【完結】見届け人
空廼紡
見届け人
暗闇の中で水面が揺れている。月も星もないそこは、蛍に似た無数の光が唯一の光源だった。対岸が見えないほど大きな川が静かに流れる音しか、鼓膜を揺さぶるものはない。
その河原で、見えもしない対岸を見据える二つの人影があった。一人は浅葱色の浴衣を着た青年で、もう一人はまだ十も満たない少女だった。
「ねえ、おにいちゃん」
「なに?」
「みゆはほんとうに、あっちに行けるの?」
不安が見え隠れする声色で訊ねる少女に、青年は穏やかに笑ってみせる。
「往けるよ。ほら、あそこに舟があるでしょ?」
青年が指した方向には、一隻の小舟が留まっていた。
「木でできているよ? だいじょうぶ?」
「大丈夫。ちゃんと岸まで行けるよ」
青年は少女を抱き上げると、小舟に乗せた。少女の頭を優しく撫でて、ゆっくりと小舟を押す。
「おにいちゃんは? いっしょに行こうよ」
「ごめんね。僕はそっちに往けないんだ。だから君は先にお往き」
少女は何か言いたげそうに青年を見ていたが、こくんと頷いた。
少女を乗せた小舟が、川に流されていく。オールもないというのに、小舟は川の流れを逆らって真っ直ぐ対岸の方へ泳いでいく。
小舟が小さくなると、青年は盛大な溜め息をつかせた。
「浅葱あさぎ、浮かない顔だな」
聞き慣れた男の声に振り向く。予想通りの人物がいて、青年……浅葱は淡く微笑んだ。
「篁たかむらさん……俺、そんな顔している?」
「している。子供が来るたびにそんな顔をしている。とくに女の子の時が酷い」
紫色の狩衣を纏っている篁と呼ばれた男は、浅葱が見ていた対岸に視線を向ける。
「子供を見届けるのは、これが最初ではないというのに……いつになったら慣れるんだ?」
「だってさぁ」
「まだ小さいのに死んでしまったのがやるせない、だろ。何百回も聞いた。いいか、俺が生きていた時代では」
「子供が死ぬのは当たり前だった。今は恵まれているんだ、でしょ? 何百回も聞いた」
篁は千年以上前の人間だ。亡者になってからは、三途の川の管理人としてここに留まっている。
篁が虚を突かれた顔をするが、すぐ不機嫌な顔になり舌打ちをした。
「分かっているんなら、そんな顔をするな。こっちまで気が滅入る」
「はーい」
彼なりの励ましに、思わず小さく笑う。すると篁が浅葱を睥睨した。
「さっさと迷子の亡者を案内してこい」
「りょーかい」
くすくすと笑いながら、浅葱は空が明るい方向へ歩き出す。足取りが軽いことを確認して、篁は小さく息を吐いた。
浅葱という名前は、彼の本当の名ではない。彼は現世で命を落とし、この三途の川に辿り着いた。たとえ生前、記憶喪失だったとしてもここに辿り着いたら記憶が戻る。だが、彼の場合そうではなかった。言葉や知識に問題はない。ただ自分が誰なのか、それだけ抜け落ちていた。そのせいか、現れるはずの小舟が顕れず、彼はここに留まる他なかった。
浅葱、という名は部下がつけたものだ。浅葱色の浴衣を着ているから浅葱。安直だと言ったのだが本人がそれでいいと言ったので、その名を採用することになった。
遠くなった浅葱から視線を逸らし、向かいの岸……彼岸に移す。
少女の乗った小舟は、もう見えなかった。
彼岸に行けないこと。何も覚えていないこと。全然気にしていない、といえば嘘になるが自分が不幸だと思ったことはなかった。
篁は無愛想で厳しいが、根は優しい。篁の部下も何かと自分を気にかけてくれる。この前も非番だからと、トランプとやらを教えてくれた。こんなに恵まれているのだ。不幸だと思ったら罰当たりだ。
浅葱は雲がない翡翠色の空を仰いだ。太陽はないので、目がチカチカすることはない。空から地面を移す。視界一面。色とりどりの花が咲き誇っているのを眩しそうに眺めた。
場所は、此岸の狭間と呼ばれている。彼岸と此岸の境目であり、死にかけた者が見る花畑がここである。
