拾肆 アナロギアンは勝利したのか
約一分後、ロケットは雲の中に突入。その瞬間、推薬の燃焼が終わった。それと同時に頭部に搭載されたハンバーガー・プレーヤーのスイッチが入り、挟んでいたレコードが回転し始めた。
「ワーン!」
ロケット全体がスピーカーとなり、カイビョウオンを鳴らした。一瞬、雲のうねりが止まったようだった。
一方、下界では、本部の全員、そして町民もマスコミもそこに集まった人々全員が固唾を飲んで空を見守っていた。この中にスリがいたら、盗み放題だったろう。それだけ、人々は空に夢中になっていた。なぜか、蕪島のウミネコの鳴き声が、スッと消えた気がした。その刹那、雲は狂ったようにうねり始めた。
「ギュルルルギー! ズーン! バチバチ! ズーン、ギュルルルギー!」
突然、黒雲が花火にも似た光を無数に放った。同時に不思議な音も聞こえた。
「ズンズンズーン! ドドドーン!」
音が鈍く低い音に変わった。蕪島周辺に集まった人々の多くは、恐怖で耳を押さえ、中には逃げ出す者もいた。
「あのときの戦争みたいだ…」
農耕馬から降りた、源太郎は呆然と空を見上げていた。なぜか、黒雲の渦の中に若き日の自分を見たのだ。
糠塚には当然、見えなかったが、心の目には光景が浮かんでいた。軍服姿でウミネコの研究に励んでいる自分が見えた。
裕史は黒雲の中に中学時代の自分が見えた。茶の間でテレビを見ている自分だった。ドリフターズのギャグに馬鹿笑いしていた。
上村には黒雲の中に親友・さゆりと暴力夫・須田が見えた。さゆりは、疲れ、憔悴しきった顔をしていた。そんな、さゆりと須田の間に割って入り、須田を罵倒している自分を見た。
菊池も雲の中に自分を見た。それはCDの沼にはまっている自分だった。もがけばもがくほどCDの中に沈んで行くのだった。
戸倉には、小学生時代、マンガ雑誌に載っている糸川英夫の記事をむさぼり読む姿が見えた。机の上にはペンシルロケットの模型が飾ってあった。
沼袋には、幼いころ、自分には霊能力があることに気付き、それが怖くて、家に引きこもりがちだった。そんな内気な少年時代の自分が見えた。
クロフォードは高校生時代、長髪でヒッピーを気取っていた。ビートルズのレコ-ドを集め、自分でもバンドを組んでいた。そんな姿が見えた。
漁協の部屋ではさやかと由美子が並んで、無言で空を見上げていた。二人には同じ光景が見えたのだ。北海道で、幼いさやかは教会で歌っていた。そのさやかを、優しく見守っているのは小学生くらいの由美子だった。
葦毛崎展望台前の戦いで投降した文幸連の会員たちは自衛隊のトラックで搬送されていた。一番後部席に高野麻紀が座っていた。両手にはナイロン製の手錠がかけられていた。ふと、幌の隙間から空を見上げると、悶える雲が見えた。
血だらけで道に倒れている脇坂も、必死に目を開け、空を見上げていた。幼いころから脇坂は剣道に打ち込み、勉強も熱心だった。差別階級をなくし、すべての者が労働にかかわるべきと説いた「自然真営道」を著した江戸中期の思想家・安藤昌益を私淑していた。安藤は共産主義やエコロジーにも通じ、またアナキズム思想にも及ぶ一方で、尊王斥覇的な考えを持った人物でもあった。息絶える直前、脇坂は思い出した。
「そうだ、安藤先生は八戸で医者をなされていたのだ。先生、私はどこで間違えたのでしょうか…先生!」
そう叫ぶと、脇坂は息絶えた。
蕪島から一キロほど離れた場所にあるのが穴見の実家だ。居間には穴見の母、静代がいた。柱時計で正午を確認すると、車椅子をガラス戸前に移動し、少し開けて空を見上げた。
すると、まだ三十代の若々しい静代と源太郎が見えた。丸いちゃぶ台の前に小学生の穴見、その姉の姿も見えた。楽しい夕食の風景だった。もちろん、静代は車椅子ではなく、颯爽と歩き回っている。別の場面では、野良猫を抱いて帰って来た少年穴見を激しく叱っている自分が見えた。
