君の名前を借りました。

阿瀬みち

前. 

 くうちゃんの家に足を踏み入れるのは何年ぶりだろう。数えてみたら、かれこれ十二年以上になる。それなのに、家の外観から中身まで、なに一つ変わっていなくて、胸がじーんとした。なにもかも、あれもこれも、子供の頃の、まんま。靴箱の上の家族写真も、どこを見ているかわからないカエルの置物も、くうちゃんが小学校の時に作った、なぞのオブジェ太陽の塔風味の焼きものも、ほこりをかぶってそのままだった。タイムトリップしたみたい。私の実家はとうにお母さんが部屋を引き払って、もうこの近辺にはないのだ。今はくうちゃんの家だけが、私の子供のころの思い出をそのままにとどめてくれている。  


「まぁ、茶でも」

 ふちと底に色がついたガラスのコップに麦茶を入れてもらう間、私はきょろきょろと辺りを見まわした。冷蔵庫には相変わらずオレンジページの切り抜きと、ごみの日程表が貼りだされている。食器棚の位置、変更なし。食卓のテーブル、少し上に物が増えたかな? 電子レンジ、新しくなってる。その他調理器具、変わりなく。

「お菓子、ぼんち揚げしかなかった」「うん」

 くうちゃんは申し訳なさをごまかすみたいに、ぼんち揚げの袋をぷらぷらと揺らした。

「おばさんもまだ若かったのに」

 くうちゃんのおばさんが脳溢血で帰らぬ人となったのが、平成最後の春のことだった。私の家は父が小さいころに亡くなって、母がひとりで私を育ててくれた。そのときに親身になって私たち家族の面倒を見てくれたのが、くうちゃんのおばさんだった。

「おじさんとふたり暮らしでしょ? 料理とか、する人いるの」

「おやじがたまになんか作ってる」

「なんかって」

「袋ラーメンとか」

 仏壇のある和室に通されて、私は持ってきたお菓子を仏壇に供える。手を合わせている間、くうちゃんがお菓子の袋を開ける音と、ぼりぼりとおせんべいをかじる音が室内に響いていた。くうちゃんはおばさんのいない世の中に慣れきってしまったのかもしれないけど、私はまだおばさんの不在をはっきりと受け入れてはいないのに。静かに拝ませてもくれない、相変わらずデリカシーがない。

「ところで」

 仏壇に手を合わせ終えて、私は体ごとくうちゃんに向き直った。

「あの話のことなんだけど」

「ああ、あれね、待ってて」

 くうちゃんがこともなげに言って立ち上がるので、私は麦茶に手を伸ばし、ここぞとばかりに喉を潤した。そわそわする。落ち着かない。はやる気持ちがさっきまでのおばさんを悼む気持ちを薄れさせてしまうような気もしていて、どことなくいたたまれない。デリカシーがないのは私も同じだった。

 

 戻ってきたくうちゃんの手には、丸められたポスターが握られていて、私はどうしたってそちらに向かってしまう意識を振り払って、おばさんの思い出話をはじめた。自分に、ここにきた本来の意味を思い出させるみたいに。

 くうちゃんのおばさんは豪胆で愉快な人で、そんな人からなぜくうちゃんのような、シャイで照れ屋な子供が生まれたのか、まったくもってわけがわからない。おばさんは中学生の私に「しぶとくこの世にしがみつく予定だから、その頃はよろしくね」と微笑んでいた。「私の祖母も、曾祖母も、すごく長生きだったんだよ。百歳近くまで生きた。だからきっと私もなかなか死ねないね」そう言っていたのに、ある日突然亡くなってしまうなんて、わけがわからない。世の中おかしなことばかりだ。


 くうちゃんがちゃちゃっと書いた小説でデビューしたのが十五歳の時だった。みんなが天才とほめたたえた。十九歳の時、満を持して書き上げた中編小説で、小説を普段読まない人までもその名前を知っている、国民的な文学賞を受賞した。そのころのくうちゃんのことを私はよく知らない。くうちゃんはこの家を出て、単身東京に部屋を借りて、大学に通いながら小説を書いていた。

 高校生だったくうちゃんに、大学でも小説を勉強するつもりなの? と聞いたことがあった。「まさか」くうちゃんは言った。「何が悲しくて、一生を小説に捧げなきゃいけないんだよ、好きなことやるよ」私はくうちゃんを怒らせてしまった気がして、それ以上のことは聞けなかった。もしかしてくうちゃんは小説を書くのが好きではないの? と聞いてみたかったけど、聞けなかった。


 くうちゃんが中学を卒業する少し前、くうちゃんは富永空から中尾すばるになった。なってしまったのだと私は思っていた。私が知っているくうちゃんは、人見知りで、ペットの亀と仲良く語らっているくうちゃんで、15歳以降のくうちゃんは、中尾すばるという小説家だった。中尾すばるの住んでいる世界は私のところから遠くにあって、やがてくうちゃんは物理的にも遠くへ引っ越してしまった。私はときどきくうちゃんのおばさんと会って「くうちゃん元気ですか」「相変わらず電話もよこさないの。元気にやってんじゃない?」などと言いつつお互いの近況を話した。私はくうちゃんのおばさんが大好きだ。面白くて、いつも元気で、私のことをお母さんの次に大事にしてくれる。


「ポスター、見てもいい?」

 待ちきれなくなって、切り出した。くうちゃんが机の上にポンと置いたポスター。くうちゃんの三作目の小説が映画化されたときにもらったものらしい。とある男女の人生を時間軸を移動しながら交互に描いた物語だった。くっつきそうでくっつかない切ない恋模様が多くの人の共感を呼んだとかなんとか…。正直なことを言うと、くうちゃんの書く小説の良さは私にはわからない。くうちゃんの実力がどうこう、という話でもなくて、そもそも私はあまり本を読まないし、物語なんてなおのこと、自分で手に取ろうとは思わない。架空の人のお話を読んで楽しいのだろうか? くうちゃんは子供の頃から本ばかり読んでいた。くうちゃんのお下がりにたくさんの本をもらったけど、私はどれも最後まで読むことができなかった。


 でもあの映画は別だ。お話は難しくて何度見ても理解できなかったけど、主演の斎藤御影くん。この人を見ているだけでなんだか切なくて楽しい、浮ついた気分になる。くうちゃんはなんと主演の二人と他数名の役者さんがサインを入れたポスターを持っているらしかった。しかもそれを私にくれるというのだ。夢みたい。


 丸まったポスターを恐る恐る広げると、くうちゃんに聞かされていた通り、御影くんのサインがどーん! どーん! どどーん!! 怖くなって私はすぐにポスターを丸められていた状態に戻した。くうちゃんが目を丸くして私を見ている。


「え、なんで?」

「こわくて見られない」

「え……」

 くうちゃんは呆然とおせんべいをかじった。

「くうちゃんが原作者っていうのほんとだったんだね……」

「今までなんだと思ってたの?」

 紗栄子の人間性の図太さにはびっくりだわ、と、くうちゃんはおせんべいを噛む合間に呟いた。

「でも、ほんとにもらっちゃっていいの?」

「いいよ、もういらない。今だから言うけど、それ俺書きたくて書いたわけじゃないし」

「え、なんで。面白かったって人たくさんいるのに」

「書けって言われて書いたんだよ。勧められたとおりに、愛とか恋とか友情とか、俺の嫌いなもの全部書いたらそうなった」

 全部嘘だよ、リア充氏ねって呪いながら書いた。と言うくうちゃんの顔がなんの屈託もないので、余計に憎らしく感じる。映画の感動を台無しにされたような気持になった。大切なものを穢された感じがする。


 ひさびさに会ったくうちゃんはどこかやさぐれていて、寝ぐせも直してないし、服もよれよれだし、なんならお腹もちょっと出てるし、全体的に残念なおじさんだった。今のくうちゃんは、私の知っている富永空でもなくて、かといって中尾すばるもやめてしまったみたいで、どうやって接したらいいのか、迷う。もう小説は書かないの、と聞きたかったけど、怖くて言葉にできなかった。


 くうちゃんは最近小説を書かずに工場で働いている。医療用の薬品を出荷する工場とかなんとかで、ラインの稼働の関係で夜勤の日があり、不規則な生活が長く続いていた自分には合っていると思う、というようなことを言っていた。


「紗栄子は俺にもっと書けとか言わないから、いいね、安心する」


 おばさんが亡くなってから東京の部屋も引き払ってしまったみたいだ。若いころに有名になってしまった人にありがちなように、くうちゃんは消耗しきってしまったのかもしれない。カルキンくんとか、坂上忍とかみたいに。

「私は、だって、小説読まないから。くうちゃんの小説が好きな人は、もっと書いてって思ってるんじゃないの」

「俺はもう書けないと思う」

 ふうん、と私はぼんち揚げに手を伸ばした。あまじょっぱいおせんべい、固いので噛むと会話が聞こえなくなる。くうちゃんが弱音らしきものを喋っていいたけど、私の耳にはばりばりとおせんべいを咀嚼する音しか聞こえていなかった。ひさびさに食べるぼんち揚げは病みつきで、気がつくと袋の中身がほぼすっからかんだ。こんなときおばさんがいたら、すっとおしぼりやウエットティッシュを出してくれたのに、と思いながら、手洗いに立った。くうちゃんは、ありがとう、なんかすっきりした。と言って、またなにか書けそうな気がする、と照れ臭そうに言った。あれ、さっき書けないって言ってたのに? あんなにひねくれた態度だったのに? と思って一瞬面食らったけど、気がつかれないように、良かったね、とだけ返した。




 くうちゃんがどこかの出版社の新人賞を受賞して本を出した、というのをお母さんから聞いたのは、小学三年生の冬だった。お母さんは嬉しそうに、くうちゃんの本を自腹で買いためて、職場の人やPTAの集まり、自治会のみなさん、商店街の人々、いろんなところに配りまくった。

「ねー、それおもしろい?」

 私がたずねると、お母さんは「わかんない」と言った。お母さんも私と同じで、物語を読まない人だった。家にあるのは雑誌とレシピ本くらい。

 デビュー作はグロテスクな小説で、子供が書いたにしては人間関係のどろどろが良く表現されすぎていて、それが審査員の度肝を抜いたらしい。周囲の期待を裏切って、くうちゃんは次にファンタジックな短編集を書いた。Wikiにはそう書いてある。Wikipediaに中尾すばるの名前が日本の小説家、とジャンル分けされているのを見て、ああ、世の中の人は本当にくうちゃんを小説家として認識しているんだな、としみじみ思う。

 くうちゃんのPNをググると5ちゃんのアンチスレとかが引っかかる。終わったとか、枯れた、とか好き勝手言われていて、書き込みをしているほとんどの人が、くうちゃんのことを知らずに中尾すばるのことを書いているのだと思うと、不思議な気持ちになった。くうちゃんを知らない人にとって、くうちゃんは、小説家・中尾すばるなのだ。


 大学生になったのを境に、くうちゃんはテレビにも出るようになった。それで余計にディスにも熱が入ったみたい。チャラついた大学生作家はいろんな人の心の柔いところをチクチクと刺激する存在だった。らしい。その頃くうちゃんは、作家名義のSNSアカウントで、テレビに出ることが特別だ、と思っている人は、特別でない人がテレビに出ているのが我慢ならないんだろうね、と発言をして、ファンと口論になり、炎上している。その頃には私もくうちゃんのツイッターアカウントをフォローしていた。

 炎上の様子をながめているのは、なんだか不思議な感覚だった。幼馴染が、ネットではちゃめちゃに叩かれている。知らない人が寄ってたかってくうちゃんをいじめている。すごく変な感じ。私はたまらなくなって、あんまり使っていなかったアカウントを使って、「そんなに悪いやつじゃないと思うよ」などと援護射撃をした。それが火に油を注ぐ結果になり、悪いことをしたなぁと思っている。そのことはまだくうちゃんには内緒だ。読書垢と銘打っていたのに、「酵素でやせる」とか「人の目を見て話せるようになる方法」みたいな本の感想しか呟いてなかったのも悪かった。バカ丸出しなんだそうだ。中尾すばるの小説は、バカしか読まない、と言われてしまった。いや、そのバカは中尾すばるの小説を読んですらいないんですが……。という声は、どこに届けていいのかわからなかったので、そっと心の奥にしまった。

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