Edelweiß
村山 夏月
『君ありて幸福』
あの時、もし君の好きな所を言っていれば君の離れて行く背中を見ずに済んだのかもしれない。
だけど仕方がない。
君は君自身を嫌っていた。それ故に、君を好きな僕を嫌悪していた。
これはそんな理不尽が存在するんだと僕がこの恋を通じて初めて知った話。
市営の図書館で誰の邪魔にもならない三階の片隅。そこに置かれた簡素なテーブルで僕らは話していた。
「私の好きな所は1つもないでしょ?」
と君が戯けた様子で言う。
「そんなことはないよ」と僕は押され気味の質問に返答した。
ひどく嫌な汗が背中を流れた。そして、2人の間に重苦しい沈黙が生じた。
どうしようもなくなった僕は心の奥底に沈んだ気持ちを
「けど、出てこないってことはないってことじゃん」
虚を
しかし顔を上げて君と目を合わせた時、違和感に気づく。それに気付けるのはお互いを深く愛しあった人にしかわからないものだ。普通の関係では感じない、強烈な違和感。
僕らは愛し合う相手を間違えたのかと疑いたくなる。それほどまでに冷たく黒いものがあった。
置かれた状況を理解し、落ち着きを取り戻してから僕は受け入れることにした。
君の空っぽになった瞳には僕が映ってないことを。
さっきまでの緊張が解けて、束縛された時間がゆっくり流れ出す。遠くから本を
目の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、気付かれないように目線を彼女からテーブルの上にさりげなく移した。
小さく深呼吸をし、
「どう言っていいのかわからないんだよね」と震えを殺した声で言う。
突然の出来事に僕の
『もう、手遅れなんだ』と黒く渦巻いた心の中で呟いた。
全てが無駄になる気がした。だから、出来るだけ痛みを最小限に
それだからか、君に言われた言葉をいくら
もし、ここで君の好きな所を伝えても自己嫌悪に陥ってる君の慰めにはならないし、寧ろ、邪魔だと思われるのがオチだ。それを踏まえて伝えることができても、僕が好きな君を君自身によって汚されるのが一番の許せない問題になる。
ここで嘘をつくのは良くないと本能が呼びかけている。
だから、ここは一旦、表面上だけでも「あること」を証明するが詳細は語らない手段を選ぶことにした。
淀みある静寂が図書館の微かな夏の温度に溶けていった。
平然を装いながら彼女の目を見る。
「僕は、君の好きになったところが沢山あるよ」
「そうなんだ」と腑に落ちない様子で返された。
「うん」と宥めるようにゆっくり頷いた。
すると、君は頬杖をついて窓の外を眺めるようにし、小さく口を開いた。
それは声にしようとしない声で2秒ほど呟やかれたことはわかったが何も聞きとれなかった。
さっきの行為に何の意味があるのだろうと
短い沈黙があった。
それを不快な空気感に捉えてしまった僕は向き直り、彼女の友人について尋ねる。
「琴さんはどうしてるの?」
「凛さんはあれからどうなったの?」と前々から考えてた話題をここで使い切った。
彼女は順にその2人について話してくれた。
琴さんについては、授業中に琴さんと手紙のやり取りをしていたら怒られたことや好きな人に告白したら振られて一日中泣いていて、慰めるのが大変だったといつもの調子で語られた。
凛さんの話では、前の好きな人を諦めてからは新しい恋がすぐに芽生えて、地元の花火大会に彼氏と行って楽しそうだったと自分のことのように嬉しそうに報告してくれた。
彼女が友人について僕に話す傍ら、僕は君の好きな所についてまだ思慮を巡らせていた。しかし、答えらしい答えは浮かばず、あっという間に彼女の電車の時間が来て、2人は席を立った。
一緒に図書館を出て、此処から駅まで真っ直ぐに続く並木道を歩いた。
それまでの間に思い出されたことは幾つもあった。
君が僕より半歩先を歩いて、それについて行く形で僕が歩く僕らのいつもの歩き方。
さっきまで座っていたから気にしなかったが一緒に歩くことによって顕著になった身長差。前から微かに香る好きな人の柔軟剤の香り。
数分歩いてると僕がついて来てるのかを確認するために君が振り返る際、肩まで伸びた柔らかい黒髪が夏の日差しに照らされながらふわりと横に円を描き、僕を一瞥した後、また前を向き歩く。その様子が最後だからか、とても愛らしかった。そして以前、会った時より髪が伸びたことに気付いた。
後ろに手を組んで歩く君、それを見て微笑む僕。
僕らの中で限りなく美しい思い出を今もう一度思い出す。
既視感のあるその君の姿は、まだ知り合って間もない四月にこの並木道を一緒に歩いた時の情景そのものだった。
