいでくれて、ちょっとだけ誇らしい気持ちになった。自分が褒められているわけでもないのに。
「くうちゃんはすごいねぇ」
お母さんはポスターを灯りにかざしながら、ほうっと呟いた。すごいのかな、くうちゃんは。でも言われてみれば、御影くんがくうちゃんの考えたお話をもとに行動して、くうちゃんの考えた通りのセリフをしゃべったのだ、思うと、それはなんだかものすごくすごいことなのだ。という気がしてきた。
なのにひさびさに会ったくうちゃんはくたびれていて、なんだか辛そうだった。稀代のイケメンを主演に映画化まで実現していて、それでもくうちゃんは辛いのだろうか。
私は部屋に戻るなり、棚に入れたっきり取り出しもしなかった、くうちゃんの小説を手に取った。映画の原作になった、三作目。実のことを言うと、私はろくに本も読めないのに、くうちゃんの小説は出るたびに買って集めていた。可愛い背表紙のものやかっこいい字体のものは、眺めて楽しむ。ページを開くと頭が痛くなるので読まないけど、くうちゃんの小説が書店に並ぶたびに、なんとなく手に取って買ってしまう。ハードカバーも、文庫も、エッセイも、アンソロジーも。中尾すばるがつぶやいた書籍のほとんどを買って集めていた。なんて優秀な顧客だ。くうちゃんはたぶん私がくうちゃんの作家アカウントをフォローしていることすら知らないと思う。
表紙をめくる。薄い紙をのけて、中表紙をめくる。文字がぶわっと並んでいて、眩暈を起こしそうになる。それをなんとかこらえて一行目を読む。本を投げ出しそうになるのをこらえて、二ページ目。主人公、御影くんが、持ち場を離れて休憩に向かう。映画のシーンを思い出す。小さな工場で、御影くんは塗装の仕事をしている。御影くんは小説の中ではタクミという名前で、髪も短髪でがっつり日焼けして、いかにも健康的だった。
あ、でも前よりも読めるかも、そう思ったところに、くうちゃんからLINEが届いた。
「やばい、書ける」
「もう七千文字書いた」
「ああそう」
「いける気がする」
「現代のプロレタリア作家に俺はなる」
「ぷろ?」
「レター?」
「ところで今“それでも明日は”読んでる」
「え、今?」
「おもしろかった」
くうちゃんは私が中学生になる前に東京へ行ってしまった。私は中学で家を引っ越し、くうちゃんの実家のご近所さんですらなくなってしまい、お互いに連絡先を知らないままだった。早熟なくうちゃんが紡ぎ出す小説は、年下の私には難しすぎた。小、中、高と、ずっと読めないと思っていたけど、本当は違った、いつの間にか前よりも読めるようになっていたのだ。そのことに気がついて興奮していた私は、くうちゃんとたくさんのメッセージをやり取りした。
「嘘ばっかり書いてるんだけど」
「そういうことは黙ってればいいのに」
「ライバルキャラにだけはモデルがいて」
「俺の一番嫌いなやつ」
「そいつが読者人気高いのがむかつく」
「ファーーーーーー」
「大体愛ってwww」
「俺がこんな現状なのにwww」
「友情とはみたいなことを書いてるやつは大体クズ」
「うるせぇ」
「それ以上喋んな」
「氏ね」
くうちゃんと話しているとげんなりしてきたので、結局小説は最後まで読めなかった。その日はとりあえず寝た。
それからしばらくの間、くうちゃんは新作の進捗状況を逐一報告してきて、メンヘラ彼女みたいだった。そもそもくうちゃんは私をなんだと思っているのか? 幼馴染? 友達? 義兄弟? 私はおばさんの月命日にお菓子を買ってはくうちゃんの家に赴き、くうちゃんは「企画こけた、もうだめ」「死にたい」「エッセイ書いたらめっちゃ叩かれた」「耐えられない」「くくろう」「それしかない」みたいなことを毎回言っていて、おばさんがこの場にいてくうちゃんの発言を聞いていたらなんて言っただろう、あんなに陽気なおばさんからなぜくうちゃんみたいな人が生まれたのか、というようなことを考えながら自分が持ち寄ったお菓子を食べ、最終的に私は自分が食べたい、ちょっと高めのスイーツを携えくうちゃんの家にお邪魔しては、手土産を三分だけ仏壇に供えて綺麗に食べて帰る、ということを繰り返すようになった。もちろん片付けなどはくうちゃんの役回りである。
小学生の頃は、六つ上のくうちゃんのことをずいぶん大人だと思って接していたけど、今見てみるとなんと子供っぽい三十代だ。内面の成長と年齢というのは相関関係がありそうでない。小学生の私の前で中学生のくうちゃんがめそめそすることはなかったのに、なぜ適齢期フェロモン全開のはずの私の前でくうちゃんがめそめそぐだぐだしているのか? まだ中学生の頃のくうちゃんの方が、私を異性と認識してとがった姿勢を見せていたように思う。ん? とがっていたから大人びた小説を書いて絶賛されたのであって、今のくうちゃんはもしかして、あのままの態度を続けていたらただの
