中編
「僕、家出してきたんだ」
彼の白いポロシャツと、青空と行ってしまった船。質量のある液体が防波堤にぶつかる音、爽やかに吹き付ける潮風……すべてが調和していて、私は言葉が出なかった。家出……。その言葉が頭の中で繰り返された。語尾が頼りなくかすれたのが、ほんものの証のようだった。ほんものの家出。
いつのまにか男の子が私の脇を駆けていってしまって、我に返った。小走りに追いかける。
「まって!どこいくのっ」
最近では出したことのない大声を出した。
小さな島、小さな港だ。ここから伸びる道も一つしか無いように見えたから見失いはしない。古くて白い建物の前で男の子が立ち止まる。男の子は壁に貼り付けられた看板を見ている。追い付いて見てみれば、それは島の案内図のようなものだった。建物の入り口を見上げると(2階にあった)漁港船客待合所と書いてある。このあたりに他に目立った建物はない。考えてなかったけど、帰りはここで切符を買えばいいのか。
「どこか行く当てあるの?」
もう一度聞いてみた。
「ないから見てるんだ」
男の子はこちらをちらともせず案内図に見入っている。私も特に行く当てがないので一緒に見ていたら、
「君はここの人じゃなかったの?」
と聞かれたので、
「全然違う。なんなら島の名前以外なにも知らない」
と答えた。そして
「私も家出のようなもんなの。一緒に行こうよ」
と言ってみた。小学生であろうこの子を放っておいちゃいけない気がした。
私が言うのもなんだが、親に心配をかけないように連絡するとかそういう事を、したほうが良いと思う。でも今の私の立場からするともうちょっと先延ばしにしてあげたい。あれ、これって誘拐になったりするんだろうか?
ちょっとした沈黙が訪れたので無視されたかと思ったとき、ようやく男の子がこっちを見た。
「たぶん僕ら二人でいた方が、何かと都合がいいかもしれない」
「あれっ まだ夏休みのところなんてあんだねぇ。宿はどこ?」
待合所から道なりに進んだところに観光案内所があったので、そこで詳しいパンフレットか何かを貰おうと中に入ると、案内所のおじさんに声を掛けられた。
「宿……」
私は考えなしもここに極まれりという感じで、宿の予約など一切しておらず、変な汗が出てきた。
「まだ決めてないよね、おねえちゃん」「今からでも大丈夫ですか」
そんな様子を見かねてか、弟が助け舟を出してくれる。
私に弟ができた。そういう事になった。子供が二人バラバラで行動しているより、大人に理解されやすいという事らしい。実際、今のこの状況もそうなのだろう。
「ええっ」おじさんは軽く驚いたみたいに目を見開いて「いいよ、民宿に電話すっから。何泊?」
「一泊で」
弟が間髪入れず答えたので、一泊?そんなもんでいいんだ?予算の問題かな?まあいいか。当日なんとかなるなら、明日だって何とかなるだろう。と考える。私は二、三泊くらいするつもりでいた。
「二部屋お願いします」
私もそのほうが良かったので、それも弟が言い出してくれて助かった。
「一部屋で二人泊まれるよ」
おじさんは私たち姉弟に親切心でそう言ったと思う。それでも二部屋借りたい旨を二人で伝えて押し切って、部屋をとってもらった。
「八月だったら無理だったからね」
おじさんは子供のわがままをたしなめるように言った。
それにしても、この弟はどこまでしっかりしているのだろう。私がこの子の言うように「のんきずきる」だけなのか。
パンフレットの地図に民宿の場所を書き込んでもらって、おじさんにお礼を言い、私たちはまず、民宿に向かう事にした。
港からは急な坂道が続いていた。道の脇に生えている植物が、なんとなく地元と違う気がする。弟は地図を見ながら先導してくれた。
「弟よ」
「なにその言い方」
「だって名前知らないもん。君は私をおねえちゃんって呼べばいいけど、私が君の名前を知らないのは怪しまれるんじゃない?」
「……ユーマ」
「なんて字?」
「優しい馬だよ」
おお、なんと、名前の通りに育っていますよと名付け親に教えてあげたい。
「私、フーコ。カエデコって書いて楓子」「ねぇ」
私がふざけて
「これって私が誘拐したってことになるのかな」
と言うと、優馬は立ち止まり、こちらを振り向かないまま、
「ならないよ」
と、いやに真面目な様子で答えた。
二部屋はふすまで繋がっていた。聞いてみると、廊下をはさんで向かいの部屋も同じつくりらしい。民宿は、見た目ほとんどふつうの一軒家で、中に入っても民家で、家族旅行や修学旅行で泊まったことのあるような旅館とか、ホテルみたいな雰囲気は一切なかった。風呂もトイレも共用、見に行くとやっぱり民家のお風呂という感じ。しかもかなり古い。
荷物を軽くして、民宿のおばさんに「ちょっと出かけてきます」と声をかける。夕食の時間と、レンタルサイクルがあることを教えてくれた。
自転車移動。この選択は正しかったのかもしれないけど、この島はほとんどが坂道で、上ったり下ったり、思いのほか体力を消費した。正午が近づいて日が照ってきて、まだまだ夏は終わらないのだと思い知らされる。途中にあった小さいスーパーみたいなお店でパンと飲み物を買っておいた。今私たちは、この島のポスターに使われている海水浴場に向かっている。
さすがポスターに使われるだけあって、小さいながらも景観は最高だった。周囲を岩に囲まれ、ホタテの貝殻のような形になっている砂浜で、エメラルド色に輝いて遠くからでも透明なのが見て取れた。こんなに透明な海は見たことがなかった。サンダルを持ってくれば良かったなあと後悔していると、優馬はメッセンジャーバッグから足の甲を包むような形のサンダルを取り出した。それに履き替えてジーパンの裾を捲り、海に駆けだしていく。えっ、いいなあ!
