第29話 戦闘変態

 

 オォ―――――――――――――――――――――――ッ!



 何なのだ? この地の底から響いてくるような不快な叫び声は。


 これは僕の声だ。僕の雄叫びだ。


 僕の姿は今やゴキブリではない。鏡などなくてもわかる。


 今の僕は虫でも人間でもない。


 全身をまとう強靱な甲殻、躍動する恐ろしいほど膨大な筋肉、口に備えられた強力な顎。


 二本の脚で背中をかがめながら立ち、関節は熱を含んだ蒸気を吐き出している。


 ちぎれたはずの腕は再生し、自由に動く。人間のような五本の指があり、指先は研ぎ澄まされたナイフのようだ。


 昆虫人間? 有り体に言えばそうなる。


 しかし、これは子供向けの特撮に出てくるヒーローのような風体ではない。


 その逆。もっと凶悪で生物的で邪悪な生命体。まるで“怪人”だ。


 格好のいい要素などまるでない。それはただ目的を達成することのみを優先して外見的な考慮を一切捨てられて造られたグロテスクなフォルム。


 怪人の目的はただ一つ。他者への加害だ。


 僕は目の前のアシダカグモに飛びかかった。


 アシダカグモが毒牙を突き出して迎え撃とうとする。その動きのなんと遅いことか。


 まるでスローモーションだ。僕は毒牙を両方とも素手でつかみ取り、一方を払うともう一方を無理矢理ねじり、腕ごとあらぬ方向に折り曲げた。


 アシダカグモが初めて悲鳴を上げる。


 さらに体ごと回転し、腕の関節を数回転させる。


 ぶちりと嫌な音と共に、アシダカグモの腕、正確には触肢を毒牙と一緒に引き抜いた。


 パニックになったアシダカグモは一瞬逃走の様子を見せるが、僕は構わず突進し、残りの毒牙をつかみ取り、握り拳を振り下ろして叩き折った。


 痛みにアシダカグモは七転八倒する。


 今の僕にはアシダカグモを攻撃するありとあらゆる方法が頭に浮かぶ。


 それは、高尚な思想の元に発達した武道でも、精神と肉体と技術を極限まで磨き上げた格闘技でもない。


 ただ単なる生きるための本能、己を脅かす存在に対する反抗、慈悲無き力の行使。


 それは何一つ混ざり物のない、最も純粋な、“暴力”


 だが、僕のやることはそれだけでは治まらなかった。


 武器をなくし、背中を見せて逃走するアシダカグモ。従来の僕ならここで見切りを付けたが、実際には背中を押し倒し、馬乗りになって拘束した。


 八本の歩脚がもがき、暴れる。


 僕はその一本を根元から掴むと、力任せにちぎり取った。粘性の体液がほとばしる。


 アシダカグモが悲痛の叫びを上げる。あまりの悲鳴に耳が痛むが、八本もあるのに一本で終わらせるわけはない。


 さらに一本、また一本と僕は歩脚を力任せに引き抜いていった。


 アシダカグモは歩脚を失うたびに盛大な悲鳴を上げ、目からは大量の涙、口からは泡を吐いて苦しみ抜いた。


 本能はここまでしろとは命じない。


 人間とは、人間の理性とはなんと恐ろしいのだろう。動物は己の捕食を成功させるために相手の急所を的確に攻撃する本能がある。だが、そこに人間の思考が加わると、実に悪いものができあがる。