「ネコなんか大嫌い。動物はバイ菌だらけなんだよ。さっさと捨ててきなさい!」
少年穴見は泣きじゃくりながら家を出て行った。そんな光景が途切れることなく見えた。
「ミャア」
静代はハッとして下を見た。いつの間にか子猫が足下でじゃれているのだ。これは現実だった。
「この野良…」
と、大声を出そうとしたが、思いとどまった。軽く足で子ネコをあしらい、庭へ追い出した。やがて子猫は、どこかへ行ってしまう。「絨毯にネコの毛が付いた。あー、嫌だ。コロコロしなくっちゃ」
静代は柄の長いローラー式の粘着テープを取り出すと、絨毯の子ネコがいた箇所を何度も何度も転がした。
「これで雲退治は終わったのかね。元の世界に戻ったら、そしたら、新しい炊飯器買おう。洗濯機も買い替えなくちゃ。また清潔な生活が戻るんだね。そうだ、ネコが汚した絨毯なんか気持ち悪い。絨毯も新品に交換しよう。綺麗、綺麗、綺麗が一番、綺麗な世の中が帰って来る……」
静代は満面の笑みを浮かべ、鼻歌を歌いながら再び空を見上げた。
穴見も雲の中に映像を見ていた。少年時代の穴見は、拾って来た野良ネコのことで母親・静代にこっぴどく叱られていた。
泣きながら家を飛び出した穴見は、薄暗くなった川沿いの土手に子ネコと一緒に座っていた。やがて、意を決したように立ち上がり、子ネコだけを残し歩き出した。何度も後ろを振り返り、子ネコを見た。
「あのときの子ネコは、どうなったのだろう」
それを思うと無性に悲しくなった。次の映像が現れた。ついこの前の出来事だ。智也とキャッチボールしている自分だ。ボールを受け損なった智也は遠くに消えて行きそうになる。それを必死になって追いかける自分を見た。
「智也!」
穴見がそう叫んだとき、雲がさらに叫んだ。
「ギャアアアアアー!」
黒雲はまるで生き物の叫び声のような音を発し、そして、意外なことに、醜い黒雲は瞬間的に虹のような彩りをした五色雲に変わり、やがて消えた。
その間、三秒くらいだったろうか。時間が止まったようだった。静寂の後、ウミネコの鳴き声が「ワーン」と耳鳴りのように聞こえた。それはカイビョウオンではなく、現実の蕪島の四万羽のウミネコの鳴声だった。
「雲が消えた!」
誰かが叫んだ通り、黒雲はデジタルイーターは、跡形もなく消え去っていた。
町民やマスコミの中から歓声が上がった。携帯電話が繋がるようになったのだ。
穴見と源太郎が本部前に来て、全員と握手を交わし、それぞれを讃え合った。
「報告が入りました。雲の消滅後、三八上北地方及び、岩手県北部などでロストデジタルが解消されたそうです」
菊池が受話器を持ちながら叫んだ。
「沼袋先生、先生の理論は正しかったですね」
穴見が沼袋の手を握りながら言った。
「いやいや、カイビョウオンがあの霊魂に効果があると考え、それをロケットで打ち上げる計画を立てたのは、あなたたちの発想だ、実に素晴らしい」
「しかし、黒雲は本当に退治されたんだべか」
源太郎が、ふと言った。
「どういうこと? 源太郎さん」
「いやあ、良くはわがらないが。雲は最後、五色雲に変わったべ?」
「それが?」
「わしには、何だか雲が気持ち良さそうに見えたんだな」
「それは私もそう感ずましたな」
糠塚が目を閉じたまま言った。
「わたしには、もちろん見えませんでしたが、音とか雰囲気が良く分がります。雲は最初、苦痛の音を発していましたが、最終的には安堵した雰囲気がすごく伝わっできたんですな」
「こうは考えられませんか」
世界音盤の神戸が話に加わった。
「以前、ある企画もののレコード全集を出したのですが、それは『日本の音風景百選』。その中に蕪島の海猫の鳴き声があったんですよ。それと関係がありませんかね」
