終末の方舟

猫目 青

終末の方舟

 自転車の車輪が回って、夕焼けの中で橙色に輝いていた。

 ひっくり返しになった自転車のペダルを彼女は靴先で動かし、空を見あげている。空には朱色の夕陽。空はほんのりと桜色に染まって、その色彩が空を見あげる彼女の眼を彩っていた。

 夕陽を少し外れたところで、明るい星が光り輝いている。

 一等星よりもなお明るいそれは、地球に向かっている彗星だ。

 文字通り、光り輝く宇宙の旅人は地球に降りたつべく暗い宇宙空間をひたすらに進んでいる。

 ――僕たちいる、この地球へと。

 数か月前のことだ。

 世界中のメディアが、世界の終末が迫っていることを告げた。最近発見された彗星が文字通り地球に衝突しようとしている。それを防ぐ手立てはない。

 その瞬間、第二の終末時計が世界に誕生した。

 宇宙空間を旅する彗星が地球に近づくたび、この地球の上で暮らす生命たちのタイムリミットは縮まっていく。従来の終末時計が人の愚かしさによって進むものであるならば、この第二の終末時計は、まさしく自然の摂理によって進んでいくものだ。

 そんな中、僕ら人間はノアの箱舟を作った。

「行こうよ、灯。方舟が呼んでるよ」

 僕は彼女に声をかける。灯りは僕を一瞥し、また空へと視線を戻した。手に持ったラムネの瓶をあげ、彼女は中に入ったラムネを煽る。

 炭酸のはじける音がして、硝子の中で気泡が踊った。ぷはっと彼女は息を吐いて、瓶を口から放す。

「いいじゃん。私は今のこの世界が好きなんだ。この世界の最後を見届けたいんだ。地下にでっかい収容施設作ってコールドスリープで数百万年後の世界に望みをかける? そっちの方が無謀だよ。」

 瓶を胸元に引き寄せ、彼女はにっと僕に微笑んでみせる。

 国連が発案した箱庭計画は、まさしく彼女が放した通りの内容だ。地下深くに非難シェルターを作り、そこにいる人々は生態系の回復した数百万年後先の未来までコールドスリープで眠りにつく。

 眠りにつくのは選ばれた人間。その中に僕と灯は含まれている。

「灯……。僕たちは選ばれたんだ。生き残らなきゃ」

「私は地上に残って生き延びたい」

 。鋭い眼差しを僕に向けたまま彼女は立ちあがり、僕へと近づいてきた。迫る夕闇の中で、彼女の姿が闇に沈む。彼女は僕のシャツを引っ張り、僕に顔を近づけてきた。

 柔らかい感触が唇に広がって、ラムネの香りが鼻を抜ける。彼女と口づけを交わしていると分かった瞬間、彼女の顔は僕から離れていた。

「さようなら……」

 彼女の眼が涙に煌めいている。涙を流しながら彼女は僕から離れ、倒れた自転車へと駆けていった。

 起こした自転車に跳び乗って、彼女は僕の横を過ぎ去っていく。彼女の流す涙が顔にかかって、僕は空を仰いでいた。

 世界は夜に沈み、彗星だけが灯りを放つ。

 これが、彼女と別れた最後の五分間の記憶。

 暗い眠りの中で僕は、この五分間を何度も夢見る。

 僕の眠る場所に彼女はいない――

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