後編
それから優馬とはひとつも言葉を交わさずに民宿に戻った。話したくなかったわけじゃない。何と声を掛けたら良いか、わからなかった。玄関先におばさんがあわててやってきて、
「お姉ちゃん、家に電話しな。家の人に言わないで来たんだって?お父さん連絡待ってるから」
と、一息に捲し立てた。確かにお父さんに行き先は言わなかったけど、行きたいところに行けって言ってたのに。
電話を借りて掛けてみると、ワンコールもしないうちにお父さんが出た。
「おい、馬鹿!楓子、お前どこに居るんだ」
「式根島だよ。連絡しようと思ってた」
「式根島だよじゃねぇよ!あいつのとこじゃねぇのか」
お父さんがちょっと緊張した感じで「あいつ」と言うとき、それはお母さんの事だ。でもなんだってお母さんのところに行ったと思ったんだろう。
「違うって。行きたいところに行けって言ったじゃん」
「だから!あいつのところじゃねぇのかよ」
二人が離婚してから、お母さんの所に行きたいなんて、私は一言も言った事がない。もう、いつもこうだ。勝手に私の事を決めつけて、言わなくても何でも通じてると思ってる、こういうところが嫌だった。行き先を書いて残して来なかったのは、私も悪かったけど。
どうやら、私がお母さんの家に行ったと勘違いしたお父さんが、今日になってお母さんに連絡を入れたらしい。行っていないとわかるや否や、すぐさまパソコンの履歴を調べて、そこで見つけた伊豆諸島の観光協会に電話をし、子供だけで宿泊している宿を探したそうだ。
「皆に迷惑かけてんだぞ!明日すぐ帰って来い!」
かなり怒っている感じで、私は弱気になって「わかった」としか言えなかった。かなり、大事になってしまったような気がする。明日私は、帰らなくてはいけないだろう。
私の電話が終わった後、優馬も家に電話を掛けていた。その時姉弟じゃないのがばれて、宿泊者名簿を書き直すことになった。
夕飯はお刺身で豪華だったけれど、あまり味がしなかった。残すのは悪いと思ったので無理やり詰め込んだ。部屋で一人きりになる。和室にはちゃぶ台と、その上にお茶のセットが備わっていて、そのほかの家具はなかった。布団を敷く気にもなれず、畳に横たわる。ふすまの向こうには、優馬がいるはずだ。いま、どんな顔をしてるんだろう……。
「私、明日帰るね」
ふすまに向かって話しかけてみた。答えてくれないかもしれない。
「知ってる。聞いてた」
くぐもった声が返ってくる。
「僕も帰らなくちゃいけない」
私たちの家出は明日終わる。
「ねえ優馬、開けてよ」
「嫌だよ」
「話そうよ」
「何を?」
「何か……」
話すことを探して記憶を辿ってみた。
「私、昨日はじめてモノレールに乗ったんだよね。出航を待ってる間に。宙に浮いてるみたいで、未来の乗り物って感じだったな」
「……それってゆりかもめ?」
意外にも話に乗ってくれた。
「たぶんそう」
「ゆりかもめはモノレールじゃないよ」
「え、そうなの」
「タイヤで走ってるんだ。あれ」
「タイヤ?車なの!?」
「車じゃなくて、鉄道車両の一種」
はあー。知らなかった。思わぬところで勉強になってしまった。
「電車に詳しいんだ?」
「いや、詳しいってほどじゃないけど……」
私が西武線を使っていると話すと、山口線もゆりかもめの仲間だよと教えてくれた。私が山口線と聞いてもピンと来なかったのを感じ取ったのか、「レオライナー」と付け足した。ああ!あの遊園地に行くやつだ!小さい時に乗った記憶がある。
「めちゃくちゃ詳しいじゃん!」
それから鉄道雑学をいくつか聞いて、私もちょっとしたものになったかもしれなかった。優馬の説明はわかりやすくて、私の興味を惹きやすいような話し方をした。ずっと聞いていたかったのに、話は途切れてしまった。
寝るには早い時間だと思うけど、今日は結構動き回ったし、疲れて寝ちゃったのだろうか。
「……あのさ」
衣擦れのような音がして、優馬の声が近くなった。たぶん、ふすまの向こうで優馬も横になったんだ。
「どうして家を出たかったの……」
優馬が私に問いかけた。
「優馬に比べたらすごいくだらない理由。家にも学校にも居たくなくて」「うちは今年になって両親が離婚してるんだけどね、突然お父さんと二人暮らしになって、全然距離感がわかんないの。元からそんなにお父さん好きじゃなかったし」
これを人に話すのは初めてだ。こんな事を話せる友達はいない。
「お母さんの所は?」
「……それがさ、お母さんの事はもっと嫌いなんだよね」
