第27話 悪魔からの逃走

 体が重い。動いている気がしない。


 恐怖がわたしたちの命を飲み込もうとしている。


 死そのものが急速に近づいている。


 全力で走っているが、とても振り切れない。


「交差しながらにジグザグに逃げるんだ!」


 トウカのかけ声で、あたいたちはお互い交差するようにジグザグに走った。これで少しでもアシダカグモを攪乱できればいいが・・・・・・。


 だが、アシダカグモはなおも距離を縮めてくる。攪乱されている様子など全くない。


「それぞれ違う方向に逃げるしかないわ」


 ヨシコが叫ぶ。


「だけど、それじゃ、誰かが殺られるぞ!」


 トウカが反論する。議論している暇など無い。だけど、誰かが殺られても誰かが助かるなら。


「あたいが囮になる!」


「ダメよキヨミ!」


「無茶なことすんな!」


「食べ物探しだって、もともとはあたいが言いだしたことよ。あんたたちは巻き込まれただけなんだから。喋ってる暇はないわ。やるわよ!」


「キヨミ!」


「待て!」


 あたいは方向転換すると、アシダカグモめがけて走った。


 アシダカグモは速度を緩め、上顎を広げた。毒牙をむき出しにして捕食の体勢に入る。


 身震いするような恐怖が心臓を押しつぶそうとしたが、構わず走り続けた。


 角度を変え、ヨシコたちとは反対の方向へクモを誘導する。


 アシダカグモはあたいを追ってきた。狙い通りだ。


 このままヨシコたちとの距離を離して逃げる時間を稼ぐ。


 そのあとは、考えてない。


 だけど、やることは一つ。心臓が潰れて、脚がちぎれるまで走り抜いてやる。


 ミミコとジロウを奪った悪魔に、ゴキブリのしぶとさを思い知らせてやる。


 畳を走り抜け、壁を駆け上り、箪笥の隙間を突っ切り、部屋中を縦横無尽に駆けずり回った。


 飛ぶのは下手だけど足の速さにと持久力には自信があった。


 最初は徐々に距離を詰めてきたアシダカグモだが、さすがに疲れが出てきたのか、だいぶ失速していった。わずかずつだが差が開いていく。


 このままいけば、逃げ切れる!


 そう思ったとき、脚に激痛が走った。


「ッ・・・・・・!」


 バランスを崩して前のめりに倒れる。見ると右の後ろ脚がおかしな方向に曲がっていた。


 筋肉が断裂したようだ。


 立ち上がろうとしたが、できなかった。


 残りの脚で進もうとしたが、うまくいかない。


 急に止まったせいで心臓が驚いたらしく、呼吸もうまくできない。


 ずしりと重苦しい気配を感じて後ろを振り向いた。


 アシダカグモが仁王立ちしていた。息こそ切れているが勝ち誇ったような表情であたいを見下ろしている。


 上顎が開き毒牙が見えた。


 もう、ダメだ。


 今まで生きてきた思い出が急に脳裏に甦った。


 ジロウが生まれたこと。母親が人間に殺されたこと。初めて饅頭の餡を食べてその味に歓喜したこと。フェロモンを理由に男どもから蔑まれたこと。恋した男に振られたこと。


 体が大きくて優しいあいつに出会ったこと。

 

 目尻が熱くなり、口の中が辛くなった。

 

 恐怖以上に、絶望以上に、悔しくてたまらない。まだ、死にたくない。生きたい。生きたいよ。


 毒牙があたいに向かって振り下ろされた。


「・・・・・・ッ!」


 その時、大きくて黒い何かが猛烈な速さで飛来し、アシダカグモを直撃した。


 あたいを殺そうとした悪魔は衝撃で大きく吹き飛び動かなくなった。


 代わりに目の前に立っていたのは、異様に大きな体躯のゴキブリ。


 間違いなく。あいつだった。


「早く連れて行け!」


 あいつがアシダカグモを見据えたまま怒鳴った。


「キヨミ立って!」


「何してんだ。逃げるぞ!」


 ヨシコとトウカが駆け寄ってきて、あたいを抱え上げた。


「なんで逃げてないのよ!」


「キヨミを置いて行けるわけないわ」


「あたしたちは死ぬときまで一緒だ!」


「早く行け。ここは僕が足止めする。長くは持たないぞ・・・・・・あぁ、やべ、ダメだ。すげぇ怖い、逃げたい!」


 アシダカグモがむくりと立ち上がった。


 目は憤怒に燃え、全身から殺意が邪悪なオーラとなって滲み出ていた。


 ヨシコとトウカはあたいを抱え、居間の出口へと走り出した。


「待って、あいつも・・・・・・」


 アシダカグモがあいつに襲いかかった。いくら体躯が大きいとは言えゴキブリでは到底敵うはずがない。


 壮絶なもみ合いが始まり、アシダカグモは触肢と毒牙で獲物を仕留めにかかり、あいつは必死でそれをよけていた。


 ダメよ。あんたも逃げるのよ。


 戦えっこないよ。ゴキブリに戦う能力なんて備わってないんだよ。誰かを襲う武器なんて無いんだよ。


 あんた、今の自分の状況わかってる? 汗が凄いじゃない。脚だってがくがく震えてるし、顔も恐怖でもの凄く引きつってるわよ。


 触肢がついにあいつの腕を捕え、毒牙が突き立てられた。


 腕の関節がもげ、傷口から毒が注入される。


 あいつは悲鳴を上げ、体液を吐きながらもがき苦しんだ。


 ダメだ。殺されちゃうよ。逃げてよ。もう十分だよ。


 無茶苦茶に暴れ、毒牙が抜けた。だけどあいつは力なくその場に跪き、動かなくなった。


 アシダカグモの毒牙がもう一度、刺突の体勢に入る。あいつは何事か呟いている。こんなときに何してるのよ。早く、お願いだから早く逃げて!


 毒牙が突き立てられる直前、あいつの体に赤く輝く亀裂が走った。


「うぁぁぁぁあああっぁぁああああああああ!」


 あいつは、壮絶な痛みを感じているのか、顔を抱え、けたたましい悲鳴を上げ、ジタバタと地面を転がり廻った。


 ヨシコとトウカも悲鳴に驚いて立ち止まった。


 アシダカグモもあっけにとられ、次の行動に移れないでいる。


 亀裂が輝きを増し、視界が赤い光で塞がれ、次の瞬間、爆音と共に破裂した。


 あいつが死んだ。と、その時は思った。


 だけど、あたいたちは見た。


 破裂による蒸気が立ちこめるなか、二体の巨大な影がそびえていた。一体はアシダカグモ。その前に立ちはだかるもう一体は、あたいが知っている、あいつじゃなかった。


 傍目からもわかる昆虫の基準を遙かに超えた甲殻と、尋常ではない筋肉を備えた屈強な体格、人間のように二本脚で立つ異質な存在。


 アレはいったい何? 外観は昆虫とも人間ともわからぬあまりに奇怪なフォルムだった。


 それがまとう雰囲気は、戦意と殺意に満ちていた。捕食のための欲望を含んだ殺意とは違う、相手の死それ自体を追求するもっと攻撃的な意識だ。


 間違いない。あれは悪魔以上の、怪物だ。



 オォ―――――――――――――――――――――――ッ!



 それは、生物とは到底思えない、敵意に満ちた叫びを放った。叫びそのものが命を絶つために造られた鈍器のようだ。


 それは、空気に波動が生み出されるほどのスピードでジャンプし、アシダカグモに襲いかかった。

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