 今の僕には、どこをどうやったらアシダカグモが最も痛み、苦しみ抜くか、瞬時に算出できてしまうのだ。


 そして、それを実行することに微塵の躊躇すら感じない。


 理性を武器に変えるとは、理性の逆をたどること。理性が本来なら拒絶するそれを認識し、逆に実行すること。


 相手にこれをすると、嫌がるだろう、痛むだろう、悲しむだろう、苦しむだろう。普段は理性が拒絶し、否定するそれを自覚し行動に移す。


 これこそが理性を武器に転化する思考だ。


 理性が吹き飛んで暴走しているなどと言い訳をしてはならない。僕は間違いなく自分の意志で、苦しむ相手をさらに苦痛の地獄へと叩き落としている。


 この残虐な殺戮は間違いなく僕自身が行っているのだ。


 八本の歩脚全てをもぎ取ると、アシダカグモはだるまのようにその場に転がるのみとなった。


「・・・・・・・・・たすけて・・・・・・」


 アシダカグモが初めて声を発した。予想に反して、澄んだ綺麗な声だった。


 僕はアシダカグモの体を掴むと無造作に仰向けにひっくり返した。


 完全に抵抗の術をなくした捕食者は、苦しみと死の恐怖に表情を歪めていた。まるで死に際のミミコとジロウのように。


「・・・・・・たす・・・・・・けて・・・・・・」


 よく見ると、アシダカグモの腹は随分と膨らんでいた。


 理性が言う。そこはやめておけ。


 僕は思う。なら、そこが攻撃する場所だ


「・・・・・・やめて・・・・・・お腹は・・・・・・・・・・・・やめて」


 アシダカグモは僕の視線に気付き、必死に腹への攻撃を回避しようと体をよじった。だが、だるま状態の体ではなすすべもない。


 僕は脚を振り上げると、アシダカグモの柔らかそうな腹に照準を合わせた。


「・・・・・・やめて、子供は助けっ・・・・・・!」


 言い終わる前に、思い切り踏み潰した。風船のように腹がはじける。


 中からグロテスクな内蔵や消化途中のミミコやジロウが出てくるのではと覚悟したが、出てきたのは小さくて黄色いつぶつぶのみだった。


「いやぁぁぁぁぁぁあああああああ!」


 今までで最も盛大な悲鳴が上がった。痛み以上の何かしらの絶望が上乗せされていた。


 アシダカグモは最初の冷淡さが嘘のように泣きじゃくり、死の恐怖と悲しみにのたうち回っていた。


 絶命しないのは大したものだが、泣き声が耳障りだ。


 理性は言う。泣き声はすぐに止む。もう絶命する。やめてやれ。


 僕は思う。なら、今とどめを刺しても同じじゃないか。


 僕はアシダカグモの胸部に再び馬乗りになると、かつては美しかったその顔に握り拳を叩き込んだ。ゴリッとした手応えがあり、顔の外殻が割れたのがわかる。だが、アシダカグモは泣き止まない。凄まじい生命力だ。


 ならば、さらに一発。まだ泣き止まない、もう一発殴打。なおも泣いている、さらに殴打。殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打殴打殴打殴打殴打殴打殴打殴打・・・・・・・・・・・・・・・。


 気がつくと手応えはなく、拳を振り下ろしていたところには、ただの粘質な染みができあがっていた。


 頭部を失い、アシダカグモはついに絶命した。僕たちを襲っていた恐怖は完全にぬぐい去られたのだ。


 オォ―――――――――――――――――――――――ッ!


 思わず雄叫びを上げた。ついに成し遂げたのだ。僕は生き延びる権利を勝ち取った。キヨミたちを救った。ミミコとジロウの仇を取った。やった。僕はやってのけたんだ。


 不意に、全身からどっと力が抜けた。


 このまま意識を失って倒れると思ったが、その前にある欲求が湧き出てきた。


 空腹だ。


 きっとこの“変態”はとてつもなくエネルギーを消費するに違いない。


 何か、何か食べるものを!


 欲求はすぐに空腹を通り越して飢えとなった。


 食べたい、食べたい、食べたい、食べたい!


 周りを探した。キヨミたちが落としていったビスケットの欠片があるが、あんなものでは満足できる気がしなかった。


 目の前を見た。さっき死んだばかりの肉がある。


 アシダカグモの腹から出てきた黄色のつぶつぶが、芳しい香りを放っている。たまらないほど食欲をそそられた。


 あぁ、やはり僕は人間の思考は持っていても、もう人間ではないのだな。


 驚くほど迅速にあきらめがつき、僕は四つん這いになって目の前の臓腑を咀嚼した。


 ぐちゃぐちゃと気持ちの悪い音がしんと静まりかえった居間に響く。


 うまい! 今まで食べたどんなものよりうまい。


 黄色いつぶつぶは濃厚でとろりと甘く、飲み込むごとに生命力が満ちあふれていくようだった。そうか、これは生命そのものだ。一個一個が命なんだ。つまるところ、奴の卵だ。


 あっという間に全て平らげたが、まだ足りない。


 歩脚を味わってみた。身がぎゅっと締まっていて、高級な蟹のような味わいだ。殻も柔らかくて香ばしい。


 腹も胸も、頭も、全て囓り、噛み砕き、飲み込んだ。全てが極上のディナーだった。


 そして僕は、自らが殺した獲物を跡形もなく平らげた。

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