落命した、もしくは生死の境にいる者はこの場所に着く。まだ生きている者には此岸へ、死の線を越えるしかない者には彼岸へと案内する。それが篁に任された浅葱の役割だ。
「さーてと。誰かいないかなぁ」
辺りを見渡す。すると、少し離れたところで蹲っている一人の老婆がいた。足音を立てず近寄り、老婆を見下ろす。
老婆は九十代半ばに見えた。白髪の髪は腰のあたりまで伸びており、横髪を後ろに留めている。その髪を留めているのは、藤の簪だった。瑠璃紺色の着物を纏っている。着物は訪問着のようで、柄は蝶が散りばめられている。撫子色の帯に若菜色の帯締め。老婆が着るにしては、若すぎるように思えた。
おもむろに顔を上げて垂れ下がった瞼を上げた。そこから覗いた黒目が浅葱を捉える。老婆は目を見張ったまま動かない。状況が飲み込めず、言葉が出ないようであった。
「こんにちは、はじめまして」
笑みを刷る。それでも老婆は、固まっている。あまりにも見つめられ困惑していると、老婆が我に返った。
「……あ、ああ! ごめんなさいね。ジロジロ見ちゃって」
老婆は恥ずかしそうに、頬に両手を添えた。
「いえいえ。あ、先に言っておきます。残念ですがあなたは」
「分かっています。私は死んだのでしょう?」
「あ、はい」
先程まで硬直していたというのに、状況を把握するのが早い。浅葱は呆気にとられながらも、感心した。
「僕は浅葱といいます。ここの案内人みたいなことをやっています」
「あなたは、人ではないのですか?」
「亡者です。けど、生前の記憶がないからかあっちに渡れなくて」
老婆は顔を伏せる。
「生前の記憶がないと、三途の川を渡れないの?」
「普通なら、死んだ時点で記憶が戻るみたいなのですけど、僕は何故か戻らなくて」
数秒間、沈黙が流れる。老婆はおもむろに顔を上げて皺を深くした。
「では、案内人さん。三途の川までエスコート、お願いできるかしら?」
「お任せください」
老婆の手を取る。皺だらけの手は枯れ木のようで、柔らかくなかったが温もりが芯まで伝わってきた。
老婆の歩幅に合わせて、ゆっくりと進む。彼女が転ばないよう、細心の注意を払いながら優しく引っ張る。
すると、老婆が小さな笑声をあげた。
「こうしていると、初めて夫に会った日のことを思い出すわ」
「旦那さんですか?」
「ええ。七十五年前、戦争で死んじゃったんだけどね。ねぇ、三途の川に着くまでお婆さんの昔話に付き合ってくれる?」
「僕でよろしければ」
「ありがとう」
礼を言い、数拍間を置いた後、老婆は糸を手繰るようにゆっくりと丁寧に語り出した。
「夫と出会ったのは、私が十七の時でね。お父様と喧嘩して家から飛び出したのはいいけど、迷子になっちゃったのよ」
「迷子?」
「実家がお金持ちでね。箱入り娘だったから、あまり近所を散策する機会がなかったの」
ふふふ、と幸子が口元に袖を当てて小さく笑う。
「夜になっても、家が見つからなくてね。心細くて橋の下で蹲っていたら、いきなり人がぬっと出てきて、思わず叫んじゃったのよ」
「それはびっくりしますね」
暗闇の中、一人で誰も来ないだろう場所にいたら突然、正体知れぬ人影が現れたら驚くに決まっている。
「相手もびっくりしてね、お互いに大きな声で叫んじゃったのよ」
「その相手が?」
「そう、夫。夫の姿を見て安心したわ」
「知らない人だったのでしょう? それなのになんで、安心したんですか?」
「私と同世代に見えたから。それに」
「それに?」
「童顔でけっこう可愛らしかったの」
「女顔、だったのですか?」
「そこまでじゃないわ。優男っていう感じ」
老婆を一瞥する。目を細めて浅葱を見据えていた。
「私が迷子だって告げたら手を差し伸べてきて、案内するからおいでって私を家まで送ってくれたの。こんな風にね。家まで送り届けてくれた後、あの人ったらお礼を言う前にふら~って行っちゃったのよ」
その時を鮮明に蘇ったのか、老婆は赤らめた頬を隠すように、繋いでいない手で頬に手を添える。破顔一笑する彼女は、無垢な少女のように見えた。
