第30話 それでも命は生きる

「・・・・・・・・・・・・さん・・・・・・」


 誰かが呼んでいる。


「・・・・・・さん・・・・・・」


 眠いんだ。寝かせておいてくれ。


「ムサノブさん」


 はっと、目が覚めた。


 目の前にはキョウタママがいた。それにキョウタも、チョウロウも、キヨミたちメスゴキブリトリオもいる。


「よかった。目が覚めましたね」


 キョウタママが安堵の表情を見せた。


「僕は眠っていたんですか?」


「えぇ、丸二日寝ていました」


 そんなに・・・・・・。


「兄貴~~~! 二度と起きないかと思ったぜ」


 キョウタが抱きついてきた。


「僕は・・・・・・」


 記憶がフラッシュバックした。人間とも昆虫ともつかない、怪人の姿。


 手を見た。ぎざぎざして先にかぎ爪のついた、普通のゴキブリの手だ。

 夢だったのか?


「よく無事で帰ってこられた。流石はカブリ様じゃ」


 長老がさも満足げに言った。


「アシダカグモは・・・・・・」


 奴はキヨミたちを襲っていたはず。奴はどうしたのだ。


「跡形もなく消えちゃったわ」


 メスゴキブリの一人が少し伏し目がちに言った。


「消えたって・・・・・・」


「そうなのよ。跡形もなく」


 また、フラッシュバック。牙を引きちぎり、歩脚をちぎり取り、腹を踏み抜き、顔面を殴り潰した。


「そんなわけあるか。僕はあいつを・・・・・・・・・・・・」


「よせよ。あいつはいなくなった。それでいいじゃねぇかよ」


 もう一人のメスゴキブリが僕の言葉を遮るように言ったが、やはり目は逸らしていた。


 一同に沈黙が訪れる。全員が何かを言いあぐねているようだ。


「やっぱり、隠すのなんておかしいわよ! 何がいけないのよ!?」


 いきなりキヨミが叫んだ。


「ダメよ。キヨミ」


「相談して決めたんだろ!」


 二人が静止しようとするがキヨミは構わず喋り続けた。


「ムサノブがアシダカグモをやっつけたんじゃない! あたいたちを助けてくれたのよ。やり方が少しぐらい暴力的だからって何よ! 怪物に変身したっていいじゃない。みんなで褒めて称えてあげようよ!」


 怪物・・・・・・・・・・・・。


 確かにあのときの僕は怪物だった。


 だが、自我を喪失していたわけじゃない。意識も理性も思考もはっきりしていた。


「黙らんか。キヨミ!」


「ひっ!」


 チョウロウが珍しく怒鳴った。


「このことは極秘にするのじゃ。周りに知れ渡ればカブリ様の威厳が揺るぐとも限らん。未知のものに対する恐怖はゴキブリも同じ、カブリ様を恐れて皆が離れていったらどうする!」


 怖いだろうな。みんな、逃げ出すだろうな。


 恐ろしい要素ばかりだ。人間とも昆虫ともつかぬ見た目、アシダカグモを圧倒する驚異的な身体能力、理性の逆をたどる慈悲のない思考。


 そして・・・・・・・・・・・・戦闘の後に訪れる強烈な飢え。

 

 急に吐き気が込み上げてきた。

 

 僕はあのとき、何を食べた? 何を喜々として食した?

 

 吐き気を我慢できず、僕は皆を押しのけて飛び出した。


「ムサノブさん!?」


「兄貴!」


 キョウタ親子が呼び止めるが、僕は構わず突っ走り、他にゴキブリのいない場所を探した。


 避難所は解散したらしくゴキブリはそこら中に分散していた。仕方なく、壁を駆け上がり、台所の流し台まで来た。


 流し台の淵にかがみ込み、喉と胃に力を入れる。


 全て吐こうとしたが吐き出せない。


 喉にいくら手を突っ込んでも戻せない。


 嗚咽だけが虚しくステンレスに木霊していた。


 僕はわかって食べていた。命乞いをしていた女性をなぶり殺してその身を食した。彼女が命より大切に抱えていた、己の子孫も。


 その時の僕は食欲を優先して人間の尊厳など、いとも簡単に諦めた気がする。


 なんと恐ろしいことか。人間のすることじゃない。僕は人間の思考は持っていても、魂は失ってしまったのだろうか。


 いつしか訪れたざわめきが、何倍も強烈になって僕の胸を襲った。


 死んだほうがいいのか? 衝動的にそんな感情が湧いた。


 このまま行けばいつか僕自身がみんなに甚大な迷惑をかけそうだ。


 ここで自分の羽をもぎ取って流し台の底に降りれば出られない。明日の朝には昇天しているだろう。


 その時、勢いよく後ろから何かに抱きつかれた。


「ダメよ。飛び降り自殺なんかしちゃダメよ」


「おっと、とととと・・・・・・とっ!」


 バランスが取りきれず、淵から足を踏み外す。ステンレスの滑り台を滑って流し台の底に落下した。


 見るとキヨミが僕の背中をがっしりとホールドしていた。


「ここに一度落ちると死んじゃうのよ。生きなきゃダメよ。死んじゃダメだってば!」


 その一度落ちると死ぬ場所へ突き落としておいて何を言うか。


 キヨミはぶんぶんと首を横に振りながら泣き叫んでいる。


「罪に感じることなんてないのよ! 誰だって、他の命を肥やしにして生きているのよ。殺しちゃうことも食べちゃうことも、自然の掟なんだから。あんたは自分のやったこと誇っていいんだよ。あたいだって、本当は餌になるのが運命だったのよ。それをあんたが覆してくれたんじゃない。まわりが批難したって、嫌ったって、あたいが味方になってあげるから。だからダメ、死んじゃダメなんだから!」


