Encore
10 地上の星は帰還する
あれ以来、屋上という場所に行ったことはない。
今のわたしは以前と違い、街の底のほうに住んでいる。
路地を少し入ったところ。
目立つ看板も出せないけれど、ここがわたしの住むところ。
『一〇二五号室』と名付けた小さな菓子店は、夜遅くなってもわたしの気が済むまで開けてある。
花の季節があり、太陽の季節があった。
実りの季節があり、木枯らしの季節があった。
わたしは波打つ時間の中を、お菓子を焼き、ゼラニウムを育てて過ごした。
星を探して空を見る暮らしはもうしていない。
今夜、店内のゼラニウムが真っ赤な花びらをたくさん散らしてわたしのお気に入りのテーブルは花吹雪のあとのようになっていた。
わたしは毎日、赤い花びらを拾う。
星の本の上から。
さそりと蜂とエイの本の上から。
空色と白の金平糖を入れた広口びんの上から。
堆朱のトレイにのせた古い鍵の上から。
硝子のドールアイたちの上から。
そして古道具屋さんで見つけた、古い卓上マイクの上から。
片手で拾って。
片手に溜めていく。
ほとんど重さのないような、やわらかな、真っ赤な、
思い出の。
テーブルの角のほうに引っかかっていた花びらを、誰かがつまみ上げたのが見えた。
思わず、花びらを溜めていたほうの片手を差し出してしまう。
ほとり、とまったく重さなく、花びらが私の手に乗せられる。
「ありがとう」
背の高い、姿勢のきれいな人で、逆光ですぐには顔が見えなかった。
その人は、わたしに聞く。
「お店の名前に由来はありますか?」
「ええ。以前住んでいた部屋の番号です」
「このマイクや本も、そこに置いていた?」
わたしは。
顔を傾けて、その人をちゃんと見ようとした。
生きた眼の方がどうしても、よく見える。
「あなたは屋上で、星を探すのが好きでしたか?」
なぜそんなことを聞くの。
「もしもパラシュートで落ちてきた人間がいたら、あなたは」
「きっとまた、その星を拾うはず」
相手が息をのんだのがわかった。
わたしだって、呼吸のしかたを忘れそうだった。
こんなに胸の奥が砕けそうな気持ちになったことはない、と思った。
いいえ、前にも一度、あったかも。
それに、ちょうどこんなふうに。
真っ赤な花びらを、一緒に。
わたしの震える手から、せっかくたくさん集めたゼラニウムの花びらがこぼれていった。
でもそんなことは、もうどうでもいい。
また拾えばいいのだし、
それにきっとあなたは、
一緒に拾ってくれるのでしょう?
「わたしは、すばるを探しているの。あなたは、」
待っていた。
あなたがわたしの一〇二五号室を見つけてくれるのを、ずっと。
「今度もまた、記憶はないの?」
そう聞くと、わたしのお星さまは微笑んで。
「全部覚えてる。
言われた通り、あなたの部屋に帰ってきたよ」
ずっとあなたのところにいると約束した、と。
初めて聴く声。
初めて触れる手。
けれどもそれは確かに、
この世にたったひとりだけの、わたしのお星さま。
おかえりなさい、わたしのすばる。
(了)
さそり座の夜、あの屋上で 鍋島小骨 @alphecca_
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