「旦那さんはなんで夜に出歩いていたのですか?」
「夢見が悪すぎて目が覚めちゃったから、夜風当たりに散歩をしていたのですって。夜風に当たるくらいなら庭に出るだけでも良かったのに、わざわざ散歩するなんて変わった人でしょう?」
同意を求められているようだが、返答に詰まる。夫の気持ちがなんとなく分かったのだ。
悪夢を視た場所に居続けるのは、息が詰まる。だから家から出て、少しばかり遠出して新鮮な空気と肺の空気と交換したかった。何故だがそう確信が持てた。
「僕は……親近感湧きます」
「そうでしょうね」
少し言われるかもしれない、と杞憂していたが、老婆はあっさりと肯定した。
まるで、そう答えることを知っていたかのような口振りに、むず痒くなる。
「その後、旦那さんとは?」
「それから二ヶ月後経ってね。たまたま立ち寄った茶屋に行ったら、そこが夫の実家で家の手伝いをしていた夫と再会したってわけ」
「あれ? あまり出歩いてなかったのでは?」
「お父様と喧嘩したのが、私が近所くらい自由に歩きたいってお願いしたからなの。夫に送ってもらった後にいかに地の利を得ることが重要なのか事細かに説明して、お父様が折れて許可を貰ったのよ」
必死さが伝わって、くすりと笑う。若い老婆が父親を説得している光景を浮かべてみる。若い老婆の輪郭は朧気だが、その様子はありありと想像できた。
「再会してね、気付いたの。あの時から、あの人に恋をしたんだって。その後は理由を付けては、会う約束をしたわ」
「旦那さんは疑問持たなかったのですか?」
「天然だったから全然。変なところで勘が良いのに、ほんと鈍感だったのよ」
ほんと鈍感、という部分だけやたらと強調した。どうやら相当その天然に手を焼いたみたいだ。
「で、決死して告げたの。好きだって。あの時の夫の顔、忘れなれないわ」
「どんな顔をしていたんです?」
「もう、ほんとうに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてね、周りを見てから自分に指を指して、僕? って訊いてきたのよ。あなたしかいないでしょうっていう話よ」
「でも返事は良かったでしょう?」
「ところが! あの人ったら明らかに私のこと好きなのに、自覚してなかったのよ! その後が大変でね、あの人に自覚してもらうためあの手この手を使ったわね~」
「あの手この手、というと……?」
訊ねたが彼女は、うふっと悪戯めいた声を上げただけで答えてくれなかった。
「まあ、その甲斐あってお付き合いを始めたの。結婚しようかっていう話も上がったんだけど、それがお父様の耳に入っちゃってね」
老婆は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あまりにも夫のことを否定するし、結婚なんてもってのほかだって反対するからぷっつんって切れちゃってね。それで迫ったの」
「迫ったって?」
「ここで私が舌を噛んで死ぬか、結婚を認めるか。どっちか選んでって」
あまりにも予想外な二択に硬直する。
情熱的な人だと笑うべきか、すごく極端な人だと呆れるべきか。どっちにしろ笑えないし、呆れることができない。
「それでお父様が折れたのよ。娘が死ぬくらいなら認めたほうがいいって」
「嘘だと思ってなかったんですか?」
「私の座右の銘が『有言実行。やる気ならやれ』だから、ね?」
「物騒だなぁ~」
「そう? お母様には、さすが私の娘って褒めてくれたけど」
苦笑いがこみ上げてくる。彼女の母親がどんな人か、安易に想像できた。
「それにしても、昔のことがすらすらと思い出せるわ。死ぬ前は忘れていることが多かったのに。これもあなたのおかげ? それとも、この着物のおかげかしら」
「気になっていたんですが、若々しい印象を受ける着付けですね」
「これね、私が夫と出会った時に着ていたものなの」