そりの合わない三人が、なんとか家族の形を保っていて、そのバランスが失われた今、全部がバラバラになってしまった。その事が、私の足元をぐらつかせてまっすぐ立たせてくれなかった。それぞれに愛されていないわけではないと思う。でもどうしようもなく何かが欠けていた。私は、もっと家族を愛したかった。
目と鼻の奥がじわりとして、鼻水が出そうなのをすすり、話を変えた。
「それで今日思ったの。中学卒業したら働いて家を出ようって」
優馬は何も言わなかった。
その沈黙の間に、私はあの温泉で言わなきゃいけなかった事を言う決意をした。
「優馬はさ、昨日の船に居たような奴とは全然違うよ」
「違わないよ」
食い気味に言葉が返ってくる。
「なんで。私を助けてくれたじゃん」
「その行動に下心がないかどうか、君にはわからないでしょ」
「下心って」
「一緒に島を回るべきじゃなかった」
少し残念な言葉がふすまの向こうから漏れてきた。
「三歳の時、家族とこの島に来て、海水浴場で連れ去られたんだ。数時間後に使われてない漁船で見つかったらしい。何があったのかは誰にもわからない」
私は悪い想像をしてしまいそうになるのを必死にかき消した。
「思い出すために来たの?」
「わからない。なんとなくここに来なきゃいけない気がしたんだ。お母さんに言っても反対されるに決まってる。……でも、島に着いたときに少し心細くなって、君がいると楽しそうだな、って思ってしまって、自分に負けてしまった」
「負けたってなによ、心細いに決まってるじゃんそんなの」「それは負けたとか、そういう事じゃないでしょ」
しっかり反論できない自分が悲しかった。でも違うって言わなきゃ。
「……僕は大人になるのが怖い。男を持っているのが怖い。昨日見たような大人に」
「なるわけないから!」
たまらなくなってふすまを開けた。部屋に明かりはついていない。優馬が背中を丸めて今にも泣きそうなのを見た。目を見て言わなきゃ。
「ならないよ!大丈夫!」
翌日、ここへ来た時のフェリーとは違う、小型の船に乗り込んだ。フェリーの約五分の一の所要時間で東京へ到着する高速船だ。
航行中、船のエンジン音がうるさくて、話すこともできなかった。本を読むのもだめだった。酔ってしまったから。優馬が背中をさすってくれた。最後まで情けない「おねえちゃん」ですまない。
船着き場(優馬が訂正したところによれば竹芝埠頭)に到着し、乗客が下船する準備をはじめているとき、優馬が私に向き直って言った。
「ここから別々に行こう。お母さんに見つかると、たぶん面倒な事になる」
……そっか。ここでお別れか。
「わかった。ありがとう。」
私は右手を差し出した。優馬は一瞬たじろいて、私の手を握った。そして一言、
「高校ぐらい出ないとダメだよ」
と言い残し、手を放して下船する乗客に紛れていった。
私が船を降りた時、出口の先にお父さんとお母さんが並んで立っているのが見えた。
並んで立っている二人を見るのは、もうこれで最後だろう。目に焼き付けるようにしながら、ゆっくり二人のもとへと歩く。
優馬の一言に影響されたわけじゃないけど、私は高校受験をし、今は冴えない女子高生をやっている。図書委員になって、仕事のない時も図書室に入り浸っているから相変わらず友達は少ないし、親との関係もそこまで良くはない。
しかし大学受験まで決めた。家を出るためには仕事が必要で、仕事するならやってみたい仕事が良くて、その「やってみたい仕事」のためには大学を卒業しなければいけなかったからだ。中学生の時の家出の記憶は、ずっと私を支えてくれていた。
それにしても、図書室の受け付け番はどうしてこんなに勉強が捗るのだろう……。
「本を借りたいんですけど」
受付カウンターに、男子生徒が本を一冊差し出す。まだブレザーがぶかぶかで、1年生だろう。このぶかぶかのブレザーもしばらくしたらぴったりになってしまうんだから、人間は不思議だ。
「初めてですか?そこの棚にある図書カードも持ってきて下さい。自分の名前のものがあると思うので」
男子生徒はしばらく黙って動かなかった。男子生徒の眼鏡の奥の瞳が、まっすぐこちらを見ている。と思ったのも束の間、図書カードの棚へ向かい、カードを探し始めた。
「お願いします」
無事見つかったらしく、カードを受け取る。名前の欄を見て、私は再び彼の顔を見た。
「楓子」
彼が、私の名を呼んだ。
高校ぐらい出ないとダメだよ ものほし晴@藤のよう @monohoshi-hare
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