「ということは?」
菊池が興味を示し、つい口を挟んだ。
「そうですか、それで納得できました。私も、黒雲の消滅の仕方が気になっていましたが、そういうことだったんですね」
「どういうことですか、僕にはさっぱり…沼袋先生、詳しく説明してください」
菊池が沼袋に懇願する。
「蕪島の海猫の鳴き声は、『日本の音風景百選』にエントリーされるほどのイイ音なんですね。デジタル・イーターが、息苦しいデジタル社会からこぼれ落ちた人たちの憎しみの魂で形成されているのなら、海猫の究極音・カイビョウオンは、もう、無茶苦茶心地よかったんじゃないでしょうか。つまり、デジタル・イーターは殲滅されたのではなく、癒され、幸せのうちに昇天したのではないか、私はそう考えます」
「いや、そうですよ。私もそれに賛同ですじゃ」
源太郎が頷くと、糠塚もにこやかな顔になり言った。
「良がった。鬼畜米英と研究されたカイビョウオンが、こんな形で皆様の役に立っだどは…感無量です」
シンとなった場に戸倉の声が響いた。
「さて、大成功だったわけですから、日本中のデジタルイーターを癒さなければなりませんな。もう一機、宇宙博物館にカッパロケットがありますから、すぐに打ち上げられます。もちろん、次は津軽にしたいのですが、みなさん、それでよろしいでしょうか?」
源太郎がニヤリとして都倉の肩を軽く叩いた。
「もちろん、いいに決まってるべ。津軽は隣人、仲間だべ」
漁協のさやかと由美子がいる部屋を穴見と菊池が訪ねていた。
「さやかさんがミキシングしたカイビョウオンは完璧でした。ありがとうございます。糠塚博士らもご挨拶したがっていましたが、丁重にご辞退のお願いをしてきました」
「お気遣い、ありがとうございます…と、さやかが」
由美子はさやかの手話を通訳する。
「これで、また元の世界に戻ります。さやかさん、私とのお仕事お願いしますね」
菊池がそう切り出したが、さやかの表情は優れない。
「私、何だか、歌う気持ちが失せてしまいました…と。さやか、それは本当?」
通訳した由美子も、さやかの言葉に色を失った。
「デジタル技術を駆使し、エフェクターをかけまくって造り出した声なんて、所詮ただのフェイクなんです…と、さやかが」
通訳する由美子の声が消え入りそうになる。
「だから、それは違うと何度も…」
菊池が必死の形相で言う。
「海猫のカイビョウオンは、余計なノイズを消して造りました。これは究極の純粋生音です。これが、デジタルイーターを癒した。ところが、私の手法はそれと正反対。余計な音を加えて、偽物の生音を造り出す。そして、ニセの天使の歌声は、多くの人々を癒すと騙して来たんです…と、さやかは…もう、さやか、馬鹿なこと言わないで!」
「ほんとです、さやかさん、それは違う!」
「しばらく、歌は止めます、ごめんなさい…ってさやかさんは言ってるよ。菊池、今日は、もう帰ろう」
最後の通訳は、手話が少し分かる穴見がした。
五月三十日、午後一時。弘前市のリンゴ公園に設置された発射台からカッパロケットが打ち上げられた。津軽上空に居座っていたデジタルイーターは数分後、五色雲に変化し、その後、消滅した。
その後、都心のロストデジタルが解消、国会では福部首相が万歳三唱して喜んだ。後ろに控えていた森安官房長官は、相変わらず仏頂面のままだった。
こうして、対デジタルイーター海猫作戦は日本全国で遂行されることが国会で決まり、急遽、カッパ型ロケットの大量生産が始まった。
六月一日。智也の手術が行われることになった。
穴見と澄子は手術室の前にいた。やがて「手術中」のランプが消え、医師が出て来た。穴見と澄子は立ち上がった。
「先生、智也は?」
「智也くんは頑張りましたよ」
「じゃあ」
「大成功です」
「良かった!」
澄子が両手で顔を覆った。