「死んだ時の着物ではないのですか?」
「違うわ。この着物は、娘が二十歳になった記念にあげたはずよ」
不思議そうに首を傾げる老婆。浅葱には覚えがあった。
「ここにたどり着く時の姿が、必ずしも死んだ時の姿と一緒とは限らないんですよ」
「そうなの?」
「はい。何かの理由で、全盛期だった頃の姿になることがあるんですよ。多分、これもまた何かの理由でそうなったんじゃないかなと」
「中途半端ね。完全に若い頃の姿だったら、最高だったのに」
「どうして?」
「私だけお婆ちゃんなのは、悔しいじゃない」
そう言いながら老婆は唇を尖らせて、浅葱をじっと睨めつけた。
どうして自分を見て、拗ねているのか。分からなくて、力なく笑う。
扱いにくい女性だ。こちらが先手を打ったと思ったら、手で掬うようにペースをかっさらっていく。
こういう手は苦手なはずなのに。
(この人と一緒にいると、落ち着くなぁ)
落ち着かないのに、落ち着く。不思議な感じだ。
「話を戻して。それでやっと結婚したんだけどね……」
老婆の表情が曇る。理由は察した。
「戦争、ですか」
老婆が弱々しく頷く。
「徴兵されてね、軍服を着て行っちゃったの。ちょうど娘が生まれたっていうのにね……」
声が震えている。繋がっている手が強く握り返してきた。老婆とは思えぬほど、強い力だった。
「……大丈夫ですか? 辛いのなら、もう止めたほうが」
彼女が夫のことをどれだけ愛しているのか、これまでの話で理解している。
彼女から語り出したとはいえ愛する夫の死について語るには、さすがに酷なように思えた。
「大丈夫よ」
芯の通った声色に、黙り込む。
「夫の死体は、なかったわ……ただ、生き残った人の目撃情報でね、大砲で、頭を吹き飛ばされたんですって」
「……惨い、ですね」
「正直、遺体見なくて良かったわ」
「そうですね。僕もそれは正解だと思う」
これまでの話を聞く中で、浅葱は老婆を芯の強い女性だと感じた。だが、愛する人の首無し遺体を見るとなれば耐えきれないかもしれない。
「戦争が終わってからも、私は夫の実家に残ったわ。義母様とも仲良かったし、夫以外子供もいなかったから放っておけなくて。生家のことは心配いらないっていわれたから」
「お兄さんは生き残ったんだ」
「あら? 兄がいるって言ったかしら?」
浅葱はハッと目を見開き、口元を抑えた。
自然と口から出た台詞は、明らかに不自然だ。老婆との会話を遡ってみるが、兄どころか兄弟の話題すら上がっていない。
「え、ほんとうに兄がいるんですか?」
「いたわ。十年前に亡くなったのだけれど、もしかして会ったことあるかしら?」
「どうだろう……ここに来た人全員案内しているわけじゃないから……」
篁本人やその部下が案内することもあれば、自力で対岸へ往く人も少なからずいる。なので、老婆が話してきた人物たちと対面している可能性はあるが、ないともいえる。
空が暗くなっていく。水の匂いが漂い始め、湿った空気が頬を撫でた。
三途の川が見えるまで、後少しだ。
「旦那さんの実家にずっといたっていうことは、店は?」
「店は空襲で焼けちゃったの。義父様も一緒に焼けちゃったから、義父様とあなたとは会っていないわね」
その台詞に、浅葱は内心首を傾げる。その台詞に違和感を覚えたが、胸がもやもやとして巧く正体を掴むことができなかった。
「娘を育てる傍ら、義母様と一緒に店を再建するため働いたわ。店を再建してからも、義母様と大きくなった娘たちと一緒に店を切り盛りしたわ。娘目当てで来た客もいたのだけど、娘は夫と似て天然で鈍感で、それに気付かなかったわね~」
「天然って……受け継がれていくんですね」
「そういうあなたも天然ね」
「え、僕のどこが?」
「そういうところ」
解せなくて唇を尖らせて、半眼で老婆を睥睨する。老婆は愉快なのか、目を細めて奇妙な笑い声をあげた。