私たちは特に何か話すでもなかった。私は優馬が海で遊んでいるのをぼーっと眺めて、昨日までまとわりついていた背中のモヤモヤがすーっと晴れていくのを感じていた。家や学校から離れてみると、私が何を拒んでいたのかわかるような気がしてきた。気がしてきただけではっきりはわからない。私は虐待を受けている訳でも、いじめられているわけでもない。それでも家が嫌いで、学校が嫌いだった。最近勉強に身が入らなくなってきていて、そろそろ進路を考えろと言われると頭が痛くなる。来年、中学の最高学年になって、卒業するまでの間の事を考えるだけでも気が重いのに、ましてやその後自分から高校に通う事を決めるなんて無理だった。
こうして自分で行き先を決めて、心地良い空間が見つけられた事が私には嬉しかった。家や学校以外にも世界があるのを感じた。高校なんか行かないで、働いて、一人で暮らしたいな。
「ねえ!フーコ!」
突然遠くから名前を呼ばれてどきっとする。優馬だ。呼び捨てか。
「なーにー?」
座ったまま応答すると、海岸の端の方の、ちょっと岩が多めのところで、優馬が手招きした。砂に足をとられながら優馬のところまで行くと、海水の溜まった岩の影を指差すので、覗き込む。ねずみ色の、グニャっとした塊が岩に隠れている。優馬が頭上からそっと教えてくれた。
「たこ」
「たこだね」
海岸から階段を上ったところに、ちゃんと水の出る蛇口があったので足や手を洗って、適当な岩に座ってパンを食べた。優馬のおでこがすこし赤く火照っている。二人とも、この時間でけっこう日に焼けたんじゃないだろうか。眼鏡のあとがついたりしないのかな。優馬はよく見るとけっこう甘い顔立ちをしているなあ、などと思う。
「なに?」
顔を見つめすぎてしまった。
「……熱中症とか大丈夫?」
なんとか取り繕う。
島のほぼ最北端だった海水浴場から、まっすぐ2キロほど南下すると、そこはもう南端になる。外周12キロほどの、本当に小さな島なのだ。私はそこが気に入って、式根島に決めた。
「優馬はどうして式根島に来たの?」
谷ではなく、深い深い溝、と呼ぶのが相応しいような、山を人が歩ける幅だけごっそり削ったような、長い一本道を私たちは下っていた。
「気分」
これ以上は聞かないで欲しいのだろうか。でも、そろそろ言った方が良いだろう。
「あのさ、宿に戻ったら、家に連絡しなよ。さすがに小学生が二晩帰らないのはまずいよ」
「……そうだね」
優馬は思ったより素直に頷いた。この子は賢いので「素直に頷いたふり」かもしれない。
一本道を抜けると、狭い海岸に出た。それまで灰色だった岩肌が赤褐色に変わる。大きな岩がゴロゴロしている浅瀬に、赤く濁った水が溜まっていて、硫黄のような、鉄のような臭いが立ち込めていた。そこは自然にできた温泉だった。パンフレットによると、温度がちょうどいいところを探せばちゃんと入れる温泉らしい。海に入る準備も温泉に入る準備もないけど、足湯くらい浸かりたい。しかしスキニーを履いているために足首までしか捲れない。どうしたものか。うーん。まあ、着ているTシャツもそこそこ丈があるし、念のためリュックに入れたパーカーでも巻けばいっか?
人工物は舗装された道の手すりと、岩どうしを渡る板ぐらいしかなく、脱衣所どころかトイレの類も無かった。仕方なく岩に隠れてスキニーを脱ぎ、パーカーを巻いて、湯加減の良さそうな水たまり、海水溜まり?お湯溜まりを探す。
「何してんの!?」
周囲を散策していた優馬が私の姿を見て叫んだ。
「入れる温泉だってパンフに書いてあったよ」
「そうじゃない!なんて格好してんの?下履きなよ!」
「隠してるしいいじゃん」
「そういう問題じゃないって!馬鹿!」
馬鹿とまで言われる筋合いなんかなくない?優馬を無視してちょうど良さそうなお湯溜まりに足を突っ込んだ。おおお、本当にあったかい。
「優馬!まじで温泉だよこれ!入ってみなよ」
都合の良い話ではあるが、今この感動を伝えられるのは彼しかいなかった。
「のんきすぎる……」
そう言ったきり、優馬は私の近くに近寄ろうとはしなかった。
足湯を堪能し終わってスキニーを履き直すと、離れたところで、私に背を向けるように優馬が膝を抱えて座っていたので、隣に座っても良いか声をかけた。
「勝手にすれば」
お言葉に甘えて勝手に隣に座り、岩の隙間から覗く、荒い波を眺める。
「あのさ」
優馬が口を開いた。
「僕が小学生だからそうやって油断できるの?これが同年代の男子だったらあんな恰好した?」
無意識だったが、そう言われると、そのような気がした。同年代の男子なら、確かに控えたし、そもそもこうやって一緒に島を回っているかさえわからない。
「僕だって、昨日船に居たクズと同じ男なんだ」
その言葉に、昨晩の事を思い出して手の先が冷えた。同じ?同じって?
「僕はね」「昔誘拐されたんだって。覚えてないけど。それからずいぶん過保護に育てられてきた」
心臓が跳ねた。誘拐。
「男は敵なんだ。お母さんにとって。でも僕は、自分が男になるのを止められないのがわかってしまった」
「だから逃げ出したんだよ」
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