ストレッチャーに乗せられた智也が手術室から出て来た。
「智也!」
二人はストレッチャーにすがった。智也は目をつぶっていた。
医師がにこやかに言った。
「今は麻酔が効いていますが、起きたら、意識が戻っているでしょう。明日までは、まだ集中治療室ですからね」
「先生、ありがとうございます!」
医師とストレッチャーが廊下の彼方に消えて行った。
張り詰めていた緊張が解けたのか、穴見は椅子にドカッと腰かけた。隣に澄子がスッと座った。
「昭一さん、ご苦労様」
「僕は平気だ。澄子こそ」
「昭一さんは命がけで智也を救った。本当にありがとう…」
「いや、澄子こそ。澄子こそ、大変だったね」
「大丈夫。大丈夫だったのよ…」
澄子は何度も「大丈夫」を繰り返していたが、ついに大粒の涙をポロポロとこぼした。
翌日。穴見と澄子は集中治療室を訪れた。グリーンの衛生着をまとい、智也のベッドに静かに近づく。智也は二人に背向けた格好で寝ていた。穴見が小さな声で話かける。
「山…」
澄子が笑いを堪える。
「…」
智也がピクリと反応した。そして、寝返りを打ち、二人の方を向いて言った。
「川、山川豊ぁ! お父さん、お母さん!」
「智也ぁ!」
3人は抱き合い、号泣した。
梅雨明けに日本各地で対デジタル・イーター海猫作戦が始まった。それでも、日本上空に点在する残り百六個の雲を消滅させるのには時間がかかった。七月から始まった作戦は秋にもつれ込み、最後の打ち上げが北海道長万部で終了したのは十一月下旬だった。
こうしてロストデジタルから一年と三ヶ月、ついにデジタル・イーターはすべて消滅、日本は元の世界に戻った。パソコンと携帯電話が幅をきかす、多くの人にとっては、たぶん便利な世の中に戻ったのだった。
また、カッパロケット作戦は、世界中から注目され、特に日本同様ロストデジタル現象となっていた国々から技術の提供を求められた。
「…こうして青森県南部地方に太古の昔から伝わる、鳥が怪物を倒す伝説のように、ロストデジタルの元凶、デジタル・イーターは消え去ったのです」
穴見がテレビを点けると、裕史がニュース番組に出演していた。地デジからアナログ放送に転換した地上波は、国民の混乱と反発を怖れ、すぐにはデジタル放送を再開しなかった。
裕史は今回のスクープと国のために貢献したことでチーフプロデューサーに昇進、同時にキャスターとして大抜擢されていた。
「しかし、一体、あの黒雲の正体は何だったのでしょうか。残念ながら、いまだ謎のままです。でも、現場で密着取材をし、私なりに出した答があります。あの黒雲は、我々日本人がデジタルという便利さと引き換えに失った魂(スピリット)ではなかったのか、と。つまり、ロストデジタルとは、その魂の反乱だったのではないかと思うのです」
穴見はふっと笑うとテレビを消した。
二〇一三年十一月。CDもMDもDVDもスマホもPCも使える世の中になった。レインボウレコードの第三企画部はまた、以前のように旧カタログで作るベスト盤や自費でCDを制作するいわゆるP盤を扱う地味な部署に戻った。
上村響子はレインボウレコードを退社、もっか司法試験を目指し猛勉強中。目標は、DVに泣く女性を救う弁護士だ。
相変わらず生意気な菊池大輔は「じゃないですかあ」を連発、ことごとく穴見の出す企画にケチを付けていた。しかし、穴見はそんな職場が前より好きになっていた。ロストデジタルがなくなると、定年七十歳制はあっという間に廃止されたが、不思議と腹が立たなかった。
十間橋第二小学校三年のゲーム好き田口翔平はまるで別人のようにほっそりとなっていた。噂では千原瑠璃香が「痩せたらつきあってあげる」という言葉を信じてダイエットに励んだからだという。当の瑠璃香はふっくらと肥えた。ロストデジタルの間に、自分の名前を毛筆で書くことに喜びを覚え、近ごろでは人に無理矢理サインをしたがり煙たがられている。