桜の花びらがまるであやされるように風に揺すられ、右に左にと緩やかに舞い落ちる。木々には紅い提灯が一個ずつ飾り付けられていて此処から奥まで真っ直ぐに紅色の斑点が等間隔にあり、屋台はないがちょっとしたお祭りの様だった。
子供のように無邪気な君は桜に高揚していて、僕の10歩先まで走って立ち止まった。
すると、後ろを振り向き、春の柔らかい日差しに照らされながら、笑顔で僕を手招きする。君の姿を認めるとそれに応えるように少し早めに歩いた。
君の隣まで近寄った瞬間、君にされた行為に狼狽した。それは僕の左手が君の右手にやや強引に握られた、いや、手を繋がれた。
初めて繋ぐのに何処か当たり前のような感じがして、何で今まで繋がなかったのだろうと疑問に思うくらい違和感がなかった。
だから、僕はそれを快く受け入れた。
これを切っ掛けにこの恋が始まったのは言うまでもない。
お互い初々しく照れながらも勝手に手を繋いだことに嫌な顔をしないか不安そうな君は時々、僕の顔を覗き込む。数回目の時、それに微笑んで返すと安心したのか何かの当てつけのように意地悪な顔になって次の瞬間、繋がれた左手を強く握られた。
「いひひひ」と悪戯っ子のように笑う君。
「やったなー」と言いながら僕は君の柔らかくて小さな手を少し強く握り返した。
その後、お互い顔を見合わせては声を出して笑いあった。緩い幸せを確かに感じられたそんなひと時だった。
春の陽気に背中を押された2人は繋がれた手をゆっくりと振って歩きながら桜を楽しんだ。
きっと今日で君と一緒に歩くのも最後だからか、鮮明に思い出された。
お互い調子のあった歩き方をしていて、どちらかが遅いとか速いとかはなく、お互いがお互いの歩幅に合わせている。
それは側から見たら仲が良い恋人同士に映ってるのかなと他人事のように考えては、出来ればそうであって欲しいと切実に願ってしまった。
駅に着き、改札の近くまで来たところで
「電車はいつくるの?」と訊かれて
「わからないや」とぶっきらぼうに返した。
少し間をおいて僕は「まぁ、待っていればそのうち来るでしょ」と付け加えた。
それに納得した様子の君を見て安堵した。
それから、君は肩掛けのカバンを抱き寄せ、その中にある定期券を手こずりながらも取り出した。
自分も改札内に入ろうとしたが、そういえば定期券に残高が無いことを思い出した。
入金しようにも君の電車が残り5分で来てしまうので
しかし、僕はポケットの中の定期券を出さずに立ち止まった。
彼女が定期券を持って改札に差し掛かる時、僕がついて来ないことに気づき、振り返り聞いてきた。
「来ないの?」
「うん、図書館でもう少し涼んでから帰ろうと思う」
「そうなんだ」
「うん。暑いから気をつけて帰ってね、バイトも頑張って」
「うん、ありがとう。
「ありがとう。頑張るよ」
「それじゃ、バイバイ」
「うん、バイバイ」
僕に笑顔で手を振りながら君は改札を抜けて駅内へと進んでった。それに応えるように手を振っていた僕は改札から少し離れて人の邪魔にならない場所で君の小さな背中を見ていた。
最後だから、この目に君の姿が映らなくなるまでここにいよう。
しかし、彼女が階段に差し掛かった時、肩まで伸びた黒髪は白色のセーラー服の上で大きく右に振られた。
次の瞬間、目が合う。
そして、間髪入れずに僕のところまで勢いよく駆けてきた。
改札の隣にある鉄の柵を挟んで僕らは近付いた。彼女は時間がもうないのを承知で僕に伝えたい事を思い出して戻ってきたらしい。
その言葉を耳にした瞬間、体温が夏の温度を超えた気がした。
言い終わっても真っ直ぐ僕を見つめるその瞳は潤んでいた。そこには確かに僕が映っている気がして、心が揺らいだ。
ここで君を止めれば未来が変わるかもしれない、そう思ったが言葉は声にはならなかった。
それから君は目を細め、
今さっき君に言われた言葉を頭の中で反芻する。それは、また会う約束をした人達だけに許された言葉で僕らにはもう許されてない皮肉な言葉だった。しかし、 彼女なりの優しさがあり、不器用な2人のお別れにぴったりな慰めの言葉で、悪戯っ子のような台詞だった。
「泣きながらの『またね』はずるいな」
と口から零れた。熱くなった目に映る君は陽炎のようだった。
結局、僕らは「別れよう」という言葉を口には出さなかった。
あの時、幸せの絶頂にいた2人は今後、起こるかもしれない幸せに縋るより、お伽話の結末に倣って終わらせるのが1番だと気づいたんだ。
だから、半永久的に『続くであろう』恋として終わりを迎えた。
僕はいつか大人になっても魔法にかけられたこの恋を愛してしまうだろう。
Edelweiß 村山 夏月 @shiyuk_koi
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