 うわぁっと、キヨミは号泣し、僕の背中を涙で散々に濡らした。


「大丈夫だ。悪かったよ。もう死のうなんて考えたりしないよ。泣かないでよ」


「泣いてなんかいないわよ!」


 キヨミは僕を解放すると自分の顔を一生懸命腕でぬぐった。


「キヨミさん。心配してきてくれたのかい?」


「そうよ、あんたの様子が普通じゃなかったから・・・・・・・・・・・・・・・ち、違うわ! 別にあんたのことなんか。か、借りを返したいだけよ」


 ここまで来てツンデレを発揮しなくてもよいと思うのだが。それに貸しなんてあったっけか?


「ありがとう」


「へ?」


 素直にそう言うと、キヨミは面食らったような表情になり、みるみる赤くなった。


「・・・・・・・・・・・・あたしのセリフとらないでよ・・・・・・・・・・・・本当ならあたしがあんたに・・・・・・・・・・・・」


 何か小声で呟いているが聞き取れない。


 よく見るとキヨミは右の後脚がおかしな方向に曲がっていた。


「キヨミさん。脚・・・・・・」


「こ、これぐらい平気よ。あんたの心配なんて及ぶところじゃないわ」


 走行が行動の基本であるゴキブリにとって脚は命。今後、食料の調達や外敵から逃げるのに間違いなく不利だろう。


 キヨミの顔にはこれから先の生き方に対する不安がわずかに滲み出ていた。


 僕はどうにも我慢できなくなり、一斉に吐き出した。


「大丈夫。僕がついてるよ。脚一本くらいの助けにはなるよ!」


「ふぇぇ?」


「脚が少し不自由だからって何だ。僕がその分全部フォローしてやる。つきっきりで面倒見るよ」


 あぁ、言ってしまった。一度こういう台詞を女の子に言ってみたいと思っていた。


 人間世界で言ったら間違いなくドン引きされるが、ゴキブリには効果あったようだ。キヨミは溶岩のように赤くなり顔から湯気を出している。


「帰ろうよ」


「・・・・・・う、うん」


 僕は羽を広げると、キヨミを背中から抱き上げ、飛び立った。


 死の流し台から颯爽と空へと飛び出す(実際は室内だけど)。


 一度天井近くまで上昇し、キヨミを降ろすために降下する。


「なぁ、ムサノブ」


 あ、名前で呼ばれた!


「もうちょっと、飛んで見せてよ」


「なんで・・・・・・?」


「うるさいわね、うまく飛べるかどうかあたいが査定してやろうってのよ」


「はいはい、それじゃひとっ飛びしましょう」


 僕は再び上昇し、台所を居間を寝室を、自由に飛び回った。


「気持ちいい」


 キヨミがポソリと言った。


 空気を切り裂きながら飛ぶのは実に気持ちがよかった。


 僕は飛びながら、今までのことに思いを巡らせた。


 いきなりゴキブリという人間が最も侮蔑する虫になって、実の母親や幼なじみに殺されかかって、でも、ゴキブリの仲間というか家族というかそんなのもできて、恋みたいなのもして、命の躍動とその価値を垣間見ることができて、大切な仲間を失って、そして僕も命を奪った。


 僕がこのままゴキブリとしてずっと生きていくかどうかはわからないが、自分を支えてくれる命が身近にあるということは、実に尊かった。


 キョウタ親子やキヨミたちが今生きていてくれることがうれしかった。


 結果としてみんなを護ることはできたが、アシダカグモを殺したことで、「悪い奴をやっつけた」というような達成感は微塵もなかった。奴は悪でも何でもなく、自然のなかにいる命の一つに過ぎないのだ。


 弱肉強食の自然界。殺すことも殺されることも罪ではない。償う必要も方法もない。


 だけど僕は殺しても殺されても悲しい。ならば少なくとも、僕は自分が奪った命、近くで奪われた命、失った命の事は忘れないでいようと思う。


 命の犠牲なくしては生きられないのが生物だ。


 ならば、僕はその命を一つも漏らすことなく背負って、生きていくしかないのだ。


 例えそれが、脚が折れそうな重圧になっても。


 夜の台所は実に静かだったが、密かに蠢く害虫たちの命の鼓動だけは、はっきりと感じられた。

 

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僕、ゴキブリになりました! 上月 亀男 @pekko

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