また、「小学生の愛」をテーマにブログを開設。結構な人気を集めているらしい。それに伴い、男の趣味も変わり、年下好みになった。
自衛隊と銃撃戦を繰り広げ逮捕された高野麻紀は、秋に仮釈放された。ある日、初めてのパチンコで大当たり。以来、パチプロとなった。
稼ぎが良くなった麻紀は、父のレコードを買い戻すために中古レコード屋を訪ねるが、数日前、レアなシングル盤の夢先ジュン「青春ゴーゴーパラダイス」は売れてしまっていた。
レコードコレクターの渋川良三は、電車に乗るたび、優先席の前に立ち、譲られると「私は老人ではありません」と頑なな態度をとってみせるという意地悪遊びに目覚め、毎日が楽しくて仕方がない。
数日前、何気なく立ち寄った中古レコード店で穴見が探していた、夢先ジュン「青春ゴーゴーパラダイス」を見つけた。四万五千円という価格に驚いたが、五千円を何とか値切り購入した。
日本で唯一のアナログレコードを製作する世界音盤化学工業では、ロストデジタル解消以後、レコードの売り上げは元に戻ってしまった。「短い特需だった」と、工場長の神戸勝はレインボウレコードの穴見に嫌味たっぷりの電話を暇さえあれば、かけている。
夕焼け堂出版はロストデジタル以来、アナログ編集のできる高齢者の編集部員を三名も増やした。だが、世の中がまたデジタル社会に戻ってしまい、社長の音喜多耕造は頭を抱えてしまった。頼みの綱はあなみ・すみこ作「アザラシゆんちゃん」がベストセラーになってくれること。音喜多は連日、社長室の神棚に手を合わせている。
上村響子の親友・大原さゆりをDVし、自殺に追いやった元・夫の須田要はロスト・デジタル消滅後、ようやく就職が決まった。念願のパソコンを扱えたが、不要パソコンを回収する仕事だった。それでも、久しぶりの就職に張り切り、成績トップとなった。しかし、一ヶ月後、棚から落下した数台のパソコンに押しつぶされ、死んだ。
始まったばかりの地上デジタル放送を、やむなくアナログに転換した地上波局は、赤字続きで地方局が数局倒産した。NHKはこのゴタゴタで、受信料の不払いがまたまた増えた。一連の騒動の責任を取ってNHK会長の長田文直が辞任。また、関東第一テレビ会長の鹿村孝も辞任を表明した。
智也を軽トラックで撥ねた弁地良文は、運送のバイトを止めて、再び、絶対人を撥ねない装置・ハネナイザー二を開発、売り出そうと出資者を募っていた。有限会社を発足、小さな事務所を構え、再出発に燃えていた。
ある日、試作品のハネナイザー二が軽トラックで運ばれて来た。弁地は事務所前の狭い路地に、バックで入って来る軽トラを誘導。が、突然、軽トラが暴走、建物の前にいた弁地を直撃した。弁地はあっけなく圧死した。
世田谷区経堂の住宅街を菊池は歩いていた。蕪島でのロストデジタル消滅の日から音楽活動を休止していた奥尻さやかから、本当に久しぶりに連絡が入ったのだ。
はやる心を抑えながら、菊池は門の呼び鈴を押した。
「菊池サン、オ待チシテイマシタ、ドウゾ」
菊池は驚いた。その声は人工声帯を使ったさやか本人の声だったからだ。さやかが直接、インターホンに出るとは、「いったい何が起こったのだろうか」、菊池は口を大きく開けたまま、家に入って行った。
居間には、いつものように、さやかと由美子がいた。
「菊池サン、私、歌ヲ、再開シタインデス」
さやかは、喉に人工声帯を当てて話した。
「ええっ、それは、もう、僕だって、どれだけ待ったことか」
「今回ハ、イツモト、違ウ、方法デ、歌イタインデス」
「ええ、そりゃもう。てことは、いいマシンが入ったんですね」
「イイエ、違イマス。コレカラ、私ハ、コノママデ、歌イタインデス」
「え? このまま、というと?」