「娘が十五歳の時に、義母様が病気になって、そのまま逝っちゃったの。それから一人で、娘を育てたわ。店のことも大変だったわ」
「頑張りましたね」
「あなたにそう言われて、報われたわ。店も娘夫婦に継がせたし、孫の顔も見れた。思い残したことはないわ」
川が近づくにつれ、辺りは闇に覆われ、さらさらと水音が鼓膜を揺らす。蛍が二人の周りで泳ぎはじめ、時間の終わりを静かに告げる。
繋がれた手に汗が滲み出た。老婆の枯れ木のような渇いた手が潤ってしまうのではないか、そう心配になってくるほどだった。
後ろを歩く老婆は、死んでも汗かくのね、と感心したように言っている。
どうしてこんなに汗をかく。恐ろしいことも無いのに、何故。
「あなたったら、手、握りすぎよ」
「え?」
「気付いてなかったの?」
呆れた老婆に狼狽しながら、浅葱は汗以外のことで意識を移す。たしかに女性の手を握るには、あまりにも強すぎていた。手に汗が滲んでいたのはこれのせいか、と思い立って慌てて手を緩める。
「す、すいません! 痛かったでしょう?」
「そんなことないわ。なにか、不安なことでもあるのかしら?」
「ふ、あん?」
この胸の奥に渦巻く感情を、不安と呼ぶには何かが足りない。
拡大する虚無感。それを埋め尽くす、玉音。玉音が記憶の中の声を遮る。もどかしくて、唇をギュッと噛み締めた。
「……足場が悪くなったので、ゆっくり歩きますよ」
足取りがだんだんと重くなるのを誤魔化すように、老婆に告げた。
その後も、老婆の話は続いた。その大半は娘とその旦那のことだった。娘の事細かい成長や人付き合い、どんなしつけをしたか。後の旦那を紹介された時のことや結婚のこと、そして孫の事も詳細に語った。
報告のようなそれに相槌を打ち、老婆の言葉をゆっくりと噛みしめる。
そうこうしている内に、三途の川のほとりまで辿り着いた。しっとりとした空気が心を纏わりつき重くさせる。
浅葱は老婆の手と繋いだ手を一瞥する。
皺くちゃで御世辞にも綺麗とはいえない掌。それでも離れ難く思うのは、何故なのか。
「ここが三途の川?」
「は、い……どこかに君の小舟があるはず……」
岸を見渡す。瞬きを何度かすると、最初は何もなかった岸に一隻の小舟が顕れた。
浅葱は老婆を小舟に連れていく。
老婆を乗せようとする。が、手を止める。
彼女を乗せたくない、と思った。
浅葱の葛藤も知らず、老婆は浅葱の手からすぬりと抜け出し、小舟に乗り込んだ。
「やった! 身体が軽いおかげで楽々と乗れたわ」
嬉しそうに小舟の縁に手を添える老婆に、むっと顔を顰める。
「押してくださるかしら?」
縁をたんたんっと叩く老婆に、浅葱は俯いてゆっくり小舟を押す。
小舟が川の流れに乗っかるところまで来ても、浅葱は顔を上げなかった。
「あの」
「なにかしら?」
「君は、誰ですか?」
玉音がまた脳内に響き渡る。
「君と喋ると、色んな感情を思い出すんだ。以前にも、こんな感情を誰かに向けていたような気がする。でも、その誰かを思い出せない」
「……」
「大切なことだって、分かっているのに……」
重く長い沈黙が流れる。やがて老婆の口から盛大な溜め息が漏れた。
「相変わらず、鈍感ね。そこまで分かっていて、どうして気付かないのかしら」
呆れた声につられ、顔を上げた。老婆は、眉を八の字にして両手で浅葱の頬を包み込む。浅葱を見据える目は、透き通っていて悲哀の色を映していない。ただただ、綺麗だった。
「ねえ、私はちゃんと幸せだったわ。あなたは自分が死んだばかりに、苦労をかけさせたって責めるでしょうけど」
老婆の手が浅葱の存在を確かめるように、しっとりと浅葱の頬を撫でる。
「私は後悔していないわ。あなたに一生分の恋を使い切ったのも、あなたと一緒にいることを選んだのも、私が選んだことよ」
耳元で、玉音が鳴いた。
老婆の一つ一つの言葉が、心の穴に深々と降り積もっていく。
「私は私の生を愛した。最期の時まであなたを愛し続けた。それが誇らしいわ」