ということを考えてみたけど面倒になったのでやめた。お母さんの作ってくれたテールスープに冷やご飯を突っ込んで煮込む。私たち親子は相変わらず古びてちょっと黴臭い、家賃がお安めのマンションの一室を間借りして生活していて、住む土地が変わっても、やること自体はあまり変わらない。私は電車を使って通勤し、お母さんは車を使ってデイサービスの仕事にでかける。そのうちお母さんが再婚したりして、私はまた住む場所を移ることになるかもしれない。そのときのためにお金を貯めておかないといけない。いつか私が恋愛をして、お母さんのところを出て行く日だってやってくるのだろうか? かれこれ六年くらい全くなにもないんだけど? もうずっとこのままお母さんとふたりで「御影くん尊い」とだけ呟いて暮らしたかった。
しばらくしてくうちゃん、じゃなかった、中尾すばるの新刊が出た。おばさんが亡くなって二年と半年が過ぎた頃だった。くうちゃんは定期的に「俺には才能がない」「枯れた」「もうとっくに使い切った」という風なモードにおちいり、それが一段落すると「嘘みたいに書けるんだが」「やばい」「自分の書いたものがクソおもろい」「天才では?」というモードに入って、そのあとまた死ぬほど落ち込んだ後、誰かに慰められてのそのそと書き出すということを繰り返しているみたいだった。「働くと書けなくなるので仕事辞めた」「鬱」「死にたい」「まともに社会人もできなかった俺にはこの道しかない」「死にたい」「死ぬ」「十七年前に戻って作品を破き去ってくる」「小説なんて書くんじゃなかった」って言い出したときはさすがにどうなることかと思ったけど、なんとか生きてるみたい。みたい、というのは途中から連絡がつかなくなって、どうもスマホを解約してしまったみたいだったから。
死んだのかな? と思うと怖かったけど、家に見に行く勇気もなくて、なによりもしも見に行って、もうそこにくうちゃんがいないのがわかるのが怖くて、あまり考えないようにしていた。すると、中尾すばるのツイッターアカウントで三年ぶりの告知があった。「新刊出ます」「買ってね」
生きてたんだ、そう思って、思わずスマホを手にしたままその場にへたり込んでしまった。「大丈夫です?」コンビニの会計に並んでいたところだったので、見知らぬお客さんに心配されてしまった。
「大丈夫」
「失踪してた友達の消息がわかりまして」
「生きてました」
そう言うと、なぜかお姉さんはコーヒーをおごってくれた。
「良かったですねぇ」
お姉さんの笑顔に安心して、泣きそうになった。こういう場面に、もしもくうちゃん自身が遭遇したとしたら、物語にしてしまうんだろうか。「中尾すばるの新刊、買ってくださいね」とお姉さんに言いそうになったけど、ぐっとこらえた。ほんとうは、道行く人みんなに、「買ってね、くうちゃんは生きてました」と言いたかった。
それから数か月後、本当に本が書店に並んでいた。夢じゃないかと疑いながら手に取った。レジに並んで、会計をする。レジ打ちをしている書店員さんに向かって、「これ私の幼馴染の本なんです、生きてたんです、彼」と言いたくなったけど、やっぱり言えなかった。「カバー、どうされます」「あ、いらないです」というやりとりをして、カバンに本をしまった。
書店には山ほど本が並んでいて、当たり前だけど、そのほとんどは知らない人が書いたものだった。くちゃんの本は、そのほんの一部だった。こんなにたくさんの本があるのに、毎月、毎週、毎日新しい本が出る。本棚からにょきにょき、と本が生えてくるところを想像して、怖くなった。私はくうちゃんの新刊をこっそり目立つところに移動させて、名残惜しさを感じながら書店を去った。
ショッピングモールのフードコートでオレンジジュースをすすりながら、買ったばかりの本をぺらりとめくる。相変わらず意味は全然分からない。死のうと思って川を眺めていた男が水死体が浮いているのを見つける。慌てて警察を呼ぶけど、誰も男が見た水死体を見つけることができない。水死体はきれいさっぱり消えていたのだった。虚言を疑われた男は死体を見つけることに躍起になるのだけど―――
ページの真ん中に、紗栄子 という文字を見つけた瞬間、私は反射的に本を閉じた。本を投げ捨てる勢いで、机に伏せた。
心臓が躍った。嫌なドキドキだった。なぜだろう、怖いと思った。私はそのまま、休日の家族連れの様子や、高齢の女性同士が仲睦まじく談笑しているのをじっと眺めていた。
家に帰ってからも本を開く気になれず、できるだけいつも通りに過ごそうとした。お風呂から上がってテレビの前をうろうろしていると、電話が鳴った。就寝前の時間に、固定電話が鳴るのは珍しい。どうしても嫌な知らせを連想してしまう。ためらったのち、受話器を取った。
「もしもし」
「あ、もしもし」
「はい?」
「おれおれ」
「どちら様ですか?」
「俺です。そらです」
あ、と受話器を落としそうになった。
