第28話 あなたを殺して、そして生きる

 全力タックルは何とか成功した。


 アシダカグモは随分と吹き飛び、動かない。


 キヨミの位置を特定したが、アシダカグモの接近にも気付き、全力で飛んできてそのまま体当たりしてやった。


 相当な衝撃だったと思うが、致命打になったとは考えにくい。


「早く行け。ここは僕が足止めする。長くは持たないぞ」


 予想通り、奴はすぐにむくりと立ち上がった。


「・・・・・・あぁ、やべ、ダメだ、すげぇ怖い、逃げたい!」


 思わず本音が出た。


 アシダカグモに感じる先天的恐怖は全く揺らいでなかった。


 全身が痙攣して動かない、金縛りのようだ。


 冷や汗が止まらず、心臓の鼓動の音が大きくて聴覚が全く効かない。


 アシダカグモは、両手にそれぞれ持っている巨大な毒牙を構えた。


 アシダカグモが跳躍した、振り下ろされる毒牙を何とか両手で裁く。奴は二刀流の武器を巧みに操り確実に僕の急所を狙ってくる。実に洗練された技だ。本当に暗殺の訓練を積んだ忍者のようだ。


 格闘技なんてやったことのない僕はとてもその動きについて行けない。いくら押さえたり交わしたりしても、すぐに次の攻撃がやってくる。


 勝てる要素などどこにもない。元より勝つことなど考えていなかったが。


 キヨミは無事に他の二人が救出したようだ。このままできるだけ遠くまで逃げて欲しい。


 襲い来る毒牙のスピードがどんどん速くなっている。


 こちらは反応するのに精一杯で逃げる隙すら掴めない。


「うがぁああッ!」


 ついに毒牙の一本が僕の左腕を捕らえた。鋭利な切っ先が関節を貫通していた。アシダカグモは武器を器用にくるりと回し、刺した関節部分をねじり切った。


 僕の腕がちぎれて畳に転がる。


 アシダカグモはすかさず、もう一本の毒牙を傷口に突き刺し、毒液を注入した。


 体中の血液が沸騰し心臓が逆方向に鼓動を始める。確実な死が僕の中に流れ込んできた。


 これがジロウやミミコが味わった絶望だ。


 がむしゃらに暴れ、何とか毒牙は引き抜けた。


 だが、毒はすでに体中を巡っている。


 たまらず嘔吐し、膝をつく。


 寒気が酷い。冷や汗が止まらない。


 視界がぼやけているが、アシダカグモがニヤリと笑っているのがわかる。


 あぁ、僕はついに死ぬんだな。短い人生だった。でも、最後はアニメの主人公みたいに活躍できて、多少は満足だ。キヨミたちがこのまま逃げ延びて生きてくれれば何よりじゃないか。僕は、大切な人を守れたんだ。


「はぁ? 何言ってるの? いかにも人間らしい偽善ね」


 どこからか声がした。小学生ぐらいの女の子の声だ。アシダカグモが喋っているのではなさそうだ。


「どのみち、この部屋のゴキブリたちは食い尽くされるわ。アシダカグモの食欲を舐めちゃいけないわ」


 ならば、どうすればいいんだ。


「あなたはまだ、人間の甘さが残っているわ。人間は結果が全てと言いながら、その実、過程が他者から批判されないように極力穏便な行動を取るわ。それが自然界では余計なの」


 批判? 穏便? 行動?


「結果を得たいなら過程に制限は加えない事ね」


 制限? 精一杯やってるつもりだ。


「まだ、もっとできることがあるわ。今のあなたの心に正直に耳を傾けてみなさい」


 心? 僕の本心は・・・・・・・・・・・・。


「あなたは大切なものを護りたい? なら、そのために何が必要かしら? 答えはわかっているはずよ」


 わかっているのか? この結果以上に必要なものが。


「そもそも、護るという言葉を使えば何でも美談になる現代の風潮はあまりにいかがわしいわ」


 随分ひねくれた考えだ。


「弱肉強食の自然界に偽善は不要。きれい事も不要。言い訳も不要。必要なのは己に嘘をつかない、本能に忠実で真っ直ぐな心。目的があるなら手段を選んではいけないわ」


 それじゃ、理性のない獣だ。


「理性は捨てなくていいのよ。だけどそれを武器に変えることを考えてみなさい。人間としての理性、思考。それを本能に上乗せして、生きるための力を得なさい」


 理性が武器になる?


「それはきっと、人間の甘さを捨てきれないあなたには受け入れがたい、非情さを孕んでいるわ。だけど、受け入れるしかないの。


 ここであなたが生きようが死のうが、アシダカグモは虐殺を続行するわ。ここまで言えばわかるわね? あなたの選択を見せてちょうだい」


 そうか、そうだよな。僕は人間じゃなくなって法の庇護から外れて、自然の摂理が掟である弱肉強食の世界にいるのだ。


 このまま僕がここで死んでも、アシダカグモはいずれキヨミたちを襲うだろう。


 人間としての価値観は捨てなければいけない。何も犠牲にせずに得られるものなどない。


 キヨミたちの命を護るには何か犠牲が必要だ。


 いや、違う。護るなどという言い方も建前だ。僕はただ、自分が生き延びたいだけだ。


 必要な犠牲は何だ? 


 僕だけ逃げ出して、他のゴキブリたちを生け贄にするか? さすがに論外だ。


 僕の中に残っている人間の部分を捨てるか? それだけでこの危機を脱出できるとは思えない。


 他に犠牲にできるもの。生き延びるために必要なもの。



 それは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・目の前にあるじゃないか。




 そうだ。偽善もきれい事も言い訳もなく、生きるための本能に忠実に耳を傾けること。


 答えは間近にあった。


 あまりにも簡潔な答えで、見落としていた。


 僕は奴を、アシダカグモを、敵を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・殺すしかないんだ。


 僕は人間の心が残っているゆえ、あえてその選択を黙殺していた。僕の目には虫が人間に見えるせいもある。


 今の僕には、アシダカグモを殺すことは人間一人を殺すのに等しい。普通の人間がハエ叩きで虫を潰すのとは違う。


 人間の格好をしたもの、自分に近いものの命を奪うのは、人間にとって罪だ。


 罪を犯さなければならないのが怖くて、僕はその選択を最初からないことにしていた。


 だが、自然界に殺しの罪はない。全ての存する事象が摂理なんだ。


 ならば、やるしかなかった。誰かを護るために致し方ないなどときれい事は言わない。


 過程は正直に受け入れる。僕は僕の意思を持って、目の前の命を奪わなければならない。


 答えが出た。僕は・・・・・・。


「・・・・・・僕は・・・・・・・・・・・・あなたを殺して・・・・・・・・・・・・そして生きる」


 体中に強烈な熱が走った。内側から何かが多量に湧き出してくる感覚に襲われる。


 全身の皮がはち切れそうだ。いや、もう亀裂が入り始めている。赤い光が溢れていた。


「うぁぁぁぁあああっぁぁああああああああ!」


 痛みで悲鳴がほとばしった。これは死の痛みじゃない。もっと別の何かだ。


 体中が赤い光で包まれる。


 あぁ、僕は変わるんだ。変わってしまうんだ。


 成虫ゴキブリである僕はこれ以上形を変えるはずはない。


 だが、今の僕は成虫よりも上の段階へ移ろうとしている。通常の昆虫では到達し得ない、未知の領域へ。


 僕は、目の前の命を奪うために、相手を殺す力を得るために、皮を脱ぎ捨て、“変態”する。

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