老婆の顔がみるみるうちに若返っていく。頬に添えられた両手がハリのある瑞々しい手になり、髪は白髪から美しい黒髪になった。皺だらけの顔が引き締まっていき、垂れ気味の瞼の下から覗く、流し目が印象的な美女へと変わっていく。
驚愕して声が出ない浅葱に微笑み、老婆だった美女の薄桜色の唇が開いた。
「彰人あきとさん」
紡がれた名に、心が否、魂が激しく揺すぶられた。
呼吸ができなくなる。心臓が耳元で高鳴っている。
それと共鳴するかのように、様々な光景が脳裏に流れ込んできた。
ふと、美女が浅葱の頬から離れ、浅葱の手に掌を重ねる。笑みを深くした、刹那。
優しく、その手を振り払った。
小舟が流れていく。浅葱はそれを追いかけようとした。
「私、待っているから!」
ぴたっと足を止める。
「あなたがこっちに渡るまで、私、待っているから! 今度は私が待つ番よ!」
涙を堪えて叫ぶ姿に、魂が悲鳴をあげる。
知っている。その顔を。
頭の中の何かが弾け飛ぶ。
思い出せ。あれは誰だった。
天の川が悠然と流れる夜空の下。
橋の下から聞こえてきた微かな泣き声。
驚いた顔に拗ねた顔。
握り締めた小さな掌。
薄桜色の脣から紡がれた、ありがとう、の暖かくて凛とした声。
生まれたばかりの赤ん坊を見つめる、慈愛に溢れた瞳。
忘れたくない。
忘れたくなかった。
その人の名前は。
「さ……こ……」
震える声色が耳朶を打つ。
心臓が痛い。バクバクと波打っている。
往ってしまう。早く、早くしなければ。
喉の奥に詰まっていた、その名をもう一度、この唇で紡ぎたい。君のところまで届けたい。
その想いが、栓を抜いた。
「幸子さちこさんっ!」
美女の、幸子の目が見開かれる。涙を眦に溜め、零れ落ちないように笑っているのを浅葱は見逃さなかった。
どうして忘れていたんだろう。約束したのに。絶対に戻ってくると、小さな娘の成長と共に一緒に歩もうと誓ったのに。
こんなにも愛していたのに、愛されていたのに。
どうして、どうして。
幸子の乗った小舟が見えなくなっても、浅葱はその場に立ち尽くしていた。
ボロボロと流れ落ちる涙を拭おうとせず、ただ幸子が往った先を眺めていた。
「……おい、いい加減川から上がれ」
背後からぶっきらぼうな声を投げられる。相手は分かっているので、振り向かなかった。返事もしなかった。声の主はそれ以上何も言ってこない。
しばらくしてから、浅葱はおもむろに口を開いた。
「……ねえ、篁さん」
「なんだ」
「僕の名前、彰人っていうんだ」
「そうか」
沈黙が流れる。穏やかな間だ。
「おい」
「なに?」
「お前の小舟が出ている。押してやるから、とっとと来い」
振り向くと、ちょうど幸子の小舟があった場所に一隻の小舟が揺れていた。篁と目が合うと、篁が珍しく噴き出した。
「不細工な顔だな」
「うるさいなぁ」
軽く言い合いながら、小舟に乗る。篁が小舟の縁に手をかけた。
「……ねえ、篁さん」
「なんだ」
「僕に案内人を勧めてくれて、ありがとう。他の人達にもよろしく伝えといて」
「アイツら、ガッカリするだろうな」
「篁さんは?」
「友人が往くのは、少々惜しい」
「残ろうか?」
「ほざけ」
篁が手を離す。小舟が川の流れに逆らって、対岸へと泳いで行く。
浅葱は姿が見えなくなるまで、篁を見据えた。その姿を忘れないよう焼き付けるために。篁も浅葱をじっと見ていた。その表情は安堵した笑みを浮かべていた。
時には厳しく、分かりづらい優しさを見せてくれ、いつも見守ってくれていた。
喉が震えているせいで、叫べない。だから、ありがとう、と心の中で何度を繰り返して叫んだ。
湿気を含んだ風が篁の頬を掠める。
篁は、ずっと彼を見届けていた。
彼を乗せた小舟が見えなくなっても、ずっとずっと見届けていた。
【完結】見届け人 空廼紡 @tumgi-sorano
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