「お礼を言おうと思って、さえちゃんのおかげでまた書くことができたから」
このまま通話を切ってしまおうか、迷った。でもできなかった。
「あのさ、」
すこし迷って、でもやっぱり聞いてしまうことにする。
「紗栄子って……」
「あ、そう、わかった?」
「わかるよ! ってかなんでそのまま使った」
「いい名前だと思ったから」
くうちゃんはへらへらと紗栄子のキャラクター概要を説明し始めた。三途の川の水先案内人なのだそうだ。人間ですらねぇ。私は読む前にあらすじや物語に隠された作者の意図などを聞かされてしまってげんなりした。
「まだ読んでないのに」
「え! ごめん」
くうちゃんは謝ってはくれたものの、私の読書の楽しみは失われたきり戻ってこない。やはり神様が私に読書を許してくれない。
「っていうか! 発売からたった一週間で! ネタバレを! 作者自ら!?」
怒りのあまり言葉にならない。これが嫌でネット断ちすらしていたのに。
「俺からすれば書き上げたのだいぶ前だから」
これでも我慢したんだけどごにょごにょごにょごにょ、と言うくうちゃんに本気でイラついたので電話を切った。耳元にあ、というくうちゃんの声がいつまでもこだましている気がして、かき消すように強風を吐き出すドライヤーで髪を乾かした。
くうちゃんはこれでも結構有名な作家さんなのだ。紗栄子なんて書いたら私のことだってみんなにばれてしまう。と、思ったけど六つも年が離れているので私とくうちゃんに共通の友人はおらず、そもそも私は友達が少なく、その人たちがくうちゃんの小説を読むはずもなくて、きっと誰もくうちゃんの小説に書かれた私の名前には気がつかないのだろう。すると今度は急に自分が自意識過剰だったように思えてきて、ますます恥ずかしくなり、読む気が起きない。
私は部屋にあるくうちゃんのデビュー作を手に取った。以前に「どんな話?」と尋ねたら、怖くて不気味な話、と本人から聞いていたので、読む気がしなかった。今なら読めるかも、と思って中を見てみる。小学生の男の子が大人の男の人を殺してしまう物語だった。これを書いた当時、くうちゃんは担任にいじめられていた。もしかするとこの小説に書かれている被害者は、担任のことだったのかな、と思った。
現実のくうちゃんは担任を殺したりはせず、元気がないなりに登校し、ぎりぎりの出席日数で卒業した。今思えば休んでいるあいだに小説を書いていたのかもしれない。
「あー、だめだ」
くうちゃんの小説に、もしかすると自分やおばさんの影が隠れているのかもしれない、そう思うと全然読めないのだった。世の中の人はいったいどうやって、作られた物語の世界に没頭するのだろう。
でももしかして、くうちゃんがもっともっとすごい作品を残して、偉い人になったら、何十年かしてくうちゃんの小説を研究対象にする人がでてきたりして、「この紗栄子という女性はどうやら実在の人物だったらしい」「写真見てこれ、超美少女」「インスピレーションの源となるような、魅力的な女性だったようですね」みたいなことを考えたり発表したりするのだろうか。そう思うと少しだけどきどきして、自分が死んだ後も自分のことを考えてくれる人がいるのかもしれない、と思うと、名前を貸すのもそう悪いことではないように思えてきた。
そのためにはくうちゃんにたくさん書いてもらわないと。スマホをぽちぽち触りながら、今回の小説の評価を探す。難しいことを言ってめちゃくちゃに貶している人もいれば、すごく無邪気に面白かった、と喜んでいる人もいた。紗栄子のキャラクターをイラストにして投稿している人もいた。は? めっちゃ可愛いんだが? 気分が良くなり、紗栄子をテーマにした二次創作などを漁っているうちに気分が悪くなってやめた。
そうこうしているうちに、普段使わないメールボックスにメールが届いていることに気がついた。くうちゃんだった。
「ごめん」
とだけ書いてあって、どこでどうやって撮ってもらったものなのか、くうちゃんと斎藤御影くんとのツーショット写真が添付されていた。生まれて初めてくうちゃんのことが死ぬほど羨ましいと感じた。画像はそっこーで保存した。それからしばらく考えて、
「AAじゃない、BよりのAカップです」
と返事をした。小説内で紗栄子は貧乳というキャラ設定にされていて、それがずっと気に障っていた。紗栄子ファンがまな板とかおろし金とあだ名をつけていたのを思い出す。貧乳、だがそこが良いってなんだよ、だがってなんだ、ころすぞ。
「出演料をよこせ」
考えていたらますますムカついたので、メールを連投した。何十年先の話より目先のカップ数だろ、どう考えても。今すぐすべての本を回収して訂正しろ。今度会ったらくうちゃんをありったけの憎しみを込めて殴ろうと思った。
君の名前を借りました。 阿瀬みち @azemichi
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