「人工声帯から出た声で歌いたいと言うんですよ。もちろん、私は大反対ですよ」
由美子がムッとした顔で言った。
「人工声帯の声で…」
菊池もしばし絶句した。
「これまで、奥尻さやかを応援していたファンは、天使の歌声だったからよ。今さら、それを裏切って、どうすんの。さやか、あんた、その声、どう聴こえてるか知ってんの? 性別不明の、ロボットみたいな声なのよ」
「分カッテル、ソレデモ歌イタイ。ダッテ、コレガ本当ノ私ダモノ」
「だから、あんたが本当のこと出したって、それを一般大衆が共感するとは限らないでしょ」
「ソレヲ試シテミタイ」
「失敗したら、どうすんのよ。レインボウさんだって、慈善事業じゃないんだからさ」
じっと考えていた菊池が、顔を上げた。
「それ、やってみましょうか。アルバムは無理ですが、シングルなら…僕、企画通しますよ。穴見室長を味方にしますから。穴見室長なら、きっと分かってくれます」
「本気? これで、奥尻さやかはジ・エンドね」
「名前を変えるって手もありますね」
「ソレハ嫌。自分ヲ隠シタクナイカラ、コレヲスルンデス」
「それはそうですね。分かりました、これも何とか営業や上司を説得してみます」
「アリガトウ、菊池サン」
十二月中旬のある日。レインボウレコードの第1レコーディング
室に、さやか、由美子、菊池、そして穴見らが集まっていた。
「今回も、室長のお力拝借しました。ありがとうございました」
「いや、俺もこの企画はいいと思うよ。世界中の声を失くした人たちを勇気づける、最高のメッセージだよ。さ、時間だよ。今回は、本当に珍しくなった一発録りだ。リラックスしてね、さやかさん」
軽く頷き、さやかが防音室に入って行く。中には三十人ほどのミュージシャンが既に待機していた。バイオリン、チェロ、クラリネット、サックス、オーボエ、ドラム、ピアノ、ギター、ベースなど錚々たる豪華なオーケストラが控えていたのだ。
ピアノのバンマスがカウントし、イントロが流れた。そして、さやかは人工声帯を喉に当て、歌った。
「人ハ ヨウヤク 苦シミノ果テニ 楽園ヲ見ツケタ 楽園ニハ スベテガアッタ 白イ オ家ニ 甘イ果実ニ 素敵ナ ドレス ヤガテ 人ハ 感謝ヲ忘レタ ソノトキ 楽園ニ嵐ガ吹イタ…」
確かにロボットが歌うようにたどたどしかった。だが、その歌は不思議な説得力をもって聞く者の心を揺さぶった。
調整室で見守っている由美子が菊池に囁いた。
「姉が言うのも変だけど、案外いいね」
「ええ、もう、僕、感激してます」
菊池の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「菊池、やって良かったな。いい仕事になった…」
穴見は菊池の肩をポンポンと叩いた。
ある日曜日の午後。穴見がいつものように自室で音楽を聴いていた。ソファに深く腰かけ、うつらうつらと船を漕いでいる。曲はお気に入りのイタリア映画の主題曲。「太陽はひとりぼっち」「甘い生活」「誘惑されて棄てられて」、そして「太陽の誘惑~WHAT A SKY」が流れた。
ドアがスーと開いて、澄子と智也が忍び足で入って来る。智也がレコードの棚からシングル盤を選んだ。澄子が複数あるレコードプレーヤーを覗き込み、素頓狂な声を上げた。「お父さんがCD聴いて
る!?」
「えーっ!」
智也も両手で口を塞ぎ、大げさに驚いた。
「何だよ、びっくりするじゃないか」
穴見が目をこすって起きた。
「だって、お父さんが休日にレコードじゃなく、CDかけてるなん
て明治維新以来のことじゃない?」
「そうそう」
智也も澄子と並んで盛んにうなずく。
「いいじゃないか。シーデーだって。父さんはデジタルの良さも発見しようとしてるわけなんだから放っといておくれ! ところで、二人で何だよ。何か企みがあるから揃って来たんだろ?
「まあ、企みだなんて失礼ねえ。私たちの報告は明治どころか、鎌倉幕府開闢以来の快挙のお話でーす!」
「はあ、なんだい?」
「こんにちは赤ちゃん あなたの笑顔~」
智也がかけたレコードは梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」だ。
「なんだ。こんな問題簡単だぞ。作詞・永六輔、作曲・中村八大!」
「ブーッ」
智也が口を豚のように突き出し吹いた。
「もうダメね。ね、昭一さん、あたしの体型、どう思う?」
モンローのようにポーズを取った。
「ん? 相変わらずのお子ちゃま体型?」
「んもう、バカ!」
澄子、お腹をさすって見せた。
「ええっ、まさか澄子…こんにちは赤ちゃん?」
「わたしがママよ」
「じゃ、もしかして僕がパパ?」
「じゃかあしい! ほかに誰がパパやねん!」
「わー、やった。澄子、でかした!」
穴見、思わず澄子のお腹に抱きついた。
「この歳になって、二人目とは嬉しいやら、悲しいやら…」
「悲しいんかい!」
「それは間違い、ごめん! 智也、お兄ちゃんになれるな。うれしいか?」
「うん。とっても!」
「良かった、良かった。産院は絶対、デジタル最新鋭の医療設備が整っている病院だな!」
「あら? あたしは裏の産婆さんがいいなあ。アナログ万歳!」
「だめだめ、絶対、大学病院!」
「二人とも、胎教に悪いからけんかはやめてよ、もう」
外では雪が降り出し、東京スカイツリーもうっすらと雪化粧をしていた。穴見一家は押上商店街で買物を終え、帰り道を並んで歩いていた。有線のスピーカーから発売したばかりの奥尻さやか「楽園の果て」が流れていた。
さやかは、この新曲発売に合わせ、これまで発表した歌がコンピュータで加工したものだったことをカミグ・アウトしていた。さらに自分が声帯がないこと、人工喉頭で声を出していることも発表した。この勇気ある発言は大いなる共感を呼び、さやかが飾らぬまま、本来の声で歌った新曲は、あっという間にチャートを急上昇した。
穴見一家が見慣れた、いつもの公園に差し掛かったとき、「ミャア」
という鳴き声が聞こえた。
「え、ウミネコ?」
穴見が空を見上げて言った。
「違うよ、子ネコが木の上にいるんだよ!」
智也が公園の木の側に走り寄った。木の上で子ネコが降りれなくなり、ブルブルと震えている。頭には雪が積もっていた。
「ねえ、ネコ、連れて帰ろう?」
穴見と澄子は思わず顔を見合わせた。そして、同時に笑顔で頷いた。
「よし、我が家はネコに縁があるんだな。この子、ウチの子にしよう」
「やったー!」
穴見は手を伸ばし、子ネコを掴み、智也に手渡した。智也は雪を払い、子ネコを抱きしめた。
「可愛い!」
「ちゃんと、お世話するのよ」
澄子も子猫を撫でながら智也に言った。
「うん!」
「よーし、早く帰らないと、紅白が始まっちゃう!」
穴見一家が公園を出ると、ギャル風のスタイルの女の子がスマホで話しながら通り過ぎた。それを見た智也が、ふと空を見上げ立ち止まる。
「もう、あの雲出ないよね、お父さん」
「あ…ん…そうだな…」
穴見は智也の質問に曖昧と答えるだけだった。
二〇一三年十二月三十一日。地上デジタル放送が再開した。
小さな木造住宅に住む津川清子は、八十七歳になっていた。そして今日も、いつものように家具調テレビを見ていた。
「ザーッ」
一年三ヶ月だけ見えた画面はまた、元の砂嵐に戻っている。
「次はフランク永井が歌うよ、お父さん、早く座って!」
清子は誰もいない台所に向かって呼びかけ、すぐにまたテレビを凝視した。
「あっはははは、伴淳はおかしいねぇ、お父さん!…」
清子さんには、あの楽しかった日々の映像が確かに見えていたのだった。(了)
ロストデジタル~アナロギアンの逆襲 鮫崎香帆 @bud1484
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ロストデジタル~アナロギアンの逆襲の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます